外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉の愉快な英語修行 3 諭吉さん、悪戯がすぎますぞ、の巻

2018年11月29日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 3 諭吉さん、悪戯がすぎますぞ、の巻

前回

写本イラスト現代では、写本ということは悉くフォトコピーに置き換われて、無用のものになりましたが、では、適塾における写本の練達は私たちにはまったく無意味なものでしょうか。ここには、「欠如の充足」という普遍的学習理論(かってに私がそう名付けていますが...)の柱の一つの見事な応用例ではないでしょうか。人間は足りないこと、知らないことがあるとそれを充足しようとする本能、情熱というものがあります。これは人間がものを学ぶ際の不可欠の条件の一つです。現在の学習環境、小学校でも中等教育でも大学でもこの条件は満たされているでしょうか。もしないとしたらその問題を議論しなければなりません。何も適塾のまねをしてわざと不便な状況を作り出す必要はないかもしれません。また、「昔あって今失われたもの」のノスタルジーに浸るのもすこしずれているように思います。しかし、少なくとも、この人間離れした写本の作業は、何時の時代にも通じる学習の本能というものについて考えさせてくれるのです。

さて、試験、写本についで、適塾での活動の三つめの面、実験、工芸にも書生たちは熱心でした。しかし...。以下、アンモニア製造の一節からです。

アンモニア(-----) すなわちこれが暗謨尼亜(アンモニア)である。至極旨く取れることは取れるが、ここに難渋はその臭気だ。臭いにも臭くないにも何ともいようがない。馬爪(あのばづ)、あんな骨類を徳利に入れて蒸焼にするのであるから実に鼻持ならぬ。それを緒方の塾の庭の狭い処でるのであるから奥でもっらぬ。奥で堪らぬばかりではない。流石(さすが)の乱暴書生もれには辟易(へきえき)してとも居られない。夕方湯屋に行くと着物が臭くって犬が吠えるというけ。たとまっぱだか遣やっても身体からだが臭いと云いって人に忌いやがられる。(岩波文庫p.88。今回、このページ前後から引用)

医学塾であるにもかかわらず、適塾は衛生概念にも問題があったようです。

食事の時にはとても座って喰うなんということは出来た話でない。足も踏立てられぬ板敷だから、皆上草履(うわぞうり)をはいて立って喰う。一度は銘々に別けてやったこともあるけれども、そうは続かぬ。お鉢がそこに出してあるから、銘々に茶碗に盛って百鬼(ひゃくき)立食(りっしょく)。

夏は真実のはだか、褌(ふんどし)も襦袢(じゅばん)も何もない真っぱだか。もちろん飯をくう時と会読をする時にはおのずから遠慮するから何か一枚ちょいと引掛ける、中にも絽(ろ)の羽織を真っぱだかの上に着てる者が多い。これは余程おかしな風(ふう)で、今の人が見たら、さぞ笑うだろう。

裸といえば、諭吉さんの大失態がありました。

適塾階段又あるときこれは私の大失策、或る夜、私が二階に寝て居たら、下から女の声で福澤さん/\と呼ぶ。私は夕方酒を飲んで今寝たばかり。うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。それから真っぱだかで飛起て、階子段を飛下りて、何の用だとふんばたかった所が、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。何どうにもこうにも逃げようにも逃げられず、真っぱだかで座ってお辞儀も出来ず、進退窮して実に身のおきどころがない。奥さんも気の毒だと思われたのか、物をも云わず奥の方に引込んでしまった。翌朝おわびに出て昨夜は誠に失礼つかまつりましたと陳べるわけにも行かず、とうとう末代御挨拶なしに済んで仕舞た事がある。こればかりは生涯忘れることが出来ぬ。先年も大阪に行って緒方の家を尋ねて、この階子段の下だったと四十年前の事を思出して、独り心の中で赤面しました。

「しらみは塾中永住の動物で、誰一人もこれを免かれることは出来ない。ちょいとはだかになれば五疋も十疋も捕るに造作はない」と、こんな調子で、町中へ出ても緒方の書生は嫌われ者でした。或る時こんなことがありました。

