外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

カタカナ英語は是か非かの問題の背景に潜むもの

2015年11月26日 | 言葉について:英語から国語へ


カタカナ英語は是か非かの問題の背景に潜むもの

老教師英語教育をはじめとして、教育の議論は一定の関心を呼ぶものとして、つまり書籍や雑誌の購入の動機となるものなので、これからも続々と行われるでしょう。しかし、議論と行っても、何か現実を変えるために、文殊の知恵を期待して行われているか、と一つ一つ問いかけてみると、ほとんどの議論に疑問符がつけたくなります。

つまり、大衆受けするから、題目だけ見て買ってくれるからという理由で行われている気配が濃厚です。いや、大衆社会のことですから、そういう面も否定できないでしょうが、「そうだ、そのとおりだ」と溜飲を下げることだけにかまけて、さて、ではどうするの、というと、もう別の話題に気を取られて、何も変化が起きない、ということが大半です。

英語教育については、古くは、平泉、渡部論争、近くは、藤原正彦の提案した、「国語教育優先論」です。 藤原さんの議論など、まことに正論だとは思うのですが、それで、文科省の方針が変わるかというとそんなことは期待薄です。そこで、私は、あちこぢで「理想と実際論の対立は、実際論が最期に勝利を収める」と皮肉に書きました。

最近の「論争を呼ぶ」著作は『教育の経済学』でしょうか。この本が提起する問題についてはいずれ触れたいと思います。それは、さておき、ここでは、「カタカナ英語」について、人々が話していることに耳を傾けてみましょう。

意見は二つに分かれます。是か非か。

「カタカナ英語はいかん」という意見の根拠は、「正しい英語」でなければならない、と要約できるでしょうか。

「カタカナ英語でもよい」派は、「学習に壁を設けるな」という議論です。

アイロン両者とも、主張する時は、上に書いてある二つの括弧の中身で頭を一杯にして、それにあったことを引っ張り出して議論する、という趣です。頭が一杯ですから、相手の言い分に耳を傾け、よりよい意見に自説を修正するという動機はあまりないようです。

そこで、まずは、「カタカナ英語」とは何か、考えて見ましょう、いや思い出してみましょう。思い出すというのは、私たちはだれでもうっすらとそのことが分かっているのですから。

それは何か。英語と日本語の音韻構造が違うのに、なんとか日本語の音韻構造で英語を発音しようとするから「カタカナ英語」になるのです。母音については、日本語には5つしかありません。英語には、13あるそうです。例えば、英語は、ほかの欧米語よりずっと「二重母音」というのが発達していますが、日本語では「長母音」でも「二重母音」でも意味の区別には繋がりません。

おっと、「二重母音」という「専門用語」を使ってしまいました。「オウ」とか「エイ」という音のつながりです(辛うじてこれはカタカナで表記できます!)。これらは、「オー」と言っても「エー」といっても雰囲気の違いこそ出ますが、意味の違いには繋がりません。ですから、court(宮廷、法廷)なのか、coat(服の一種)なのか日本語では区別して表わすことができないのです。どちらも、「コート」。しかたありません。

そう。しかたないのです。日本人が英語を発音したいと思った場合、少なくとも最初は、日本語の音韻を使うしかないのです。とりわけ、第3者の日本人から「今の異人はなんと申したのじゃ」と聞かれた場合、「こーと」でござります、と言うしかないのです。最初の学習者が耳の良い人で、...えっと、「カタカナ」ではなかなか表記できませんが...、まあ、「コウトゥで御座りまする」、と申し上げても、第三者は、「ふむ、こーとじゃな」となるでしょう。江戸末期にかぎらず今でも同じことです。

メリケン波止場もう一つカタカナの問題を言い添えましょう。それは日本人の外国語学習が文字中心だったことです。アルファベットで入ってくる情報をいわゆるローマ字の体系に近づけようとしたことです。Americanなら、「ア・メ・リ・カ・ン」となります。そこには英語の音声に特有なアクセントは反映されません。まだローマ字が定着せず、音だけ直接カタカナに移そうとした頃の方がもとの英語に近かったかもしれません。Americanは、「メリケン」でした。メリケン粉、メリケン波止場のメリケンです。たしかにアメリカ人が発音しているのを聴くと、アメリカンとうより、メリケンに聞えます。

