DIARY yuutu

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山之口貘(1903-1963)「元旦の風景」『鮪と鰯』(1964年):「ぼく」は我儘&「女房」の負担が増える 

2018-02-12 18:34:08 | 日記
 元旦の風景 

正月三カ日はどこでも 朝はお雑煮を
いただくもので
仕来たりなんじゃありませんか 
女房はそう言いながら 
雑煮とやらの
仕来たりをたべているのだ
ぼくはだまって 
味噌汁のおかわりをしたのだが
正月も仕来たりもないもので 
味噌汁ぬきの朝なんぞ 
食ったみたいな
感じがしないのだ

《感想1》
「女房」の言うことが正論だろう。
「ぼく」は、我儘だ。
正月には、「女房」は、お雑煮と味噌汁を両方、用意しなければならない。
負担が増えるだけだ。
「ぼく」が自分で朝食を作ればよいのだ。

《感想2》
詩が作られたのは、昭和30年代と思われる。
当時は、「男子厨房(チュウボウ、台所)に入らず」と言われた。
だから「ぼく」が自分で朝食を作ることがない。
かくて「女房」の負担が増えるだけだ。

 A Situation of New Year’s Day

On first three days of New Year’s Festival, we should eat o-zouni, that is, soup with rice cake at breakfast.
It is Japanese custom, isn’t it?
While saying so, my wife is eating custom, that is, what with zouni.
I remain silent and eat another bowl of soup with soybean paste.
I am indifferent to both New Year’s Festival and custom.
I can’t feel that I eat breakfast when I don’t eat soup with soybean paste in the morning.
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「ペルシャ絨毯の哲学」について:W. S. モーム(W. S. Maugham)(1874-1965)『人間の絆(Of Human Bondage)』(1915)より

2018-02-12 17:08:36 | 日記
(1)「ペルシャ絨毯の哲学」(モーム)
モームの『人間の絆』は、「ペルシャ絨毯」の哲学について、語る。
彼は、人生とは、さまざまな事件、行為、感情、思想、そうしたものが、生み出す意匠(デザイン)だと言う。

《感想1》意匠性それ自身に、特に、意味はない
人生が、一つの「意匠(デザイン)」だというのは、その通り。
だが、自然も含め、あらゆる出来事に、意匠性がある。
意匠性それ自身に、特に、意味はない。

(2)世界史的意味・宇宙的意味・神的(宗教的)意味:人生は、無意味で無目的だ!
モームは、一方で、《人生とは、自分の喜びのために、なにかをしただけであって、それ以上の意味はない。
その限りで、人生は、無意味で無目的だ》と言う。
つまり、彼は、《人生に、世界史的意味、宇宙的意味、神的(宗教的)意味はない》と言う。

《感想2》宇宙は、意味を知らない
宇宙的意味は、そもそも存在しない。
言いかえれば、宇宙は、意味を知らない。
「意味」は、人間の心にのみ属し、それは、《望ましいという感情を生み出す観念(理想、イデア)》だ。
宇宙は心を持たない。
つまり宇宙は、《(感覚し、)感情を持ち、欲望し、意図する》ことがない。
宇宙は、《観念(理想、イデア)に対し望ましいという感情を持つ》ことがないので、宇宙は、意味を知らない。
(※ただし、《宇宙が存在する》限りでは、《宇宙は感覚している》と言ってもいいかもしれない。)
(※心は、感覚においては、物の出現そのもの、つまり物そのものだ。心は、感覚だけでなく、感情、欲望、意図も含む。《感情、欲望、意図》が、狭義の心だ。《物そのものも含む心》は、モナドor超越論的主観性と呼ばれる。)

《感想2-2》人生(行為)は、世界史的目的の実現をめざす限りで、意図的で有意味と言える
人生に、世界史的意味は、見いだしうる。
世界史的目的を君が解釈・発見するなら、その目的への寄与が、君の人生(意図的行為)の世界史的意味だ。
もちろん、君の人生が、世界史的目的の実現に、役だったかどうか不明なことが、しばしばだ。
結果が出ない場合は、無意味とも、言いうる。
しかし結果が出なくても、君の人生(行為)は、世界史的目的の実現をめざした限りで、非意図的でなく、かくて意図的で有意味と言いうる。

《感想2-3》宇宙の存在の根拠を、問う限り、宇宙を超越した存在、つまり神の存在が要請される
《人生に、神的(宗教的)意味を求める》にいたる動機が、人間にはある。
神(宗教)は、人間の有限性(死の不可避性)に由来する。
では、《人間に有限性が運命づけられたこと》の根拠は何か?
つまり宇宙(自然、物世界)(人間は《自然、物世界》の一部だ)が、このように存在する根拠は何か?
宇宙の存在の根拠は、宇宙の中にはない。
人が、宇宙の存在の根拠を、問う限り、宇宙を超越した存在、つまり神の存在が要請される。