そんなわけだから塾中の書生に身なりの立派な者は先まず少ない。そのくせ市中の縁日などいえば夜分きっと出て行く。行くと往来の群集、なかんずく娘の子などは、アレ書生が来たと云て脇の方によけるその様子は、何かでも出て来てそれをきたながるようだ。どうも仕方しかたがない。鳥を捌く往来の人から見てのように思うはずだ。あるとき難波橋のわれわれ得意の牛鍋屋の親爺が豚を買出して来て、牛屋商売であるが気の弱い奴やつで、自分に殺すことが出来ぬからと云て、緒方の書生が目指された。それから親爺に逢って、「殺して遣やるが、殺す代りに何を呉くれるか」――「左様ですな」――「頭を呉れるか」――「頭なら上げましょう。」それから殺しに行った。こっちは流石(さすが)に生理学者で、動物を殺すに窒塞させれば訳はないと云うことを知って居る。幸いその牛屋は河岸端であるから、そこへ連れて行って四足を縛って水に突込んですぐ殺した。そこでお礼として豚の頭を貰って来て、奥からなたを借りて来て、まず解剖的に脳だの眼だのよく/\調べて、散々いじくった跡を煮て喰くったことがある。

このような塾で頭角を現わしたのは、学力だけでもなさそうです。「人を食う」という表現がありますが、諭吉さんの場合、少々程度が違います。

(-----) それから又一度遣やったあとで怖いと思ったのは人をだまして河豚(ふぐ)わせた事だ。私は大阪に居るときさっさと河豚も喰えば河豚の肝(きも)喰って居た。る時、芸州、仁方(にがた)から来て居た書生、三刀元寛(みとうげんかん)云いう男に、味噌漬みそづけ貰って来たが喰わぬかとうと、「ありがたい、成程い味がする」と、よろこんで喰て仕舞って二時間ばかり経ってから、「イヤ可愛いそうに、今喰たのは鯛でも何でもない、中津屋敷で貰た河豚の味噌漬だ。食物の消化時間は大抵知ってるだろう、今吐剤飲のんでも無益だ。河豚の毒がかれるなら嘔いて見ろと云ったら、三刀も医者の事だから分わかって居る。サア気を揉んで私に武者振付くように腹を立てたが、私もあとになって余りしゃれに念が入過りすぎたと思て心配した。随分間違いの生じ易やすい話だから。

このような話は『福翁自伝』中、枚挙にいとまがありません。こういうのを英語ではpracticcal jokeと云いますが、この「姿勢」は終生変わらなかったようで、「福沢諭吉の英文翻訳法2/2」で触れた尾崎行雄の件(註の部分)などをご覧ください。まこと枚挙にいとまがないのですが、このブログは英語教育、学習を旨とするものなので、次回、有名な漫画家の祖先が福沢にしてやられる話を最期にし、適塾の学習について「真面目」な話をひとくさり。そのあとめでたく英語の世界に入ってまいります。

最期に、町中(塾内だけでないんです!)での悪行によって危うい目にあった話で今回はおしまいにします。

適塾祭り私が一度大いに恐れたことは、これも御霊(ごりょう)の近処で上方(かみがた)に行われる砂持(すなもち)と云う祭礼のような事があって、町中の若い者が百人も二百人も灯籠(とうろう)を頭に掛けてヤイ/\云て行列をして町を通る。書生三、四人してこれを見物して居る中に、私がどういう気であったか、いずれ酒の機嫌でしょう、杖か何かでその頭の灯籠をぶち落してやった。スルトその連中の奴と見える。チボじゃ/\と怒鳴り出した。大阪でチボ(スリ)と云えば、理非を分わかたず打殺して川にほうり込む習(ならわし)だから、私は本当に怖かった。何でも逃げるにしかずと覚悟をして、はだしになって堂島の方に逃げた。その時私は脇差を一本さして居たから、もし追つかるようになれば後向いて進んで斬るより外仕方しかたがない。斬っては誠にまずい。かりそめにも人にきずを付ける了簡(りょうけん)はないから、ただ一生懸命に駈かけて、堂島五丁目の奥平の倉屋敷(中津藩の屋敷)に飛込んでホットいきをした事がある。

