外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

入試英語、外注断念は喜ばしいことか

2021年08月17日 | 英語学習、教授法 新...

入試英語、外注断念は喜ばしいことか

感染症、オリンピックの記事に隠れて、大学入試改革の二本柱が導入延期に追い込まれた、という記事がありました。(産経6月23日)

柱の一つは記述式の導入、もう一つは英語の外部試験委託の件です。効率重視の文部省の施策に苦い思いをして、「それはよかった」、と喜ぶ向きも多いのですが、ここで喜んでいいのでしょうか。ここでは、英語外注の件に絞って論じましょう。

文部省の拙速があらわにしたことは、「改革が不要だ」ということではなく、問題の背景に潜む「哲学」、あるいは「思い込み」です。つまり、「何のための英語試験か」という問いかけが水面上に顔を出したのです。ふだん、システムが機能しているときはこのような問いかけは水面下に沈んだまま浮上する機会はありません。今回の「挫折」ははからずも、人々に入試英語の意義を考えるきっかけを与えてくれたと言ってもいいでしょう。

そこで、期を逸せず議論を深め、新たなシステムを構築するよすがにするべきなのでしょうが、ちょっと疑いがなくもありません。日本の過去を振り返ってみて、大きな挫折のあと問題を深く考え、その後の改革に大いに役に立ったということがあったでしょうか。「ざまあみろ」と溜飲を下して、そのあとはすっかり忘れてしまうということがなかったでしょうか。

ちょっと大きな話になりますが、1945年の敗戦と新憲法制定の過程などにもその気配を感じます。ここで問題となるのは憲法学者や哲学者、知識人と言われる人たちのことです。敗戦とともに従来のビューロクラシーが崩壊したのですから、自由に、日本とは何かを考え、論じる機会が彼らに生じたわけですが、米国の意向と共産主義勢力の政治的影響力の狭間で右往左往しているうちに、米国の意向に押し切られたということはなかったでしょうか。私の素朴な疑問なのですが、どうして「憲法」と言わずに「基本法」としなかったでしょう。「憲法」としてしまうと永続的なものになってしまいますが、主権のない敗戦下においてそのようなものは成り立たないのではないでしょうか。「基本法」としておいて、主権恢復後に再考すると規定しておいた方が筋が通っていると思います。たぶん、当時、日本は食べることに必死で、「憲法」など腹の足しならないものはどうでもいいから、脱脂粉乳でもなんでも下さい、アメリカ様!、という心理が広がっていたのかもしれません。

入試問題外注挫折から、憲法の話に広がってしまいましたが、心理的にみれば同じメカニズムが働くことがあり得ると思います。ほっとしてお茶でも飲んでいないで、大学入試にとって英語はどういうものでなければならないか、また、そもそも試験というものはどういうものか、という議論が論壇で行われるようになってほしいものです。

皆さんにも考えるよすがとして、試験と言うものは以下のどれを目的とするのか。その混合形態、妥協点はどこにあるのか、知っている例を踏まえながら考えてみてください。

試験とは?;

A:定員があるので入学者数を絞りこむため。

B:優秀な学生を選別するため。

C:高校生に大学生となるための準備をさせるため。

まず、この問からスタートしましょう。

 

 

 

 

 


英語共通試験(2021)を垣間見る:2 リーディング6問中最初の3問

2021年01月28日 | 英語学習、教授法 新...

英語共通試験(2021)を垣間見る:2 リーディング6問中最初の3問

前回は、試験問題というものの一般的な成り立ちを述べて、問題の良し悪しなどの判断基準の助けになることを意図しました。

今回はリーディングの問題全6問中の最初の3問(各問、AとBに分かれている)について。とはいえ、それほど深く検討したわけでもなく、数週間もたちますとだいぶ記憶も褪せてきますので、いくつか気づいた点をメモ程度に記しておき、また論じる際の備忘録にしたいと思います。

まず、この3問だけでなく、残りの3問、および、リスニングにおいても、表やグラフが多用されている点が特徴的です。その必要はどこにあるのでしょう。他の教科にあわせ、「実学」的ムードを持ち込むだけでしょうか。英語共通試験の場合、表、グラフは、もし日本語にしたら小学校の下級生にも分かるような易しいものです。ほとんど、時間の前後関係か人物間の関係(AがBに、か、BがAに、など)に見えます。他の教科の場合、グラフに隠された意味の読み取りが課題になっているのかもしれませんが、英語の場合、そうは見えません。問3のAは旅程の問題ですが、フローチャートを見ると各交通機関の所要時間が書いてあります。前回、それを足し算すれば全体の所要時間は分かってしまう、と述べましたが、それはちょっと言い過ぎ。じつは、本文を見ると待ち時間が書いてあるので、数字だけで選択肢を選んだら間違いになってしまいます。英語の問題なのですから数字だけで答えがでるはずがありません(それに気がつかないとね...)。もっとも、それだけの問題です。表を見て、あと、ちらりと本文を眺めれば100%自信をもって答えられます。