ともあれ、カタカナを経由しなければ、私たちは英語に近づくことが困難なのです。その存在を「いかん」と、全否定するのは、今の流行語を使えば、「上から目線」の批判は免れません。

しかし、それにも拘わらず、「正しい英語派」の先生は、正確な発音教育のために情熱を燃やします。たしかに、native speakerのように話す必要がないのでは、とみなうっすらと思っていはいるのですが...。

そんなことをわざわざ言うというのも、日本では、柔道とか、書道のような「英語道」みたいな気分が存在するように思うからです。小林克也のように話すのが目標になったり、白州次郎のように「英国貴族の英語」を仰ぎ見たりするとういのうが、英語学習の文化になっている気配があるからです。柔道や将棋にに何段とか名人がありますが、それを目指すのとパラレルに英語学習を捉える傾向があるのかもしれません。英検をはじめ、あらゆる検定流行る背景にはこういう歴史があるように思うのですが、いかがでしょう。

ところで、英語ですが、そんな名人にあこがれる必要はありません。安倍首相の米国議会での演説は、そのような神話から醒めるためによいきっかけだったのではないでしょうか。サッカーの本田選手のミラノにおける記者会見、建築家の板茂や、手塚貴晴たちのあっぱれな英語でのプレゼンテーション、最近のこうした人たちの姿をテレビで見た人たちのなかには、英語学習についてのイメージが変わった人も多いのではないでしょうか。安倍首相の英語...、たしかに日本人の英語です。「カタカナ」かもしれません。即席の学習だったかもしれません。「英語力」だけ捉えれば宮沢喜一元首相の方がずっと上でしょう。が、りっぱに米国人に伝えるべきことを伝えることができました。板茂さんについてはTEDなどでぜひ見ていただきたいですが、RとLの違いなどほとんどしていないようですが、構文と論理をを明快に構成し、相手の言葉に的確に対応します。

安倍首相 米国議会いや、彼らの英語は、もうカタカナ英語とはいうのは適切ではないでしょう。ここで「カタカナ英語」の問題点を述べましょう。それは音韻上の問題ではありません。英語という外国の言葉を日本語の世界で理解しようとしていることです。異なる言語なのですから、異なることを異なっていると認めなければならないのはあたりまえのことなのですが、日本人は、それを日本語の言葉の枠のなかに無理やり当てはめようとする傾向があります。その象徴がカタカナ英語だとしたら、それはやはり大問題なのです。私は江戸時代以来の漢文の読み方が影響しているのではないかともにらんでいますが。異なったものを異なったものとして受け取ることの訓練を日本人は怠ってきたのかもしれません。これは急速な外来文化の受け入れと裏腹の関係にあると考えるべきでしょう。

ここまで見てくると、カタカナ英語を忌み嫌う派も、カタカナ英語に居直る派も、同じ問題を抱えていることに気がつきます。前者も後者も、外国語を日本内部での問題としてみているということです。言語は、己と異なる人を理解し、己の考えを理解させるための架け橋です。外国語を学び、使うということは、外国人を理解し、外国人に己を理解させるということです。ところが、日本人同士でこれは完璧な発音だなどと褒めあったりしても意味がありません。もちろん、「カタカナ英語」で、分かった気になる、分からせた気になるというものせんないことです。

はろーでは、どうすればよいのか。こと、発音の教育に関しては、「習得」するというより、日本語の音韻から英語の音韻へ「移る」という側面に重点を置くべき、とういのも一案です。日本語の音韻を無視して、ひたすらnative speakerのまねをするより(時間があればよいですが)、すでに日本語の音韻を意識化できる大人には、コートはcoatかcourt、またはcaughtだよと、間違えると意味が通じなくなる点を優先して教えるような教育体系を作る必要があると思います。じっさい、court、caughtの「長母音」は発音するだけでなく、日本人の耳では判別しにくいということは教室で日々経験しています。とりわけ、thoughtは分かりにくいですね。

そして、なにより、他者の言語である英語で話している人間を理解する、理解させるという基本的姿勢が第一です。実を言うと、首相の英語スピーチなどが昨年来、公表されてから、「カタカナ英語」についての議論が少なくなったような気がするのです。カタカナ英語は是か非かなどという議論が無意味であるということに日本人がようやく気がつきだしたのかもしれません。