King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

簡単な話

2018年01月15日 14時00分26秒 | 珈琲

よくくるお客様で、コーヒー学校なるものに通っている人がいます。

色々資格があり、コーヒーマイスターとか何々士なるものになれるらしいのですが、最近話題になった着物の会社でも着付士のような名前の資格の人が出てきていました。この人がいないと着物が着れないという実際的な資格者のようですが、国家資格なのか業界資格なのかあやふやです。しかし、着付は実際的な技術ですぐに結果としてあらわれるものです。珈琲の場合はどうでしょう。誰でもできるしいなければできないというものでもないのですが、あの店のあの珈琲という選択となる技術が存在します。ただ困ったことに有名になることとその味というのは昨今共通とはならないのです。特にインスタ映えという言葉とともにフォトジェニックでいいねが付きやすいメニューというのが現れそれらを顕在化させました。つまり見た目だけのものも多いということを。

 

先のコーヒー学校の生徒さんとは課題について話をすることが多く、時には実際に実演して見せることもあります。当店では試飲もしていますので、来店の方に飲み比べてみましょうということで色々な豆をある視点から確かめるという飲み方も時にします。すると途端に尻込みをするお客様が多く、自分は味は解らないとか、あまり詳しくないからと敬遠するのです。日本人は格式とか格付けは昔から好きで、連詩など即興でその実力勝負などをしてきました。香りの香道などから白湯を飲み比べる遊びなどが昔からあります。得てして何でも様式化して道として誰でもその境地にたっせられるかのようにしてきた日本人ですが、それでよいのでしょうか。お茶など千利休の千家に供給していたお茶はひとつのお茶屋がブレンドして供給していたものです。つまり常に最高級のお茶の葉を得ていたとは言えません。お茶を飲むという行為から発しているのに最高のお茶を楽しむということからずいぶん離れた世界になっている感じがします。それに戦国の世のものがいまだに残っているというのもまた妙な話です。当店で試飲してみましょうと出すときにはその季節に感じる豆の解りやすい変化であり誰でも感じられるものです。そして、その劇的効果と味は一生残るほどの経験となるほど印象的に記憶されると思います。何も臆することはありません。特別にお金を払わなければやらないとか何かを買わせるための物や資格を見るものではないのです。本来誰でも感じる疑問とより珈琲豆に親しむための簡単実験だったり、飲み比べです。何も恥をかくこともありません。ただいつも私がするどんな珈琲が好きですかという問いに私はこういう珈琲が好きですと答えられる人を増やしたいだけです。

コメント
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