外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

リーディング中心の英語学習の問題点

2019年07月29日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

リーディング中心の英語学習の問題点

2019年、英語入試外部委託への反対の請願、TOEICの初回撤退などいろいろ事件が起きていますが、なるべくこのブログでは時事的な政治的議論は避けたいと思います。「やった!」と思っている人も多いでしょうし、なんとなくムードで政治に絡み取られそうなので、とくに注意したいと思います。

数回前のエッセイで請願など自己満足に陥るのが関の山だと書いたので、「それみたことか」と言われそうですが、活動家の口吻を見る限り筆者の疑いは消えません。あるネット企業が文科大臣に献金して、ということを主張する大学教授がいました。もし、「ネット企業の献金という圧力もあるかもしれないが、それに抗する我々の論理が足りなかった」と議論を展開するのであればよいのですが、「資本の論理」を批判することにとどまる限り、それは政治、革命の論理です。英語教育論とは少し違ってくるでしょう。別の論者は英語教育論を展開しながら、途中で平和憲法が出てきたり安倍首相が出てきます。これらの論者には日本語の段階で問題がありませんか。ましてや英語教育など論じられるの、という疑いが生じます。言語は通じてなんぼ。英語教育に論陣を張るならそれを期待する読者に応えてほしい思います。「そうだ、そうだ」と言ってもらいたい気持ちのみ伝わって来るだけです。書き手には読者という他者が見えていない、と言ってもよいでしょう。(政治的立場が右が左かは関係ありません。)

以上、英語諭を論じている人が、英語以前に、日本語に問題があるということの例でした。時事問題とはこの辺でおさらばして、英語が他者の言語だということがつい忘れられがちだという一般論へ話を持っていきます。

少し前、福沢諭吉のエッセイで、福沢は日本人に通じるようにバターを味噌と訳したという例を挙げましたが、これだけでは不十分です。「通じる」、これは必要条件です。十分条件ではありません。「通じさえすればよい」というものではありません。最近、私が未読の、マーク・ピーターセンの本を読んだ友人から、ピーターセンが「入る」と「人」を間違って使っている米国人がいたので注意したら、「通じさえすればいい」という反応が返ってきたと述べていたそうです。「そうじゃないだろう」というピーターセンのため息が聞こえてきそうです。相手の言葉への尊敬心、自分とは違う仕組みの言葉を使っている人がいるのだということへの鈍感を指摘したのだと思います。一見、単なる挿話に見えるかもしれませんが、いわゆる「コミュニカティヴ・アプローチ」が助長する思考傾向への批判という普遍的問題が含まれています。あえて米国人の例をだすことで、日本人特有の問題ではなく、外国語を学習する際にどこでも生じる一般的な問題であることも示唆しています。

ここまで来ると、会話英語よりリーディングを重んじるべきだという議論へ向かうのだろうと思う方もおられるかと思いますが、さにあらず。リーディング中心の英語教育にも、相手の言葉への尊敬心、畏怖を失わせる落し穴があるという点を指摘したいのです。いや、簡単なことです。でもあまりにも簡単なことなので英語学習者の意識に上りません。それは、単数、複数と冠詞の使い方。もう一つは時制、助動詞の使い方です。リーディングの学習をする場合、案外、日本語の文法で読んでしまっている場合が多いのです。日本語だと「うなぎは高い」ですが、英語の場合、が"Eels are expensive." "An eel is expensive." "The eel is expensive." "The eels are expensive"ののどれだか分かりません。「うなぎは高い」と訳せば満点をとれますので、冠詞、数の学習はおろそかになりがちです。「私はうなぎを食べる」は"I eat eel." "I will eat eel." "I am going to eat eel." "I'm eating eel."のどれにも対応します。

そこで、入試などの試験では、リーディングに英作文、その他の試験を組み合わせ、受験生に学習の手引きを与える必要がありますが、どれほど行われているのでしょう。大学生や働いている人の英語をチェックしながら疑いを抱いてしまいます。

