住職の独り言

~ご縁に触れて~

無常

2024年09月04日 | 独り言
40歳も、50歳も、自分は難無く乗り 越えてきた、と思っていた。
人生というのは、何かを身につけていく過程ではあっても、いつか、何かをゆるやか に失っていくような日々がくるなんて、そんなこと今までは思いもしなかった。

最近、朝、晩、鏡で自分の顔を見るたび、失っていく何かが見える。
時間というのは本当に残酷だと思う。
毎日 ・・・比喩でなく毎日深くなっていく皺や、増えていく白髪や、気づきたくないいろいろがある。

表面だけならまだいい。同じような 変化が中身にも確実に起こっているはずで、そういえば、仕事で同じミスをしだしたのは、いつのころからだったっけ、と思う。

口ではいくらでも言える。
年を重ね ていくことなんて怖くないと。
その分 だけ自分には身につけていく何かがあって、過ごしてきた時間があって、手に入れてきたものもたくさんあるのだから、と。

それでも、わたしは、まだ、日々衰 えていく自分の容色に納得できないでいる。
おかしいでしょう、もともときれいだというわけでもないのに。
なのに、わたしは、こんなはずではなかっと、日々鏡を眺めてため息をついだいるのだ。

神戸市兵庫区 佐々木恵60)

人は愚痴を言いながら老けてゆくんだね。
愚痴を言ってどうにもなる訳じゃないけれど
愚痴を言いながら愚痴と共に生き往く日々かな…

「蓮如聖人~三首詠歌章~ (四帖目 第四通)」
 それ、秋も去り春も去りて、年月を送ること、昨日も過ぎ今日も過ぐ。
いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえずしらざりき。
しかるにそのうちには、さりとも、あるいは花鳥風月のあそびにもまじはりつらん。
また歓楽苦痛の悲喜にもあひはんべりつらんなれども、いまにそれともおもひいだすこととてはひとつもなし。
ただいたづらに明かし、いたづらに暮らして、老いの白髪となりはてぬる身のありさまこそかなしけれ。
されども今日までは無常のはげしき風にもさそはれずして、わが身ありがほの体をつらつら案ずるに、ただ夢のごとし、幻のごとし。
いまにおいては生死出離の一道ならでは、ねがふべきかたとてはひとつもなく、またふたつもなし。
 これによりて、ここに未来悪世のわれらごときの衆生をたやすくたすけたまふ阿弥陀如来の本願のましますときけば、まことにたのもしく、ありがたくおもひはんべるなり。
この本願をただ一念無疑に至心帰命したてまつれば、わづらひもなく、そのとき臨終せば往生治定すべし。
もしそのいのち延びなば、一期のあひだは仏恩報謝のために念仏して畢命を期とすべし。…
南無阿弥陀仏


コメント
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