続く(福沢諭吉4へ)

 

 


福沢諭吉の愉快な英語修行 2 人間技と思えぬ写本の日々。しかし、の巻

2018年11月26日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 2 人間技と思えぬ写本の日々。しかし、の巻

前回

江戸時代塾

一回目は、競争心溢れる適塾の様子を福沢さん自身に語っていただきました。ところで、今日の教育における競争とどう違うのでしょう。

競争というと、現代では「ゆとり」と対比して語られることが多いです。競争には、実力向上というメリットと同時に、競争の為の競争が非人間的だというマイナス面がある、一方、「ゆとり」は、生徒の人間性を育てるが、怠惰を呼ぶ。ざっとこういうメリット、デメリットを対立項として、同じようなことが繰り返し論じられています。しかし、「競争」ということの意味を十分吟味した上でのことでしょうか。前回の適塾における競争は、現代私たちが論じる競争と少し意味合いが違うようです。

競争が何をもたらすか、この適塾の描写は、現代、目標としている「平均点の向上」だけでは説明できないものがあるということを示唆しています。「正味の実力を養うと云うのが事実に行われて居た」、これは何を意味するでしょう。学力の現実を見失っていないということです。たんに他より優れるということではない、という点に注意を止める必要があります。現代の競争支持論者で、そのことを指摘するのを聞いたことがありません。この視点が失われたら、些末な点数争いを指摘するゆとり派のぶの方が高くなってしまいませんか。

フィードバック二点目として、この競争は一回限りのものではなく、始終、切磋琢磨するので、やり直しがきくということです。現代風に言えばフィードバックが仕組まれているということができるでしょう。この点も現代の競争対ゆとり論争に欠けがちな点です。試験結果が次回の試験へのインセンティヴになっているかどうか、まったく論じられることはありません。

三点目としては、以上の、⓵現実を見つめる、⓶フィードバックになる、という二つの点を踏まえてのことですが、学生の学習意欲を高めているという点です。よく「やるき」なるものがよく口の端に上りますが、「やるき」がどこから生じるという議論も絶えて聞きません。

これだけ見ても、福沢の描写による適塾のあり方が現代の私たちに反省を迫るということが分かるというものです。ただ、最期に問題点も指摘したいと思います。適塾の場合、知識欲が高い集団だということが前提になっているということです。現代の教育論の場合、「全国一律」が暗黙の前提です。その違いを踏まえることを忘れるわけにはいきません。「なんとかに学ぼう」というよく言われる常套句をそのまま受け入れるわけにはいかないのです。

さて、適塾の勉学から英語学習へはまだ距離があります。今回、もう一つ適塾の特徴について触れましょう。これだけは現代では必要がなくなったことに疑いはありません。「写本」です。時折たのまれる写本は塾生にとっての収入源にもなりましたが、新知識を身に着けるためのまたとない機会でもありました。ある日、緒方先生が黒田の殿様から拝借してきたというオランダ語の書物を福沢に見せます。このあと、少々長いですが、福沢さんにじかに語っていただきましょう。

レモン電池(-----) なかんずくエレキトルの事が如何にもつまびらかに書いてあるように見える。私などが大阪で電気の事を知ったと云うのは、ただわずかに和蘭の学校読本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかった。ところがこの新舶来の物理書は英国の大家フ※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来て居るから、新奇とも何ともただ驚くばかりで、一見ただちに魂を奪われた。それから私は先生に向むかって、「これは誠に珍らしい原書でございますが、いつまでここに拝借して居ることが出来ましょうかと云うと、「左様(さよう)さ。何いずれ黒田侯は二晩とやら大阪に泊ると云う。御出立(しゅったつ)になるまでは、あちらに入用もあるまい。「左様でございますか、一寸と塾の者にも見せとう御在ますと云て、塾へ持って来て、「どうだ、この原書はと云ったら、塾中の書生は雲霞(うんか)のごとく集って一冊の本を見て居るから、私は二、三の先輩と相談して、何でもこの本を写して取ろうと云うことに一決して、「この原書をただ見たって何にも役に立たぬ。見ることはやめにして、サア写すのだ。しかし千頁もある大部の書を皆写すことはとても出来できられないから、末段のエレキトルの処だけ写そう。