外国語は他者の言語です。いや、日本語だって他者が話しています。他者は他者の論理で書きます、話します。それが訳せていちおう筋道が通っているからと言って本当にその外国語が分かっているかどうかは分かりません。日本風の解釈をしているのではないか、と常に自分を疑う姿勢が必要だと思うのです。

 

 

 

 


「対象から切り離した英語力って存在するの?」の補

2019年07月29日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

「対象から切り離した英語力って存在するの?」の補

前々回からの続きです。読者のみなさんは、たぶん「対象から切り離せないと言うが、じっさい試験が行われているのだから無意味なこと言うな」などと言わないと思います。筆者が論じているのは「本質論」であって、政治論ではありません。英語教育論に限らず、本質論と政治論がまざっているような評論が目につくので少し力を入れて言いたくなります。

言語が対象から切り離せないと、前回抽象的な言い方をしましたが、もっと日常的な言葉で言えば、何かを理解したいから英語を学習する、何かを伝えたいから英語を学習するのではないですか、ということです。その動機がなくてどうして英語を人は学習するのでしょう。小学生向け英語教育番組、旧『プレキソ』を監修した小泉さんは、"Let's enjoy English!"という言い方に疑問を覚えると書いておられました。英語自体は面白くもなんでもありません、その英語で何を伝え、理解できるかが小学生レベルでも英語学習の動機だという指摘です。筆者も、英語教育においては伝えるべき、理解すべき対象の吟味、選択が第一に重要になると考えます。例えば、リーディングで言えば、人間の本性に関わること、現代に生きていく際欠かせないこと、粋でユーモラスなエッセイなど、読んでいて記憶に残り、考えさせるテキストでなければなりません。語彙ひとつをとってみても面白いと思う文脈に出て来て初めて記憶にとどまるでしょう。入試の場合は、過去の問題を受験生は検討するわけですから、こういう文章を出題する大学には一生懸命勉強して入りたい思わせるテキストであるべきです。ところが、各種英語試験、最近の大学入試の問題のテキストを見ると、ただただ実務的で、読み取ろうという意欲をそぐものが多いと思います(よいものも一部ありますが)。その最たるものはTOEICに出されるような社内文書です。どうも、「英語力は対象から切り離さなければならない」という思想が背後にあるのではないかとかんぐりたくなります。どうも、広い教養も知的関心もあまりない、ましてや生徒にそれを伝える力のない(失礼)「英語専門家」が自分の領域を守るために「政治的に」、切り離し作業を行っているのではないか。そこで「英語力は対象と切り離せない」とあえて言うことに意味があると思うのです。





文系、理系の垣根を越えて、というけれど…

2019年07月26日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

文系、理系の垣根を越えて、というけれど…

「今はもう文系、理系の垣根にこだわる時代ではない」とはよく聞かれる言葉です。しかし、よくこの言葉を聞いていると文系と言われる諸君は数学、科学を勉強したまえ、という言葉に聞こえます。理系の諸君は文学や歴史を学ぶべきだということはあまり聞いた覚えはありません。

C. P. スノー最初に文系 - humanities-と理系 -science-の対立が言論界で論争の的になったのは、1959年、英国で、C.P. スノーが『二つの文化と科学革命』(The Two Cultures) という論文を発表したときのことでしょう。スノーは著名は物理学者で、かつ推理小説なども書いていました。この論文では、以下のようなエピソードが挙げられているそうです。伝統的な教養人とされる人々の集まりにでたら、科学者はものを知らないという話をしていたので、彼が「熱力学の第二法則」を知っていますかと訊いたら、はっきりした答えが返ってこなかった。スノーに言わせれば、シェイクスピアの何かを読んだことがありますかと同じレベルの質問をしたつもりだったそうです。文系、理系ということが話題になるのは、このころから理系の立場の人の不満表明として表れていました。一言で文系といいますが、欧州では中世以来の伝統的なラテン語教育に基づく文系教養主義が制度化し、不動の権威を持っていたのです。それに対し、一矢を報いるという性格の発言だったのでしょう。発表された年月にも注意していただきたいです。原子力の力で世界の命運を握るのは一握りの核物理学者だということが分かってきて、「文系」の学者の土台が揺らぎだしたころのことです。この文脈で初めてスノーの論文の歴史的価値が分かります。