《感想2-3-2》科学は、宇宙の中の出来事しか問えないから、宇宙の存在の根拠を問うことができない
神の存在の要請が、非科学的というのは確かだ。
なぜなら、科学は、宇宙の中の出来事しか問えないから、宇宙の存在の根拠を問うことができないからだ。
宇宙の存在の根拠を問うことは、科学の範囲外、つまり非科学的だ。

《感想2-3-3》宇宙は、意味を知らない
人生に、宇宙的意味はない。
それは、そもそも宇宙が、意味を知らないからだ。
すでに見たように、宇宙は心を持たない。
それゆえ、宇宙は、観念(理想、イデア)に対し望ましいという感情を持つことがなく、宇宙は、意味を知らない。

《感想2-4》
モームの《人生に、①世界史的意味、②宇宙的意味、③神的(宗教的)意味はない》との主張を以上検討したが、次のように結論する。
①人生に、世界史的意味がないとの、モームの主張は、誤りだ。《人生(行為)は、世界史的目的の実現をめざす限りで、意図的で有意味と言える》。(参照《感想2-2》)
②人生に、宇宙的意味がないとの、モームの主張は、正しい。それは、そもそも宇宙が、意味を知らないからだ。(参照《感想2-3》)
③人生に、神的(宗教的)意味はないとの、モームの主張は、《宇宙の存在の根拠を、問う限り、宇宙を超越した存在、つまり神の存在が要請される》との観点から、正誤が判別される。
宇宙の存在の根拠を《問う》ならば、人生の神的(宗教的)意味は存在しうる。人生に、神的(宗教的)意味がないとのモームの主張は誤りだ。
宇宙の存在の根拠を《問わない》ならば、人生の神的(宗教的)意味は存在しない。(存在がそもそも問われないので存在しない。)人生に、神的(宗教的)意味がないとのモームの主張は正しい。

(3)運命論者
モームは、「なにか人間に、選択力があるかの如く思うのは、結局単なる幻覚」だと言う。彼は、運命論者だ。

《感想3》人間(心)とは、いわば選択そのものだ
「人間に選択力がある」のは、「幻覚」であるのか、モームの主張は、検討されねばならない。
人間の心は、《感覚、感情、欲望、意図》からなる。
特に、狭義の心である《感情、欲望、意図》は、選択はこれらに基づくから、選択の内実そのものだ。
人間(心)とは、いわば選択そのものだ。

《感想3-2》選択「力」がない:選択が、《容易には実現されない》!
モームは、人間が「選択しない」と言っているのではない。
彼は、選択「力」がないと言っているのだ。
つまり、モームは、人間の選択が、《容易には実現されない》と言っている。
これは当然だ。選択された行為は、物世界(自然)および他者たち(社会)と対峙する。この意味で、選択「力」が、個人の人間にあるわけがない。
「選択力がある」と思ったら、それは、確かに「幻覚」だ。

《感想3-3》「選択」が無意味ではない:自分の選択力がある部分と自分の選択力がない部分
だからと言って、「選択」が無意味ではない。
すでに見たように、人間の(狭義の)心は《感情、欲望、意図》であり、心とは(行為の)「選択」そのものだ。
もちろん、選択が、実現するかどうかは、全くわからず、実現すると、思いこむ方がおかしい。
「人間に、選択力があるかの如く思う」のは、「幻覚」で、普通、そんなことを思う人はいない。

《感想3-4》自分の選択力がある部分と自分の選択力がない部分
人間は、多くの者が、選択力がほとんどないと知っていて、しかし、選択しつつ生きるのだ。
「選択しつつ生きる」限りで、人は運命論者でない。
と言うよりも、自分の選択力がある部分(自由意思論者的な面)と、自分の選択力がない部分(運命論者・決定論者的な面)を分けて、普通、人間は生きる。

(4)人生は夢幻だ
さらにモームは、人生は「現象と空想が、たくみにない合わされた、途方もない手品」だとも言う。彼は、人生は、「夢幻」だと言う。

《感想4》人間の有限性(死の不可避性)
人間の有限性(死の不可避性)からすれば、人生は「夢幻」だ。それは当然だ。

《感想4-2》至高の現実
しかし何という圧倒的で、苦痛に満ち、抵抗する「物」、抵抗する「他者たち」という現実!
モナド(心or出現する世界そのもの)は、現実(感覚世界or物世界)と夢と空想(虚構)からなるが、このうち現実は、至高だ。