ファラデー一同みんな筆紙墨の用意して総がかりだと云た所でここに一つ困る事には、大切な黒田様の蔵書をこわすことが出来ない。毀(こわ)して手分わけて遣れば、三十人も五十人も居るからまたたく間に出来てしまうが、それは出来ない。けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて妙(みょう)を得て居るから、一人ひとりが原書を読むと一人はこれを耳に聞いて写すことが出末る。ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍って来るとすぐにほかの者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でもすぐに寝るとこういう仕組しくみにして、昼夜の別なく、飯を喰う間まもタバコを喫む間まも休まず、ちょいともひまなしに、およそ二夜三日(にやさんにち)のあいだに、エレキトルの処は申すに及ばず、図も写して読合わせまで出来てしまって、紙数は凡そ百五、六十枚もあったと思う。ソコデ出来ることならほかの処も写したいといったが時日が許さない。マア/\是これだけでも写したのは有難いというばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買取られたと聞て、貧書生等はただ驚くのみ。もとより自分に買うと云う野心も起りはしない。いよいよ今夕、侯の御出立と定まり、私共はその原書を撫でくり廻まわし誠に親に暇乞いをするように別れを惜しんで還えしたことがございました。それからのちは塾中にエレキトルの説が全く面目を新たにして、当時の日本国中最上の点に達して居たと申して憚りません。岩波文庫p.90

現代では不要のことと申しましたが、ここにも今忘れられている大事なことが述べられていると思いませんか。試験と写本という二つの側面から適塾における「まじめ」な様子を垣間見ました。いよいよ次回は、何か問題が起きそうです。

つづく(福沢諭吉3へ)

 

 

 

 


福沢諭吉の愉快な英語修行 1 刻苦勉励の巻

2018年11月25日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 1 刻苦勉励の巻

今回のシリーズは。ほとんど、『福翁自伝』(65歳。明治31年:1898年)の解読と言っていいでしょう。ですが、日本における英語学習者の第一号の一人がどう苦労したかを本人の口から聴いてみることは無意味ではないでしょう。あえて「口語訳」にせず、原文(青文字)で引用しますが、晩年の聞き書きということもあり、現代人にも分かりやすい文体です。

笑う福沢英語修行とはいうものの、どうしても、その前の蘭学(オランダ語)時代、それに福沢の意外な悪戯好きな面にも触れないではいられません。過去にかようなpractical joker=英語で悪戯好き、がいたでしょうか。大笑いです。しかし、福沢のこの面は一万円札の畏まった風貌の裏に隠されたままあまり人に知られていません。いまだかつて福沢のpractical jokeを全面に打ち出した物語やテレビドラマがないのは慶応義塾が後ろに控えているからかもしれません。

とはいえ、英語学習ブログを謳っている当サイトでは、蘭学、practical jokerの面は抑えに抑えて、いまでも生きている福沢の英語学習に対する態度に注目していただけたらと思います。

今回は、緒方洪庵の蘭学塾で福沢を含め書生がどのように勉強していたかを紹介します。大変な勉強ぶり、勉学への情熱が伺われます。

(-----) 夕方食事の時分に、もし酒があれば酒を飲んで初更(ヨイ)に寝る。一寝して目が覚めるというのが、今で言えば十時か十時過ぎ。それからヒョイと起きて書を読む。夜明けまで読んでいて、台所の方で塾の飯炊きがコト々飯を焚く仕度をする音が聞こえると、それを合図にまた寝る。寝て丁度飯の出来上がったころ起きて、そのまま湯屋に行って朝湯に這入って、それから塾に帰って朝飯を給べてまた書を読むというのが、大抵緒方の塾に居る間ほとんど常極りであった。(岩波文庫 p.81)