では、日本ではどうか。1868年の明治維新以来の工業化の流れの中で西欧以上に、文系と理系の違いが際立った来ました。なぜか。西欧の場合、分かれたとはいえ、文系の伝統から理系が派生してきた記憶がありますから、文系と理系の交流は皆無とういわけではないのです。ところが日本の場合、明治以降の工業化が理系学問の主流となり、原理へ遡って考える動機が少なかったのです。手っ取り早く爆弾やラジオを作ること=理系だったのですね。そのため、西欧では、数学と理学(science)が工学(technology)より重んじられる傾向がったのに対し、日本は理学部より工学部の方が学生の人気が高い状態が続いています。一方、文系ですが、西欧の人文学(humanities)、あるいは文献学(phylology)と言っていいでしょうか、に対応するのが、江戸期までの漢学でした。西欧でラテン語、ギリシャ語がその存在を主張しつづけているのに対して、これは維新とともにすっかり滅びてしまったのです。明治の最初期は中江兆民がルソーの『社会契約論』を漢文に訳したということもありましたが、まことにいっときのうたかたでした。では日本における「文系」とは何か。それは西欧の文献を訳すことでした。そのことがhumanitiesの大半の役割を代替してきました。つまり、日本においては、理系は実用と同義語、そして、文系は西欧の借り物という性格が強くなり、西欧以上に両者の交流は乏しい状態が生じたのです。

「文系、理系を越えて」というとき、以上のような文脈が前提に語られなければなりません。しかし、掛け声だけはあっても、じっさいはどうだったのでしょう。40年前ごろ、大学でこれからはコンピュータを国文学に応用するのだと息巻いていた人たちがいましたが、源氏物語の語彙の統計を取るというぐらいのもので、なんだ、と思った記憶があります。その後も、文理を越えるというと、文系の諸君も科学を知るべきだということと同じ意味で言われてきました。

たしかに、文系の側にも反省すべき点は大いにあります。それは論理と事実への軽視です。これについては、木下是雄さんについてのエッセイなどに譲りましょう。ただ、木下さんの最初の啓蒙書は『理系の作文技術』であって理系の人が対象であったという点は注意したい点ですが。文系における論理と事実の軽視は、西欧思想崇拝のもとでとてもおかしなことをあたりまえのように引き起こすこともありました。友人のフランス語講師から聞いた話ですが、フランスの哲学者サルトルが来日し講演を行ったときのことです。当日は通訳なし、満場の学生は講演が終わると割れるような拍手で見送ったそうな。昔は、私なども「ミロのヴィーナス」を見に美術館をぞろぞろぐるぐる回って有り難がったこともあります。では、このようなことは今日では笑い話で済ますことができるか、というと少し疑わしい。サルトルのようなカリスマはいなくなりましたが、文系=権威主義という土壌は消えてはいないように思います。「文系の諸君は数学と科学を学ぶべし」という言葉が説得力を持つ所以です。

扨、ここで、やっと、理系の側の人が越えるべき垣根はなんだろうかという主題にたどり着きました。私の念頭を去らないのは、オウム真理教事件です。事件を起こした人のなかには「理系」の秀才が多かったようです。なぜエリートと言われる人が残虐な犯罪に手を染めたのか。危険な化学物質を製造する精密な頭脳を持った連中に欠けているのは何か。数学と科学だけでは不十分なものがあるのではないか。とりわけ「実用」ということだけ考える日本の理系風土に欠けているものがあるのではないかと考える必要があります。

