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『英語教育論の進め方への疑問』の草稿より
「科学的」という表現は、みんな勝手な意味に解しているので、あまり使いたくないのですが、論壇の「英語論」というのは、とても「非科学的」という印象を 持ちます。つまり、英語習得者がかってに経験論を述べていて、一般化できないということです。一般化できないから、役に立たないのです。
問題は、もっと深いです。たいていの評論は、「世間にこんな間違った、愚かな意見がある、でも私はこう思う」という形を取ります。例えば、こんな具合です。
「日本の英語教育は文法偏重だ」 →「コミュカティヴ・アプロウチというのをアメリカで習ったから<会話>だ!。」
「会話偏重は行き過ぎだ」 → 「文法を忘れてはいけない」
左が「世間の通念への反感」です。必ず、「そうだ!」という人がたくさんいて、「溜飲を下げる」というところで終わってしまうのです。
理論 → 妥協 → 実行、という見通しはだれも持っていないのです。
今日の新聞には、「プレゼンテーション、情報の発信ばかり言うのは片手落ちだ」 → 「聴いて理解することが第一だ」というのがありました。いかにも「正論」に聞えます。実際、「正論」でしょう。
聞いた人は、「そうだ、世間は間違っている、私の考えの方が上だ」という気持ちは満足させるようですが、その後どうするのでしょう。
「憲法9条は改正だ」という議論も同じで、大問題ではあるのでしょうが、論じている人は、論じていることで盛り上がっているという陥穽に陥っていないでしょうか。100年たったら現状の憲法がおかしいのは誰も常識だと思うでしょう。改正して普通になるだけのことです。
こうした、レトリックの落とし穴に陥ると、現実みが失われていきます。極端な例で、「英語を勉強するな」というところまで、行ってしまうのは予想したとお りでした。レトリックを共有する人は、「そうだ、そうだ」と感じる(興奮する?)のでしょうが、結局何も言ったことにならないのです。
では、なぜ、こうした現象が起きるか。
私が考える結論だけ言いましょう。
① 1月14日の最初のコラムに書いたように、日本人が子供の頃から外国語に接することが少ないこと、それに、意志の伝達の真剣さを感じていないので、いろいろな意見を聞いて右往左往するだけだらです。
② 新しいことをちょっと言えば本が売れるという出版社の近視眼的な戦略、いや、経営戦略の欠如があるからです。
皆さんはどう思われますか。
★ 写真は、斉藤博駐米大使一家
その通りですね。
ここには、「評論家」の言葉と「実行家」の言葉の別があるかと思いますが。
理論(理想)だけ言っていたのでは、結局何もできない。現実の困難を踏まえない言説は、結局無効である。これはいかにも、正しいです。
ただ、私も評論めいたものを書く者として、「だから評論家なんて人種はいらない」までいくとしたら、それもまた問題かな、とは思います。
現実が思うようにいかないから、ガス抜きの言説にも需要が出てくるわけでして。その効用は一概に否定できないでしょう。
何より、「それは言葉に過ぎない」「言葉より実行だ」というような言葉で、他の言説を切って捨てて顧みないようなのは不当です。
もちろん小川さんがそうしているというわけではありません。世に珍しくない、「実行家」気取りの「観念家」を難じているのです。
別件。写真を見る限り、斎藤博氏の奥さまは、戦前には珍しい(んじゃないですか?)近代的な美人ですね。
けっこうなことだと思います(^^;)
英語の、disucussionは、言論で、debateは政治なのかもしれませんが、あえて区別しようという意思の現れでしょう。だからと言って、二つが当然のごとく分かれているということを意味しません。
が、ともかく、まず意見の表明がなければ先に進めません。不言実行とか、誠は通じる、というのはどうも。
英語論は、行き詰まっています。同じところをぐるぐる。千野さんが、本田選手にかこつけて書いていることは、その循環を一歩抜け出た感じがしたので、取り上げました。千野さんも、まだ考えがぼんやりしているのではないかと思いますが、ともかく、日本人は、外国語について新しい課題を突きつけられているので、まだ方向が定まらないのでしょう。ようやく考え始めたというところでしょうか。
斉藤さんの英語は、伝えたいと言う意思が伝わります。その点、松岡大使とというもう一人の英語の達人と比べると面白いでしょう。松岡の国連演説だけで比べるのはフェアでないかもしれませんが。