住職の独り言

~ご縁に触れて~

厚化粧

2024年01月11日 | 独り言

薄汚れた我が心は
泉のごとく湧きいづる

それはありなんと
我が心に化粧を
するがごとく
覆い隠し

知らぬ存ぜす
厚粧顔して
平静を装う

浅ましい我が心


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倶会一処

2024年01月10日 | 独り言
倶会一処(くえいっしょ)
 ともに一つの場所で会うということ。(阿弥陀経)には
「かくのごときの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり (諸上善人倶会一処)」
と説かれている。なお、浄土真宗などでは墓石の正面にこの語を刻む場合もある。

現代では死別の悲嘆(グリーフ)といふことが云われるが、浄土真宗では古くからまた会える世界を説いてきた。越前では死を迎えた者は、ウラ(わたし)は先にまいらせて(往生)もらうさけ、あわてんでもいいさけオメ(あなた)もまいって来いよ、と倶会一処の世界を語っていた。

参照〈倶会一処 - WikiArc (wikidharma.org) 〉



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月 掲示板

2024年01月09日 | 独り言
2026年は「令和六年能登半島地震」「日航機炎上」という惨事にテレビの正月特番も吹っ飛ぶ出来事からスタートとなりました。
今でも続く激震に、被災地の皆さまには衷心よりお見舞い申し上げます。

虚心坦懐(きょしんたんかい)
 何のわだかまりもなく
 素直な心で
 物事に臨む
 偏見なく
 心をひらく

〈2024年1月行事〉
☆毎、日曜日・朝七時
 「日 曜 礼 拝」
 (正信偈和讃繰り読み・御文章・ミニ法話)
☆20日(土)午後1時半
 「定例法話会」
  講師 弘山光称師(京都)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正月休み

2024年01月08日 | 独り言
正月に仙台の恩慶寺一家全員で二泊三日で遊びに来た
1月4日は母親も一時帰宅で皆と顔を会わせる。
その間、孫に誘われてボーリングに何十年ぶりに参戦
2ゲームしてスコアは80点台。


その後ゲームセンターに付き合ったが
いつもならゲーム代くれとねだるのに
お年玉をたんまり持っている二人は自腹で
盛んにゲームに熱中していた。
でも、兄弟とも妹(安珠)の喜びそうな人形を取ろうと盛んにチャレンジしていたが、あえなく撃沈されていた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極大慈悲母

2024年01月07日 | 独り言
人は 
自分を大切に思ってくれる人を大切に思う

眼には見えど
言葉では尽くせないけど

仏さまは
永遠なる過去より
私一人を唯々
思い続けて下さっています
それを極大慈悲母と申します
ご法義大切になさいまして
一年お過ごし下さい

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まん丸

2024年01月06日 | 独り言
「まん丸」
太陽も月も地球も
まん丸
上もなく下もない
とんがって
いがみ合っているのは
私だけ
仏さまはまん丸で
風船のように
とんがった私を
優しく 
受け止めてくれる




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正月飾り

2024年01月05日 | 独り言
本願寺や築地別院では、正月4日に正月のお荘厳をといています。
天真寺もそれにならい打敷は4日にときます。
お供えの御餅は、今年最初の日曜日礼拝(今年は7日)後お下げし掲示板の張り替えします。
一般的には12日までに平常に戻すようであります。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おかげさま

2024年01月04日 | 独り言
「おかげさま」と口にしてみよう
見えないところで
この私を支え続けに支えている
それが 「おかげさま」の意味なのだ
素直な心で 「おかげさま」と口にしてみよう

(日々の糧より )


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年01月03日 | 独り言

「誠」という字は言葉が成ると書く。

真っ先に思いついたのが、

南無阿弥陀仏という六字は

私を仏と成らしめたもう

おおいなる仏のはたらき

これ誠の道なり

南無阿弥陀仏

「この信心をば、まことのこころとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、まったく仏心なり。
この仏心を凡夫にさずけたまうとき、信心といわるるなり」
(最要抄)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年も宜しくお願い申し上げます。

