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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」ハ「無限性」:「対立」と「統一」の「無限の運動」(「無限性」)こそが「実在」の「真理」だ!

2024-05-18 15:12:27 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」ハ「無限性」(120-121頁)
(23)「区別」・「対立」は「一つのもの」からでたものとして相互転換して「統一」をかたちづくる、つまり「根柢の一」に帰る!「根柢の一」あるいは「統一」も、おのれ自身を両分してその「二」になり、そうしてまた「対立」が現れるが、その「対立」が互いに他に転換して「根柢の統一」にかえる!このように「無限の運動」が行われる!
★さて「説明」(Cf. 「同語反復」)が成り立つには「根本的統一」ということが大切になる。(120頁)
☆「空間と時間」、「陰と陽」などという「区別」があらわれるが、そのあらわれた「対立」は、単に「対立」とし「分離」するだけでなく、「一つのもの」からでたものとして相互転換して「統一」をかたちづくる。つまり「根柢の一」に帰る。(120頁)
☆しかし「根柢の一」あるいは「統一」も、「対立」と別のものではなく、おのれ自身を両分してその「二」になり、そうしてまた「対立」が互いに他に転換して「根柢の統一」にかえるというような「無限の運動」が行われる。(120頁)
☆この「無限の運動」が「真理」として成り立つということを、「説明」は示す。(120頁)

(23)-2「説明」(「無限性」という「真理」)は「思惟の主観的な運動」ではない!「説明」はむしろ「客観そのもの、実在そのものの運動」だ!ヘーゲルはこの「運動」を「無限性」と名づける!「実在」の「無限性」(「無限の運動」)こそが「真理」だ!
★「無限の運動」(「無限性」)が「真理」として成り立つことを示す「説明」は、「思惟の主観的な運動」にすぎないのではない。(120頁)
☆「悟性」とは、対象を「感覚」・「知覚」する運動ではないにしても、「対象」の「内なるもの」を思惟するものだから、(「悟性」による)「説明」は「主観的にすぎぬもの」ではなく、むしろ「『客観そのもの』、『実在そのもの』の運動」だ。(120頁)
☆「実在そのもの」は根柢に「統一」があって、この「統一」が両分して「対立」が起こり、またその「対立」が「統一」にむかうという「運動」を行っている。ヘーゲルはこの「運動」を「無限性」と名づける。(120-121頁)

(23)-3 「真無限」と「悪無限」!
★ヘーゲルは「無限」について、「真無限」と「悪無限」という二つを考える。(121頁)
☆それからそれへと「無限」に続いて、どこまでいっても「対立」や「他者」が残るのが「悪無限」だ。これに対して、自分に対する「他者」が一つも残らないのが「真無限」だ。(121頁)
☆したがって、根柢に「統一」があって、その「統一」がおのれを分けて二つの「対立」を生じ、また相互転換によって一つに帰るという運動は「真無限」だ。(121頁)
☆「実在」そのものが「真無限」であることを示すのが、即ち「説明」だ。この意味でヘーゲルは、一方で「説明」は「同語反復」と悪口ばかり言っているように見えるが(Cf. 119-120頁)、実はヘーゲルは「説明」に積極的の意義を認めている。(121頁)

★なおヘーゲルは「説明」を通じてえた「無限性」(「真無限」)の見地、すなわち①「説明」(「無限性」という「真理」)は「思惟の主観的な運動」ではない、②「説明」はむしろ「客観そのもの、実在そのものの運動」だ、③ヘーゲルはこの「運動」を「無限性」(「真無限」)と名づける、④「実在」の「無限性」(「真無限」としての「無限の運動」)こそが「真理」だとの見地から、ヘーゲルは「シェリングにおける『対極性一致の原理』」を解釈する。(120-121頁)

《参考》シェリング(1775-1854)はドイツ観念論とロマン主義の立場に立つ哲学者。5歳年長のヘーゲルおよびヘルダーリンと親交を結び、フランス革命への熱狂的な共感を共有した。「主客の根源的同一性」(「対極性一致」)を原理とする「同一哲学Identitätsphilosophie」を打ち出し,ヘーゲルに影響を与えた。晩年のシェリングは,神秘主義に傾く。
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