ここでは競争ということがとても前向きに行われています。以下の長い引用を見てください。現代の試験制度とどこが違うか考えてみたいです。次回の冒頭で、現代の英語学習、いや、勉強ということそのものに対する批判をくみ取ることができるという点について触れます。それはさておき、最期の方に「市中に出て大いに酒を飲むとか暴れるとか云うのは」云々とあるのが気になるところです。

適塾二階会読(かいどく)は一、六とか三、八とか々大抵たいてい日がきまって居て、いよゝ明日が会読だと云うその晩は、如何な懶惰生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云う字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引きつゝ勉強して居る。それから翌朝の会読になる。会読をするにもくじでもってここからここまでは誰ときめてする。会頭はもちろん原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられた所を順々に講じて、もしその者が出来なければ次に廻す。又その人も出来なければその次に廻す。その中で解(げ)し得た者は白玉、解げし傷こなうた者は黒玉、それから自分の読む領分を一寸ちょっとでも滞りなく立派に読んで了まったと云う者は白い三角を付ける。これは只の丸玉の三倍ぐらい優等なしるしで、およそ塾中の等級は七、八級位ぐらいに分けてあった。そうして毎級第一番の上席を三ヶ月占しめて居れば登級すると云う規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞いて遣り至極しごく深切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験に逢うようなものだ。

緒方洪庵2そう云いうわけで次第々々に昇級すれば、ほとんど塾中の原書を読尽くして云わば手を空なしうするような事になる、その時には何かむずかしいものはないかと云うので、実用もない原書の緒言(ちょげん)とか序文とか云うような者を集めて、最上等の塾生だけで会読をしたり、又は先生に講義を願ったこともある。私などはすなわちその講義聴聞者の一人でありしが、これを聴聞する中にも様々先生の説を聞て、その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違たがわぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰って朋友相互いに、「今日の先生のあの卓説はどうだい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話したのは今に覚えて居ます。

 市中に出て大いに酒を飲むとか暴れるとか云うのは、大抵たいてい会読を仕舞ったその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇があると云う時に勝手次第に出て行ったので、会読の日に近くなるといわゆる月に六回の試験だから非常に勉強して居ました。書物をよく読むと否とは人々の才不才にもよりますけれども、ともかくも外面を胡魔化して何年居るから登級するの卒業するのということは絶えてなく、正味の実力を養うと云うのが事実に行われて居たから、大概の塾生はよく原書を読むことに達して居ました。岩波文庫p.83

刻苦勉励、食事も寝るのも忘れるようなありさまでしたが、塾頭、長州出身の村田蔵六、のちの大村益次郎が、この人は、のちに福沢に言わせれば「攘夷の発作」のようなことを起こす人ですが、塾を去り、ほどなく福沢が頭角を現わし塾頭になります。塾頭とはいえ、今でいえばタメグチを聞かれる間柄、塾生たちに痛めつけられることもあったようです。それには、福沢の方にも理由がなかったわけではありません。

つづく(福沢諭吉2へ)


福沢諭吉の英文翻訳法:読者のために訳すということ 2/2

2018年11月21日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の英文翻訳法:読者のために訳すということ 2/2

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また少々長いですが、福沢さんの文章を見てみましょう。

開国以前すでに翻訳版行の物理書なきにあらざれども、多くは上流学者の需(もとめ)に応ずるものにして、その文章の正雅高尚なるとともに難字もまた少なからず、かつ翻訳の体裁もっぱら原書の原字を誤るなからんことに注意したるがために、我国俗間の耳目に解しがたきものあり。たとえば、物の柔軟なるを表するにあたかもボートル(英語バタ)に似たりと直(じか)に原字のまゝに翻訳するがごとき、訳し得て真を誤らざれども、生来ボートルの何物かを知らざる日本人はこれを見て解するを得ず。よって余はその原字を無頓着に付し来たり、ボートルと記すべきところに味噌の文字を用ふることに立案して、(......) (全集第一巻 緒言 p.34)

