昨日珈琲の無言の音楽のことを書いたときに思い出したことがあります。小学校の時の音楽の授業で、西洋音楽の音符についていろいろな種類の音符とその組み合わせで音楽はできており作曲はその音の呼応であるということを教わりました。その実践として、先生が四分音符をタンと一拍子として四つの音、四分音符四つならタンタンタンタンと手拍子してそれより短い音ならタッタッタッタッタンタンなど組み合わせて拍手して生徒に問いかけ生徒がそれにタンタンタッタッタッタッなどと返すという掛け合いをやったことを思い出したのです。ひとりひとりに先生が問いかけるようにリズムを刻むと生徒は必死に自分はこんなリズムにしたぞと工夫を凝らして返していました。その時にクラスでもトップクラスの成績を残し、音楽も得意の女生徒の前で事件が起きました。先生の問いかけに手を出したもののたたかずに答えたのです。当然クラスは何が起きたのか騒然としましたが、他の生徒はこれは彼女が彼女だけに成績優秀者だと知っているので答えに詰まって答えられずにいるとは取れずに何が起こったのか騒いだのです。私はこれが全休止符での答えだと解りましたからああやったなあと思いましたが、先生の意味する問いかけだったらやはり音で答えないといけないのではと思い先生は何と答えるかとその答えに期待しました。それは、案に反して意外にもこれは大変難しい音楽で間違いではないと答えたのです。ジョン・ケージ の『4分33秒』のように深遠な音楽理念をまさか思い描いたのかというような答えをしたのです。このことを思い出すとその10数年後街の中で出会ったその優等生のスーパーのレジで立つ姿を思い出さずにはおられません。教室で起きた些細な衝撃的事件も現実のその後の世界では途端にくすんで些細な出来事に思えてきます。なんとも現実の世界の厳しく厳然としてあることか。同級生の中には早く亡くなる仲間も出てくるこの頃では幼き日に起こした事件とその結果を結び付けて何かにつなげて考えがちになりますが、果たしてそれでいいのでしょうか。人はそのたびごとに選択を迫られ熟慮の上に最優良策をとってきたと思われますが、最近の学説では選択というのは幻想で人間意思すら果たして現実なのかという説が有力です。人の自由意志の選択により物事は変化するのではなく、宇宙の原子の配置でそれは全て結果は決まっているというのです。今では2045年Singularityが起きるという話題が世間をにぎあわせていますが、果たして人工知能が人間より賢くなるということが起こるのでしょうか。そもそも人間より賢いとどのように判断するのでしょうか。コンピューターの処理速度や経験としてのデーターの蓄積は人類を凌駕できても機械が意思を持つような人格形成を果たせるのでしょうか。そんな疑問もそもそも人間の自由意思や自我などというのも妄想ならすべてはコンピューターで計算し結果が予測できるということもできるのかもしれません。そんなことを考えながら珈琲を淹れてドリッパーに湯を入れ膨らむ豆を見つめるときその豆が味わったであろう南国の風と日差しに思いを馳せ、香り出す湯気にその姿を変えた豆に成長というものを改めて感じるのでした。ジャングルから日本へそしてこの辺境の田舎で飲む珈琲と香りに人の成長とこれからの選択に何かしらヒントを語る気がして。
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