このように、グラフ、表を入れることで問題が易しくなっていると言えるのではないでしょうか。ちなみに、全体がTOEICとますます似てきましたね(リスニングとリーディングの時間配分もTOEICと同じく半々)。

ここで英語の入試問題は何を問う問題なのかという前回のテーマに触れることになります。私は前から、「言語学習が他の教科と違うのは、その言語の外にあるもの、つまりなんらかの現実に触れなければなりたたない点だ」と言ってきました。純粋な「英語力」なるものは測れないとも。今回の共通試験でグラフ、表を多用しているのは、一見、言語外のものに言及しているように見えますが、みな、先に述べたような簡易なもので、人工的な作り事のような印象を与えます。第一問Aは「ライン」による忘れ物の話。Bは歌手のファンクラブのニューズレター、などなど。大人が子供が好むだろうと思いそうなもので、それらはみな、高校生には、ゲーム内の絵空事のように受け止められることでしょう。我田引水で恐縮ですが、TOEFLでは、たしかに日常的な論理を問う問題はあるものの、来る大学生活の案内になる内容だったり、高校レベルの科学的知識に関する内容などに基づいています。つまり、これからの現実の世界に開かれた問題になっています。日本の英語問題とTOEFLを比較する方はあまりいないと思いますが、ぜひ見比べてもらいたい点です。

扨て、今回もう一点。前回、試験というものの存在理由として、学習の誘導ということを挙げました。その点を徹底する場合、各問題で要となる点を受験生に1年前から知らせるということもあるでしょう。しかし、共通試験後のメッセージなどにも問題の趣旨を知らせる発表はほとんどなかったと思います。ところが、今年の問題の第2問のAでは、選択肢で、factかopnionかという問いかけがあるのです。fact / opinionの判別はアメリカなどでの言語教育の根幹の一つで、木下是雄さんの『リポートの組み立て方』でも最初の方でかなりのページを費やしている主要な能力です。しかし、日本の国語教育、ましては英語教育では、事実か意見かというテーマは大きく取り上げられることなく現在に至っています(らしい)。ですから。fact / opinionを取り上げるとしたら、前回述べたような学習の誘導を行うべきでしょう。しかし、センター試験も今回の共通試験にもそういう発想はありません。このテーマを取り上げたこと自体は称賛されるべきだと思いますが、唐突にこのテーマが問われるのは、「外国で流行っているから」、という「日本人的」な思い付きがあるのではないかという疑いを抱かせます。じっさい、fact/opinionの区別に慣れている人なら、問題文を読まなくても選択肢を見るだけでおおよそ正解が分かる点から見ても、思い付きではないかという疑念は深まります。

以上、2点を挙げましたが、今回の出題に好ましい点はあるのか。英語が、あるいは英語の根底にある論理が易しく、語彙もある基準が想定されているように思える点は好ましい点でしょう。高校1年末から2年というところでしょうか。ただ、表なども含め量が多いという点はどう考えるべきか。内容は平明なので帰国子女であれば、中学生(小学生?)でもあっというまに満点が取れるように思います。ま、これも、訳読中心の学習しかしてこなかった生徒に対し、英語の文法の論理で読み、聴き進めることを促すという点で、ある種の学習の誘導が行われているとみることもできますが。

 

 

 


maybeを「おそらく」、「たぶん」と訳していいの?。

2021年01月27日 | 英語学習、教授法 新...

maybeを「おそらく」、「たぶん」と訳していいの?:コラム以前

maybeは「ひょっとしたら」、probablyは「おそらく」というふうに区別して教えることが今では主流でしょう。しかし、辞書の例文などで、Maybe, you will succeed.=おそらく君はうまく行くさ(Weblio)というような訳例がふつうにみられるので、習う側はまだ戸惑うことが多いのではないでしょうか。

maybeは、「そうでない場合もあるよ」という点に焦点があるのに対し、probablyは「十中八九」です。

"will our geust like sashimi?"と訊いて、

"Maybe."という答えが返ってきたら、刺身を出すのをやめるのが妥当でしょう。

"Probably"なら、じゃお刺身を買ってきましょうということになるでしょう。

ここで問題なのは、確率です。確率は日本であろうとアメリカ、その他どの国でもあてはまる、つまり、普遍的なことです。どうも、普遍的なことを教えるのが後回しになっているのではないか、と思うのです。

大半の日本人にとっての英語学習は「限られた」ものです。そこで何を優先して教えるか、何を後回しにするか、という課題が大きくなってきます。ですが、こうした「学習上の優先順位」が考慮されることが少ないのではないかと思います。また一つ一つ論じることにしましょう。

 


英語、共通テスト(2021)は「改善」されたか?

