「うらやむ」と「ねたむ」の違い
自分より上の人を「うらやむ」のは
「自分をその位置まで高めたいと思う」こと
「ねたむ」のは、
「その人を自分の位置まで落としたいと思う」こと
人を引きずり下ろすより
自分もそうなりたいと思う方が幸せの近道
(私感)
私の場合、ねたみを抱くことはないけど
「うらやむ」ことは多いですね。
その「うらやま」心が愚痴となるんだよね。
困ったもんだ!
「うらやむ」と「ねたむ」の違い
自分より上の人を「うらやむ」のは
「自分をその位置まで高めたいと思う」こと
「ねたむ」のは、
「その人を自分の位置まで落としたいと思う」こと
人を引きずり下ろすより
自分もそうなりたいと思う方が幸せの近道
(私感)
私の場合、ねたみを抱くことはないけど
「うらやむ」ことは多いですね。
その「うらやま」心が愚痴となるんだよね。
困ったもんだ!
地獄はお互いに鉄の爪で引っかき傷つけ
鉄の棒で相手を粉々になるまで打ち砕く
その痛ましさ苦しみは想像を絶する苦しみだそうです。
しかし、一陣の風が吹くと元に戻り
また相手を際限なく傷つけあう世界であります。
この地獄の有り様は私たちに何を伝えようとしているのか?
それはまさに、他人の罪や過ちを非難攻撃する
私たちの日常の姿でありましょう。
地獄は一定すみかぞかし。(歎異抄)
「慈悲あるがゆえに涅槃に住せず」
この言葉は無着成恭さんではなくて
インドの天親菩薩の兄
無著(むじゃく)の「摂大乗論」に示される言葉です。
無着と無著チョット似ているけど違うんですね
慈悲は苦しんでいる人をほっとけないんですね。
蓮華のように泥沼にいたりて白蓮華に育てあげる。
私の心根は欲と怒と愚痴の三毒の煩悩にどっぷり浸ながらも、
そんな煩悩熾盛の私であることさえ気づかない私
そんな三毒の沈む私の姿を照らし出してくださるのが
阿弥陀如来の光(智慧)であります。
光に照らされれば私の影を映し出すように…
今日は三ヶ月ぶりに岩盤浴へ行こうと思ったら
今日はボラン寺だ
ボラン寺は寺報発送作業します
終了後は今月誕生日を迎える方の誕生会です
午前中で終わりますので初参加の方大歓迎
次回は2月23日(金)です。
他力と言うと自分の力ではなく
他の力をあてにしているように聞こえますが
他力と言うは、
自分を磨きあげ、修行に励んでも
仏果に至ることは出来ません。
そんな私が
阿弥陀如来の本願力によってのみ仏果に至ることが出来る。
と言う意味で「他力」と言われたのであります。
それは私の傲慢心が打ち砕かれて
開かれる世界であります。
南無阿彌陀仏
美食家として名高い北大路魯山人のところに、
若い料理研究家が、チーズを土産に持って来た。
大いに気に入った魯山人に、
「家にまだたくさんありますから、お送りしましょうか」と言うと、
こんなふうにたしなめられたという。
「お客に出した物が気に入られ、
もう少し ないかと言われたとする。
私なら台所に山と積んであっても、
『残念ながらもうございません』と答える。
そうすれば客は、『もっと食べたかった』と思うだろ!
魯山人はさすがに、「最後の料理」のおいしさを知っていた。
(私感)
私ならダメだね。きっと食べて下さいと出してしまうだろう。
普段から珍しい物や高級品があると
人に食べさせたり、あげてしまい
自分で食べることは滅多にない。
もっと心のツボを押さえなくちゃね…(笑)