《感想4-3》至高の現実を、「夢幻」と思うことは、あまり多くない
この至高の現実を、「夢幻」と思うことは、あまり多くなく、普通、次のような場合だ。
①それは、現実(感覚世界or物世界)が、圧倒的でなくなり、平穏な時だ。
例えば、自動車にはねられたり、機械に巻き込まれたりする危険もなく、自分を怒鳴りつける上司・客もなく、いじめる他者、強制的に自分の身体を従わせる公権力の強制(逮捕、収監)もなく、借金取りに追われたり、ホームレスとなって味わう空腹・寒さの苦痛などもない時だ。
①-2 現実がこのように平穏な時に、《人間の有限性(死の不可避性)からすれば、人生は「夢幻」だ》という思想・観念が可能となる。
②現実(感覚世界or物世界)が「夢幻」となるのは、(志向の現実における)過去が《想起》された時だ。《想起》は、今の現実(感覚世界or物世界)と一貫性・連続性を持つ限りで、現実のうちに存在したものとされるが、今は存在しない点で、現実性の程度が弱い。かくて「夢幻」(夢・空想)に似る。

《感想4-2》「夢」と「空想(虚構)」
Cf. 「夢」の中では、夢の現実は、至高の現実に属さない。
Cf. 「空想(虚構)」の中での現実は、虚構的な疑似時間の現実であり、至高の現実の時間と接続しない。
至高の現実の時間と接続しない点で、まさしく「空想(虚構)」的である。

(5)人生は、「ペルシャ絨毯」と同じで、人生が織り出す模様に、審美的な意味がある
モームは、一方で、《人生は、無意味で無目的だ》と言うが、他方で、《人生は、「ペルシャ絨毯」と同じで、人生が織り出す模様に、審美的な意味がある》と言う。
人生とは、一片の模様意匠、あるいは芸術品なのだ。
人生を「幸福という尺度」で測ったら、挫折や不幸に打ちのめさるだけだから、「人の一生は、もっとほかのものによって計られてもいい」とモームは言う。
人生の幸福・苦痛は、いろいろなほかの事柄と一緒に、人生の意匠(デザイン)を複雑、精妙にする。
模様の複雑さの美として、人生を観照することにより、人生の挫折や不幸に、打ち克つ。

《感想5》「ペルシャ絨毯」の哲学は、人生の終りの哲学でない
「ペルシャ絨毯」の哲学は、挫折や不幸に打ちのめさるた時、どうするかの問題を扱う。
『人間の絆』をモームが書いた時、彼は、まだ41歳だ。
だから「ペルシャ絨毯」の哲学は、人生の終りの哲学でない。

《感想5-2》「畳の上で死ねる」
人生の終りに、挫折や不幸に打ちのめされたら、大変だ。
その時は、せめて、「畳の上で死ねるだけでいい」、「雨露がしのげる場所で死ねればいい」と思えれば、何とか切り抜けられる。

《感想5-3》「忘れられない奴ばかり」
昔、藤圭子の歌、「夢は夜開く」で、「一から十まで馬鹿でした、馬鹿にゃ未練はないけれど忘れられない奴ばかり」とあったように、人生の終りに、優しかった他者たちとの思い出に、救われることもある。

《感想5-4》「終り良ければ、すべて良し」
「終り良ければ、すべて良し」と言うから、挫折や不幸に満ちた人生でも、最後が平穏なら、良い人生だったと言える。

《感想5-5》モームの「ペルシャ絨毯」の哲学は、中年者の哲学だ
《人生が織り出す模様》に、《審美的な意味》を見出す「ペルシャ絨毯」の哲学は、これまでの挫折や不幸を乗り越え積極的に生きようとする中年者の哲学であり、それは、後半生に出会うかもしれない挫折、不幸への対処力、耐久力を高めると思う。

(6)「人生の意匠の美」(モーム)
「人生の意匠の美の存在を知るのは、自分ひとりで、自分の死とともに、それが一瞬に失われても、その美しさには毫もかわりない。」(モーム)

《感想6》死の床の平穏さ
「人生の意匠の美」を、死の床で思い出すことに近い経験は、「ああ、これまで色々なことがあった!」との感慨だろう。
だが感慨を持てるためには、死の床の平穏さが重要だ。

《感想6-2》挫折と絶望;怨念と憎悪と復讐
しかし、人は、みじめなまま、挫折と絶望のうちに、死ぬかもしれない。
あるいは、怨念と憎悪と復讐に満ちて、死ぬかもしれない。
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