リーディング中心の英語学習の問題点
2019年、英語入試外部委託への反対の請願、TOEICの初回撤退などいろいろ事件が起きていますが、なるべくこのブログでは時事的な政治的議論は避けたいと思います。「やった!」と思っている人も多いでしょうし、なんとなくムードで政治に絡み取られそうなので、とくに注意したいと思います。
数回前のエッセイで請願など自己満足に陥るのが関の山だと書いたので、「それみたことか」と言われそうですが、活動家の口吻を見る限り筆者の疑いは消えません。あるネット企業が文科大臣に献金して、ということを主張する大学教授がいました。もし、「ネット企業の献金という圧力もあるかもしれないが、それに抗する我々の論理が足りなかった」と議論を展開するのであればよいのですが、「資本の論理」を批判することにとどまる限り、それは政治、革命の論理です。英語教育論とは少し違ってくるでしょう。別の論者は英語教育論を展開しながら、途中で平和憲法が出てきたり安倍首相が出てきます。これらの論者には日本語の段階で問題がありませんか。ましてや英語教育など論じられるの、という疑いが生じます。言語は通じてなんぼ。英語教育に論陣を張るならそれを期待する読者に応えてほしい思います。「そうだ、そうだ」と言ってもらいたい気持ちのみ伝わって来るだけです。書き手には読者という他者が見えていない、と言ってもよいでしょう。(政治的立場が右が左かは関係ありません。)
以上、英語諭を論じている人が、英語以前に、日本語に問題があるということの例でした。時事問題とはこの辺でおさらばして、英語が他者の言語だということがつい忘れられがちだという一般論へ話を持っていきます。
少し前、福沢諭吉のエッセイで、福沢は日本人に通じるようにバターを味噌と訳したという例を挙げましたが、これだけでは不十分です。「通じる」、これは必要条件です。十分条件ではありません。「通じさえすればよい」というものではありません。最近、私が未読の、マーク・ピーターセンの本を読んだ友人から、ピーターセンが「入る」と「人」を間違って使っている米国人がいたので注意したら、「通じさえすればいい」という反応が返ってきたと述べていたそうです。「そうじゃないだろう」というピーターセンのため息が聞こえてきそうです。相手の言葉への尊敬心、自分とは違う仕組みの言葉を使っている人がいるのだということへの鈍感を指摘したのだと思います。一見、単なる挿話に見えるかもしれませんが、いわゆる「コミュニカティヴ・アプローチ」が助長する思考傾向への批判という普遍的問題が含まれています。あえて米国人の例をだすことで、日本人特有の問題ではなく、外国語を学習する際にどこでも生じる一般的な問題であることも示唆しています。
ここまで来ると、会話英語よりリーディングを重んじるべきだという議論へ向かうのだろうと思う方もおられるかと思いますが、さにあらず。リーディング中心の英語教育にも、相手の言葉への尊敬心、畏怖を失わせる落し穴があるという点を指摘したいのです。いや、簡単なことです。でもあまりにも簡単なことなので英語学習者の意識に上りません。それは、単数、複数と冠詞の使い方。もう一つは時制、助動詞の使い方です。リーディングの学習をする場合、案外、日本語の文法で読んでしまっている場合が多いのです。日本語だと「うなぎは高い」ですが、英語の場合、が"Eels are expensive." "An eel is expensive." "The eel is expensive." "The eels are expensive"ののどれだか分かりません。「うなぎは高い」と訳せば満点をとれますので、冠詞、数の学習はおろそかになりがちです。「私はうなぎを食べる」は"I eat eel." "I will eat eel." "I am going to eat eel." "I'm eating eel."のどれにも対応します。
そこで、入試などの試験では、リーディングに英作文、その他の試験を組み合わせ、受験生に学習の手引きを与える必要がありますが、どれほど行われているのでしょう。大学生や働いている人の英語をチェックしながら疑いを抱いてしまいます。
外国語は他者の言語です。いや、日本語だって他者が話しています。他者は他者の論理で書きます、話します。それが訳せていちおう筋道が通っているからと言って本当にその外国語が分かっているかどうかは分かりません。日本風の解釈をしているのではないか、と常に自分を疑う姿勢が必要だと思うのです。