福沢式の翻訳では、やわらかいものを表わす比喩にバター(オランダ語で「ボートル」)を用いているところを味噌にするわけです。細かい点は顧みず、しかし全体の意味をあやまたず、口語で伝えるのが福沢の翻訳哲学でした。一字一句の「正確さ」に拘るのは学者の見得であると福沢には映っていたのでしょう。伝わってなんぼです。このような翻訳術は、大阪の緒方洪庵の塾で習得したように伺えます。

緒方洪庵福沢によると、当時、江戸には杉田成卿、大阪には緒方洪庵という蘭学の「両大関」がいたそうですが、杉田は「(------)翻訳するに用意周到一字一句もいやしくもせず、原文のままに翻訳するの流儀なれば、字句文章きわめて高尚にして俗臭を脱し、ちょっと手にとりて読み下したるのみにては容易に解すべからず」という流儀。一方緒方は、こう言ったそうです。現代語にしてみましょう。

「翻訳というものはそもそも原文を読めない人のためにするものです。なのに、むやみに難しい漢字を使って、一回ぐらい読んだのではちんぷんかんぶん、読み返しても分からん、というのがありますねえ。原文に引きずられてむりやり漢字を当てはめるのがいけないんですよ。ひどい場合、訳と原文を照らし合わせないと分からないというしまつ。冗談じゃありませんよ。」

ある日、学友の坪井信良という人が緒方先生に翻訳の添削を頼んだことがありました。その一部始終をそばで見ていた福沢はこう述べています。

先生の机上には原書なくしてただ翻訳草稿を添削するのみ。原書を見ずして翻訳書に筆を下すはけだし先生一人ならん。その文事に大胆なることおおむねかくのごとし。

福沢に向かっては、ある日こう言いました。「君は医者の世界には関係ない男だ。何度も言うようだけど、文字に疎い武家を相手にするのだから難しい漢字をみだりにつかっちゃいかんよ」、(あと原文です云々と警(いまし)められたる先生の注意周到、父の子を訓(おしふ)るもただならず、余は深くこれを心に銘じて爾来かつて忘れたることなし(-----)と、言うから筋金入りです。

適塾緒方と福沢に共通する翻訳の考えの礎にあるはなんでしょう。日本人でも西洋人でも考えの基本は同じだから通じるはずだという信念です。細かい点に拘るのは、僻目かもしれませんが、そういう人間に対する信頼感が欠けているからでしょう。味噌かバターか、そんなところで悩んだり、避けたりしません。洋食であろうと和食であろうと、栄養になればいいという思いっきりが両者にあるのです。しかし、栄養はしっかり与えます。読み手を択ばず、媚びず、見下さず、伝えるべきは伝える、その意思大胆にして周到、これを福沢は緒方から学んだと言えるでしょう。

翻訳に限らず福沢の態度は、読み手を択ばず、媚びず、見下さず、という姿勢に貫かれています。ある日、後年著名な政治家になった尾崎行雄が、初めて新聞記者になって、福沢に挨拶に来たときのエピソードを小林秀雄が紹介しています。

(------) (尾崎は福沢に)君は誰を目当てに書くつもりかと聞かれた。もちろん、天下の識者のために説かうと思ってゐると答へると、福沢は、鼻をほじりながら、自分はいつも猿に読んでもらふつもりで書いてゐる、と言ったので、尾崎は憤慨したといふ話がある。(1962年)

尾崎行雄小林はこのエピソードを評して次のように述べます。

彼は大衆の機嫌など取るやうな人ではなかったが、また侮辱したり、皮肉を言ったりする女々しい人でもなかったであろう。恐らく彼の胸底には、啓蒙の困難についての、人に言ひ難い苦しさが、畳み込まれてゐただろう。さう想へば面白い話である。