それは何か。このエッセイで初めて登場する語彙です。それは歴史と常識という言葉で表されるもの。文学と言ってもいいかもしれません。歴史も常識も定義したり計算したりすることができないので、「理系の人」は不得意かもしれません。歴史も常識も知らないでも理系の世界でいくらでも出世できます。でもちょっと考える必要があります。精密な理論が出来たとしてもそれをなんのために使うのか。輪郭がはっきりしないものかもしれませんが、全体のなかの意味、価値があって初めてその理論も意味を持つのです。輪郭ははっきりしませんが、十代、二十代のころ、読書、つまり過去の優れた人とのつきあいを通して身につけるのが「歴史と常識」です。証明することができるようなことでないので、失われやすい。しかし、オウム事件のような事件が起きる背景には、理系の秀才たちが「歴史と常識」を身につけていなかったからではないか。そうだとしたら、今後も似た事件が起きるかもしれません。

最期に、少し前、1995年に起きた、『マルコポーロ事件』に触れておきましょう。ナチスのガス室がなかったという記事をある医師が『マルコポーロ』という雑誌に掲載したのですが、廃刊に追い込まれた事件です。その後、在ったのないの、の議論が続きました。著者はその後の主張を変えていないそうです。しかし、在ったかないかだけ追いかけているのは、なんだかおかしいと感じませんか。ドイツ文学者の西尾幹二さんは、一つの事件ばかり捉えて、ナチスが行った行為全体を歴史的に見る視点を失っているという点を指摘していました。事件のことは遠い日本では分かりません。ギリシャ、ローマからゲルマン、ドイツの現代史のなかでの人々の営みから切り離して、その事件を計算問題のように解いて喜んでいる愚かさ、危険を西尾さんは指摘したのでしょう。「文系と理系の垣根」にはこういう垣根もあるのです。








対象から切り離した英語力って存在するの?。

2019年07月25日 | 言葉について:英語から国語へ

対象から切り離した英語力って存在するの?。

「英語力」というものが、「握力」とか、「計算能力」のように単独の能力として存在するのか。そんな当たり前のことをなぜ問うのかと言われるでしょう。今回、問題にしたいのは大学入試の外部委託に関することです。切り離し、外部委託するということは、単独の英語力というものが存在することが前提です。もしそうでなかったら外部委託自体が疑わしいことになります。

でも、決まりかかっていることをなぜ改めて問うのかという声が聞こえますが、しかし、何か大切なことを忘れてはいませんか。言語は何かを対象として初めて存在するということです。何かを表わすために言語が使われるので、その「何か」、つまり言語の外のものに依存しているのが本質です。もしその「何か」と切り離せる言語能力があるとすれば、単独切り離しも多いに可能性があります。自動車や電子機器のようなものを作る大企業はそのような切り離しでスリム化を図り巨大化してまいりました。携帯自体は本体は本社がデザインするとしても、中のチップス、さらには半導体の高性能化を図る希少金属は他国の他企業との取引で手に入れます。その方が官僚主義に陥りやすい一体化よりずっと効率があがると信じられています。しかし、その会社の製品独自の特徴を生みさす技術はブラックボックスとして決して外注に出しません。果たして、英語能力は外注可能か、ブラックボックスなのか。

もし英語力が「切り離せる」ものなら社員教育用の検定試験でも、大学入試に用いることも可能でしょう。そこで、その「何か」をまず検討する必要があります。ところが、すでにして、この段階で人々はもう考えることをやめているように見えるのです。それほど、英語力という単独能力が存在することが当たり前に見なされているのですね。いや、もっとほんとうのことを言えば、大学入試などは、何か難しいもの、苦労して超える関門、バンジージャンプのような一種の成人儀礼のようなものだと思われているようで、中身などどうでもいいのでしょう。ただ「難しければよい」と。