2024年01月02日 | 独り言

光壽無量慶賀光新年

あけましておめでとうございます。

皆さまにおかれましては、 お慈悲の中で新年をお迎えのこととお慶び申しあげます。

私たちは、地球という大きな生命体に乗り合わせた一人一人です。

光壽無量 我は宇宙の いのちなり

私は昨年、念願叶って平泉中尊寺金色堂へお参りしてきました。

金色堂は平泉世界遺産「平泉の文化遺産」のシンボルであり、国宝第一号に指定されたお堂で、阿弥陀さまの極楽浄土の再現しており、本尊の阿弥陀如来は勿論、柱も天井も床もすべてに金箔で荘厳され、夜光貝の螺鈿細工、象牙や宝石によって飾られて東北地方で現存する最古の浄土教建築です。

お参りしていて何故金色なのかなぁ…と仏前で考えてみました。
仏説無量寿経には阿弥陀さまの極楽浄土の世界は「真金色」であり、すべてが金色である。
 また、仏説阿弥陀経には「青色青光 黄色黄光 赤色赤色 白色白光 微妙香潔」とあり、お浄土には色とりどりの蓮華が咲き、清らかな香りを放っている。それぞれが同じ色ではなく、それぞれがそれぞれに自分の個性のままに耀き、一切が調和さていると示されます。
まさに、色が金色というのは、すべてがすべて光り耀いている世界。それがお浄土なんだなぁ…と思いました。
 私たちの娑婆世界は差別があったり、虐げられたり、劣等感を抱いたり輝けないで萎んでしまったり、戦争や争いで苦しみ悲しみは絶えず輝きを放つことが出来ず苦悩の世界です。戦争の報道で男の子だ「お父さん、お兄ちゃんもみんな死んじゃったよ」と泣き叫うちひしがれている姿を目にし心が痛みます。

この根元は私という存在があり、誰かと比べて、私が正しくて、 あっちが間違っている。自分が正義で、相手が悪であり、目まぐるしい我執の争いを繰り広げ、差別や偏見を生み出しています。

私という字を辞書には、自分のこと。公平さを欠いて、自分の都合や利益を優先すること…等々示されます。
誰しも自分を守り、自身の都合で正義とし、悪を造り出す。人は誰かと比べて、こっちが正しくて、 あっちが間違っていると判断しがちです。「正義」と「悪」、そのほとんどが自分が正義で、相手が悪と思い込む。

【ものさし】
「正義」や「悪」は誰が決めたのか?

私たちは自分中心のものさしで物事を見ています。

自分の都合の良いように、自分が得するように、 自分の好きなチームが勝つように…。「私」という存在がある限り、自分中心の考え方からは離れられません。

 私が「正義」を持ち合わせる限り、私が「悪」を生み、争いが起こる。 だからこそ、「私」ではなく、 「仏さま」の智慧をモノサシで物事を見る眼を育てたいものです。

 相田みつをさんは「損か得か人間の物差し 嘘かまことか仏様の物差し」と言われます。 

浄土真宗の信心・念仏とは阿弥陀さまの智慧のはたらきをいいます。仏のさまの智慧により、偽りだらけの私の姿が浮かび上がってきます。

親鸞聖人は仏さまの智慧に出遇いよろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とか、自身を「名利大山に迷惑して…」と言われ、その愚かな親鸞こそ阿弥陀如来の救いの目当てであり、いま、その救いの御手に抱かれている事実に出遇われました
和讃には「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」とあります。
阿弥陀さまの願は苦悩する人々を、自身の苦しみととらえ、その苦悩する私を救うことにありました。
今年も皆さまとご一緒に仏の智慧を聞思しながら耀く浄土への日々を過ごさせていただきましょう。
合掌 南無阿弥陀仏




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする