外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

バーナードさん、「英会話は存在しない」から、別の記事へ。

2015年09月02日 | シリーズ:日本人の英語

バーナードさん、「英会話は存在しない」から、別の記事へ

英会話1

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辞書学者、バーナードさんの「英会話は存在しない」の皮肉が分かる人がどれだけいるのか、という心配が頭をもたげます。日本に住む外国人は、よく見当違いの「日本批判」を行うことがありますが、一方、日本社会から一歩距離を置くことで、日本人の社会心理をよく言い当てることもあります。「英会話は存在しない」は、後者の典型だと思います。

数日前、読売新聞の夕刊に載ったエッセイに、この社会心理現象の傍証になる記述があったので紹介しましょう。著者は英語が話せ、外国人とも頻繁に話す方です。一対一ではなく、一つのグループに外国人と日本人が混ざっておしゃべりをしている場合を取り上げています。そういう場合、日本人同士が話すときは日本語になってしまうという例でした。そして、さらに言うには、日本人同士が英語で話すときは、気恥ずかしさを感じるということでした。「こっぱずかしい」などという表現を用いていたと思います。さらに進めて、このようなことを書いています。著者がヨーロッパに出かけたとき、非英語圏の数人と会話をする機会があったそうです。その場では、著者のみが英語しか話せないという状況でした。その際、著者を気遣ってほかのメンバーはみな英語で話したそうです。著者によれば、さすが欧州人は外国語の扱いに慣れていると。

私にもそういう場を経験したことが何度もあります。日本人は、日本語のできない外国人をほったらかして日本語で会話する傾向があります。なんでその外国人を孤立させるのかと私は思い、なるたけ、おぼつかない外国語で話したものです。

ABCここで気になるのは、「こっぱずかしい」と感じる心理です。この心理が著者だけなく、多くの日本人に共通するものだとしたら、これはある社会心理を物語っていると言えないでしょうか。

外国語で話すということが、意思の疎通を図るというだけでなく、何か特別の感情を伴うということです。数十年前ですが、パリなどに旅行する日本人は、日本人と会っても挨拶せず、目をそむけると言われていました。今はどうか知りませんが、その心理と同じものではないでしょうか。

「英会話」というのが、意思の疎通だけでなく、それ自体がある価値を持ったものだと見なされているのです。その価値は、「虚栄心」と呼ぶものと似たものでしょう。ですから、相手の日本人が自分に英語で話しているのを見ると、自分の虚栄心を鏡で映して見たような気がして、「こっぱずかしく」なるのでしょう。

パリの日本人バーナードさんが、「英会話は存在しない」と言ったときの「英会話」にはそんなイメージも含まれているのではないでしょうか。意思の疎通ではなく、ある種の自己満足のために行われているのが「英会話ブーム」であると。しかし、バーナードさんは単に日本人を皮肉っているだけではなさそうです。虚栄心という内向きの感情に捉われていると、正確に理解し、正確に伝えるという言語の本来の役割がおろそかになると警告しているのではないかと思います。

私がここで一言付け加えるとすれば、日本人の「気配り」とか、「おもてなし」とかは本当なのかな、という疑いです。もし隣にいる日本人に気取っていると思われたくないというエゴに捉われて、会話のグループにいる外国人を疎外するのは、むしろ、気配りが欠けている、ということではないでしょうか。

最近は、そういうことは少なくなったのでしょうか。パリの日本人観光客どうしも気軽に挨拶を交わせるようになったのでしょうか。

 

 

 

 


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