こういう、世間の思い込みがもたらす障壁をよっこらしょと超えて、その「何か」を検討すれば、まず、以下の理由が浮上します。

大学での学業に耐える資格があるかどうか。それは英語で書かれた各学問分野 - dischipines - の著書を読む力があるかどうかが、問われます。理系、文系など細分化される学問分野を理解するために前提される「教養」と言われる文献を限られた時間に正確に読む力を持っているかどうか、これが大学入試の「英語力」の「何か」が何かというという問いへの一つの答えです。こうした前提に立つと、試験で読ませる文章の質、語彙、表現法にも一定の条件がありことが分かります。明快な論理、伝統と現代社会を理解する前提となる語彙、効果的なレトリックなど、これからの学習の発展の基礎になることが効果的に試験で問うことが目標となるでしょう。何より生徒の学習意欲を高めるものでなければなりません。なんでも英語であればよいというものではないです。通常の高校段階の英語と大学入試の英語の際立った違いはまさにここにあるのです。

そう考えると、アウトソーシングをする場合、そういう「何か」を外注先が備えているかどうかが問われなければならないのですが、それは十分検討されているかどうか。たんに世間で有名な試験だから、手を挙げてくれさえすれば採用しますよ、というのではないですか。簡単な社内文書の高速な読解を中心的な内容とするTOEICが初回のアウトソーシングから撤退した背景には、自社の問題が大学入試にふさわしくないのではという議論があったからではないかということも考えられます。一方、TOEFLについては、リーディングの内容が高校と大学を結ぶことを意識して巧妙に作られているので、その「何か」についてはかなり備えていると言えます。このようにアウトソーシング先すべてを頭ごなしに否定するわけにはいきません。(が、ほとんどの論者はTOEICやTOEFLの問題を実際に見て論じているのかどうかはなはだ疑問です。)

今回、言語、または言語能力が対象に依存するということに注目していただくことが第一の目的だったので、長くなる具体的な例文など使いませんでした。また、口頭や文章での表現能力をどう考えるかも不問でした。上記の、大学入試にふさしい英文の条件にも不備な点があることも触れていません(註)。昔と今の大学は違うとか、全国一律の議論は無意味だという意見も考えなければなりません。回を改めて、大学へ入る準備をしている学生はどう英語を学習すべきか、また、入った直後の英語教育はどうあるべきかにつながるエッセイを書きたいと思います。

註:リーディングの問題のみを中心に学習すると、音声との乖離、母国語の文法に影響されやすい点などの限界が生じます。たとえば、冠詞や複数形への感覚は養えない。また、英語特有の時制、助動詞の学習を無視するという欠陥があります。さらに深いことを言いましょう。リーディングだけだと、英語が、自分とは異なる他者の言語だということへの尊敬心、畏怖が生まれにくいという傾向を生み出しかねません。この件、再論します。

対象から切り離した英語力って存在するの?。捕へ






英語入試アウトソーシングの背景に潜むもの

2019年07月23日 | 言葉について:英語から国語へ

英語入試アウトソーシングの背景に潜むもの

点数100点先月の話になりますが、2019年6月、TOEIC社は、初回の大学入試の外注に応じないことを決めたそうです。新聞の記述では、「準備不足」ということ以上のことは分かりません。英語入試の外注化は数年前から導入が図られていていましたが、筋道立った議論がなされないうちに、なし崩し的に実際に移されてこようとしてきたようです。今回の件もそういうその場しのぎが生み出した事件 - incident -のように思えます。友人の英語教員からは、外注反対の請願書が提出されるという情報ももたらされています。このことも、混乱が収束していないという証左となるものでしょう。

そもそも、思想、教育に関することに、請願、裁判など国家権力を関与させることにはなんとなく人々は疑いを持ちます。請願を行う人は、権力側が強行するので対抗するのだという考えを理由づけ - excuse - としますが、じっさいの効力はあまりないでしょう(無駄とまでは言えませんが)。少なくとも歴史や政治について少しでも知識を持つ人ならそう考えるでしょう。たんなる自己満足ではないか、という皮肉も聞こえてきます。