福沢は言葉の使い方が面白い。「猿に読んでもらふ」という言い方で、自分は機嫌もとらないし侮辱もしない、ということを逆説的に述べるのです。一筋縄ではいかない仕事だという苦渋も伝えて、響くものがあります。しかも暗黙のうちに、「あなた、読者をばかにしていないかい」という攻撃が含まれています。こういうエピソードから小林は福沢はたんなる啓蒙家ではないということを確かめたのでしょう。ここでは、翻訳を含め読者に分かってもらうということに情熱を注いだ福沢の姿勢の例として引用しました。福沢の、この、ちょっと行き過ぎたかのようなpractical joke(いたずら心))については、『福沢諭吉の愉快な英語修行』で触れたいと思います。

註1:冒頭の写真は1868年、明治元年です。まだ幕臣のはずですが、福沢の髪型は医師のような総髪です。もう辞める、ということでしょうか。

註2:明治23年の第一回総選挙で尾崎が当選した際、訪れた尾崎に、祝いの言葉の代わりに次の文を書いた紙を渡したそうです。「道楽に発端し、有志と称す馬鹿の骨頂、議員となり売りつくす先祖伝来の田、勝ち得たり一年八百円。」





 

 


福沢諭吉の英文翻訳法:読者のために訳すということ1/2

2018年11月16日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の英文翻訳法:読者のために訳すということ 1/2

窮理図解口絵まずは、少し長いですが、翻訳がさかんになってきた当時のようすを福沢さんがどう観察していたかを『福沢諭吉全集・緒言』に見てみましょう。多少古い日本語ですが、たぶん中学生でも分かると思います。

 (------) その後江戸に来たりて種々の著訳を試みるに至りても、つとめて難解の文字を避けて平易を主とするの一事はかつて念頭を去らず、同時に江戸の洋学社会を見るに、著訳の書もとより多くしていずれも仮名交じりの文体なれども、ややもすれ漢語を用ひて行文の正雅なるを貴び、これがために著訳者は原書文法を読み砕きて文意を解するは容易なれども穏当の訳字を得ること難しくして、学者の苦みはもっぱらこの辺にあるのみ。その事情を丸出しに云へば、漢学流行の世の中に洋説を説くに文の俗なるは見苦しとて、云はば漢学者に向(むかっ)て容(かたち)を装(よそ)ふものゝごとし。(全集:昭和33年版、p.6)
 
最期に「漢学者に向かってかたちを装ふごとし」と述べているとは、何を意味するのでしょう。自らの体裁を整えるということは、他者ではなく自分のことだけを考えていることを意味します。つまり、福沢の批判の骨子は、異なる人への伝達の意思が乏しいという点です。当時の「内向き」のようすはつぎのようなエピソードにも現れています。
 
(------) 友人が書中の一原字を指摘し、ときにこの字を何と訳して穏やかならん、「あてはめる」と云う字であるが、さて訳語には困る、君はこれまで毎度訳したることもあらんが、こんな字に出逢ふたときは何とするやとの相談に、余は大いに笑ひ、君は今訳語に困ると口に言ひならがその口はすでに適当なる語を吐いて原字を訳したるにあらずや、君の言はるゝごとく、「あてはめる」とはまことに穏なる日本語にして申し分なき訳字なり、僕なれば直ちにこの日本語をもって原字を訳すつもりなり(-----)。(全集、p.9)
 
福沢 子供では、福沢はどのように翻訳の工夫をしたのでしょうか。
 
(-----) 山出しの下女をして障子越に聞かしむるもその何の書たるを知るくらいにあらざれば余が本位にあらずとて、文を草して漢学者などの校正を求めざるはもちろん、ことさらに文字にとぼしき家の婦人子供らへ命じて必ず一度は草稿を読ませ、その分からぬと訴(うったう)るところに必ず漢語のむつかしきものあるを発見してこれを改めたること多し。(全集、p.6)
 
たとえば、
 
万有の材料云々 → 有り会いの品々云々
これを知らざるに坐する → これを知らざるの不調法なり / このことを心得違したる不行き届きなり
 
今から見ると書き換えられた方の文も時代劇にでてくるような日本語で古めかしいですが、つとめて口語を用いる努力をしていることが伺えます。その努力を支えるのは伝達への意思です。「少年のときより漢文に慣れたる自身の習慣を改めて俗に従はんとするはずいぶん骨の折れたることなり。」と福沢は述べています。
 
少し長い思想書を訳すときはどうするのでしょう。数回前のブログで引用した例に再度登場を願います。

(『西洋事情外編』)

Society is, therefore, entitled by all means consistent with humanity to discourage, and even to punish the idle.

故に人間交際の道を全(まっとう)せんには、懶惰(らんだ)を制して之を止(とど)めざるべからず。あるいはこれを罰するもまた仁の術と云うべし。

threforeそれゆえ、(be) entitled to~する資格がある、means手段、(be) cnsisitent with~と矛盾しない  discourageやる気をなくさせる、punish罰する、 the idle怠け者

福沢明六社「それゆえ、社会というものは、人間性と矛盾しないあらゆる手段を用いて、怠惰な人に注意を促し、罰することさえ許されるのである」とでも訳すのが現代風の訳ですが、「福沢の訳は意訳ですね」という反応がまわりから返ってきました。しかし、意味をずらした意訳かというとさにあらず。英語と日本語の単語の対応関係は外しますが、よく見ると正確な「意訳」であることが分かります。大学受験では嫌われる訳ですが…。

まず、「社会」ですが、社会なるものは存在するのでしょうか。人工的な操作概念であることを私たちは忘れているのではないでしょうか。他の例でいえば、「消費者」(consumer)があります。「主婦」という言い方と違って、消費者という分類の人はいません。どの人も消費者であり生産者です。消費者という概念を使うと経済現象が説明しやすいのでそう言っているだけです。社会については、じっさいにあるのは、人々が交わるという動作があるのみです。このことに気が付かせてくれるだけでも現在、福沢を読む価値があるというものです!。近いうちに「明治維新は英語学習にとって過去にあらず」というタイトルでもつけるべきコラムをアップロウドします。

この英文テキストでは、「操作概念」であるsocietyという名詞を主語にして、道徳的価値の基準(is entitled to ---)であることを動詞で表わしているわけです。こうした使い方は日本にはありません。そこで、福沢は、まず、人間交際という動作をしめす単語を用いて、それを道徳的価値の基準にするために、わざわざ「道」を導入します。そして、そのうえで、「まっとうせんには」という表現で、目的と手段に表現に変えているわけです。

原文の英語:主語+動詞

福沢の日本語:目的となる行為+手段

このように構造を転換しているのですが、都合のいいように意味を変えているわけではありません。現代の英語学習でも、The news made Chiko angry.を「その知らせを聞いてチコは怒った」というのと訳すのは受験でも「許されて」いますが、同じことです。

ところで、be entitled to。これは、canとshouldを合わせたような意味ですが、この動詞句を、「これを止めるべからず」、「もまた仁の道といふべし」と分けて訳しています。仁の道は言い過ぎではないか、それこそ意訳ではないかと言われそうですが、もう一度原文を見てください。by all means consistent with humanity(人間性に矛盾しないあらゆる手段を用いて)の部分を工夫して訳したものだと分かります。しかもevenを使って示した、より強い方に「仁の道」を用いている点にも注意をしたいです。

なにより、普通の現代語訳より文に力があるように感じられませんか。次回は、このような翻訳法がどうやしなわれたかをさっと見てみます。緒方洪庵の塾で学んだことが多いようです。

註:一番上の写真は、物理学の入門書『訓蒙・窮理図解』の口絵。

註:真ん中は、同書、気圧の差によって茶碗が手のひらから落ちない実験。

註:一番下の写真は明六社の集会の模様。後列、背の高い人が福沢。

2/2へつづく