ソラから来たよ

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仁徳天皇(その3)

2006年04月29日 01時08分10秒 | Weblog
仁徳天皇陵に代表される古墳。
その成り立ちが、ソラからの伝言で知らされています。
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イシカミの分身は石冠のような身体をしていました。
イシカミの分身が亡くなって横になると前方後円墳の形になったのです」

綾部市には小さな古墳が1000? 近くあるのはなぜか聞いてみました。

「私はトヨウケです。 私(が作った巨人に)が作らせたのです。
なぜ作らせたかというと未来のわかる私は、必ずその事(古墳が多い)に気づいてくれると思ったからです。平野に作らなかったのは(ヤマトに)壊されると思ったからです」

「トヨウケです。
その意味(小さな古墳が多い)を知りたいと思う星述べがあらわれると思ったからです。
(所々にある前方後円墳の)大きな塚は私の子供(巨人)なのです。
その子供たちが沢山の小さな盛り土をして、星たちをあらわそうと思ったのです。
そこ(綾部)はホシノミナの近くだからです。
丘の上に作ったのは、(平野に作ったのでは)ヤマトに気づかれ壊されると思ったからです。
二つ(ヒジリ塚とショウブ塚)を平らな所に作ったのは、そこの場所(綾部市多田町)は、(イシカミの事を守ってくれる人たちの所なので“おっぱい”のつもりで作りました。
なぜ二つの塚が四角いかというと、その土地はヤマトに取り上げられ、苦労すると思ったからです。
(この地方に大きな古墳=私市円山古墳が一つだけなのは)多くのイシカミが降りていなく、イシカミの分身が少ないからです。
それに比べ、(奈良地方は)大きな古墳がたくさんあるのは、ツボの形の半島(紀伊半島)にするためたくさんのイシカミが降りて、たくさん分身がそこに集まったからです。
そして(紀伊半島が)ツボの形に出来たので、海の浅瀬であった(奈良盆地の)海水を、イシカミの分身たちが飲み干して、それから横になったからです。
それでイシカミの分身の亡骸が大きな古墳(前方後円墳)の形になり、それをヤマトの人が自分たちのお墓にしたのです。
水を沢山飲んだので(分身の遺体が)岩にならなく土になったので、お墓にしやすかったのです。
それに比べ(綾部の古墳が)小さいのは、トヨウケの巨人がイシカミの(遺)体を切り取って、盛り土にしていったので小さな古墳があたくさんるのです」

*綾部には小さな古墳が、1000近くあります。 
(30cmから7mの高さで、円墳径5mから20mまで) 

古墳は考古学では人間が盛り土をしてお墓を作ったとされていますが、鍬だけで土を掘りそれを運んで小高い所に盛る事で、これ程多くの塚を作ることは到底不可能と思われます。
そして私市円山古墳のトンネル部分はやわらかい岩だったそうで、人間が運んだのではないと思われます。
巨大な小山を人間の力で盛り上げる事は、到底不可能と思いますし、人間が盛り上げたとしたら、雨で流されて崩れてしまうと思います。
又、 奈良盆地が海であったということも情報と合っています。
亀石が西を向けば奈良盆地は海になるというのは、亀はイシカミをあらわすので、
イシカミの事に気づいたら、かつて奈良盆地は海であったことがわかるという事と思います。
古墳時代はブームのように去ってそれ以後作られなかったというのは、巨人が作った塚の数が限られ、使い切ったので古墳を作りたくても出来なかったと思います。
又大切な農地の土を、お墓の為に労力を使ってわざわざ盛り上げたくなかったからと思います。
仁徳天皇が亡くなりその人柄を偲んで、回りの人たちが Ω (オーム)の形に似せようと周りをきちっと形作ったので、立派なお墓として残されたそうです。
後の天皇はそれを真似て、イシカミの分身の遺体をお墓にしていったのだと思います。

「キ、キ、キフネのことです。
貴船とは・・・・」
「これまで一度も知らせたことのないものです。
仲間が呼んでくれたのです。
(貴船の)船の石を作ったものです。
人間*が船に乗って(大阪に)行くとわかっていたからです」
(その後、巨人は歩いて大阪に行って、仁徳天皇陵になったようです)

*)一寸法師が船に乗って大阪のイスキリの養子になり、仁徳天皇になったこと。

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以上、ソラからの伝言より。
写真は羊蹄山。

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