では、どうしたらいいの、ということになりますが、思想、教育、それに言論活動に関しては、思想、教育、言論活動の形で反論、対案、実験を行うべきではないでしょうか。今回、なぜ大学入試の出題を大学が行うべきか、あるいは、外注した場合の問題点はどこにあるのか、通り一遍の説明ではなく、説得力のある対案が出され、具体的に検討されているのでしょうか。インタネットの時代ですので、行う方法はいろいろあるはずですが、寡聞にして知らない。しっかりした - solid - な対案があったら是非教えていただきたいです。

この場でもまだ体系的な意見を述べられるわけではありません。しかし、今論じることに意味があるとしたら、思うに任せて、疑問を提示しておくことは無益ではないでしょう。

事柄は、深い問題に連結します。

がり勉まず、株式会社と同様に、⓵忙しい、⓶経費が掛かるという二つの要因で外注が俎上にのります。ほとんど必要条件のような切羽詰まった勢いがあります。あまりに切羽詰まっているので、

<大学入試になぜ英語が必要なのか>、

という問は忘れらる傾向があります。じつはこの点にこそ、英語の問題に限らず、近代の日本の政策の失敗の深い原因が潜んでいるということにそろそろ気が付かなければなりません。この問題を少し一般化して述べると、「その場しのぎに引きずられて大局を見失う」という怖さです(註1)。もうお気づきの方もおられると思いますが、<大学は何ためにあるの>という問が背景に控えています。

ここでは、このような大局的な問題を、一見正反対の「現場」の立場から瞥見してみようではありませんか。筆者は長年、「受験産業」の末端に触れていたので大学入試の英語問題に触れる機会は多くありましたが、実質、合否を決めるのは、せまい意味の英語力ではありません。英語にも国語にも通じる「言語使用能力」というべきものです。ちょっと考えると分かると思いますが、高校3年生の試験に語彙の多さを求めてもしかたありません。大学入試に必須となる語彙は、普遍的な - universal - な語彙が中心で、その数はそれほど多くありません。差はそれを如何に適切に使えるかが採点の基準になります。接続詞の(It is) becauseと、Soを、「それゆえ」なのか、「なぜならば」なのかを逆にしていしまうのでは点はあげられません。国語の穴埋め問題でも同じ能力を問うことができますが、古典、文学に費やすべき「国語」の問題に欠けている「論理的思考」を英語が担っているということは、ちょとでも難しい大学入試を経験した人ならみな分かっていることでしょう。

明治会堂このことから、大学入試の英語問題には論説文が中心となってきたこと、つまり、読み、聴き、話し、書くの4つのバランスが崩れていることには一定の理由があるということが分かります。上の説明では、経験の積み重ねから自然にそういう性格が生まれたという論理ですが、大学というところはまず国語でも英語でも論文を正確に読むことで成り立つという、目的論の立場からも理解できることです。

さて、今回は、この辺でおしまいにしますが、以上の記述から伝統的な受験英語肯定論を読み取っていただきたくはありません。「そうだ!」と溜飲を下げるのは待っていただきたいです。望むのは、以上の観点を踏まえて、「でもね」と議論を展開していただくことです。

註1:小異を貫く者同士があくまで自説を論理的に研ぎすまして、討議し合い、そのなかから最良策を浮かび上がらせる。自説を捨てるものは納得して捨てる。ムード的に思考しない。それが討議というものの本来のあり方であろう。ところが日本人は討議をしようとしない。(-----) ところが外国は待ってはくれない。もうここまでくればやるきり仕方がない。他に手がない。ここらで手を打とう。そうだ、そうだ、それいけどんどんと、挙国一致体制が出来上がってしまう。

恐ろしい話である。

西尾幹二『異なる悲劇 日本とドイツ』p.37  (1994)文芸春秋社

註2:以前の記事:英語入学試験のアウトソーシング反対派の議論に何が欠けているか?。