2021年01月16日 | 英語学習、教授法 新...

英語、共通テスト(2021)は「改善」されたか?

今日の新聞には、昨日行われた英語の大学共通テストの問題が掲載されていました。いままでのセンター試験から改善された点があるのでしょうか。

まだ問題を瞥見しただけで、他に資料もないので、上の題はいささか大げさ、今回はあまり論じられません。表面的にはTOEICに似ていますネエ。リスニングの比率がリーディングと同じ、図表が多い、などです。

ここでは、議論を進めるためのいくつかの基準を挙げるだけにしておきましょう。まず、一般的に、試験というものはどういう目的で行われるか。4つの目的が思い浮かびます。

1:定員があるので振り落とすため

2:優れた生徒を選び出すため

3:高校での学習でのでき具合をみるため

4:大学で必要とされる能力を身につけてもらうため

3という答えが返ってきそうですが、今回の試験やセンター試験を含め、日本の大学入試では、具体的な高校での学習事項が示されることはありませんでした。私はとくに、長年TOEFLの授業を大学の課外講座で担当していましたが、TOEFLでは4の意図が明白で、それにそったよい教材も公表されています。

つぎに、言語は読み、書き、聴き、話すの4つからなりたつからといって、試験問題にもその4分類が前提になるかどうか。リスニングの割合を増やす、というのは、「リスニング能力」というものがあって、それを向上させるという意図でしょうか。もし歴史であれば、アメリカ史の知識をつけてほしいからアメリカ史の問題を増やすという論理がなりたつでしょうが、言語はそう単純ではありません。そもそも言語は音声が実体です。そこから書き言葉が割り出されているのです。そういう認識があれば、リーディングとリスニングの割り振りにももう少し知恵が働きそうです。少し話が広がりますが、上の4分類以外に、日本語と英語との距離を考慮した問題というのがあってもよさそうに思いますがどうでしょう。

扨て、最後に、言語の他の教科との違いについて一言述べましょう。それは、言語は、言語外のことと関連してしか存在しないということです。アメリカ史についての知識はそれだけで完結しますが、英語は英語をとおして何かを理解する、伝えるの「何か」がなければ成り立ちません。ですから純粋に英語の問題を作るというのはがんらいむつかしいのです。もちろん、発音や文法ということは言語プロパーの問題でしょうが、リーディングの問題で、もしそれが日本語に翻訳されてもむつかしい内容なら、英語が分からないのか、内容が分からないのか区別はつきません。概して英語の先生は内容の方を振り捨てて純粋な英語の問題を作ろうとしているように見えますが、そうすると内容がとても易しい、あるいは幼稚なものになってしまいます。

今回の共通テストでは、図表が多いので、ちゃんと「言語外」のことに触れているではないかと反論を受けそうですが、とても単純なもので、日本語にしたら小学生でも解けるものばかりではないでしょうか。

以上のことを書きながら、具体例なしで抽象的に論じてもどんなものかなあ、と思っています。機会をみて具体的に論じたいと思います。

ちなみに、各問題のテーマを日常生活や学生生活にばかり求めるのはどうしたことか。TOEFLでは、高校レベルの理科の内容が多くて、参加した社会人の生徒さんたちと懐かしがって問題を解いたりしたものでしたが。

 

 


続続続の(3/3):関係詞の学習の仕方、教え方のアイデア

2018年09月18日 | 英語学習、教授法 新...

続続続の(3/3):関係詞の学習の仕方、教え方のアイデア

生徒:最終回は関係詞の話はもうおしまいですね。

先生:はい、学習理論の必要を論じる一般論の方におまかせしましょう。

grammar 2生徒:何か補足することは?。

先生:whatの話などまだ話していないことがあるのですが、今回の関係詞特集は、学習の段取りに焦点を当てたので、触れていない点があります。「限定(=制限)」の意味を理解しない人が多いのは、学習の順序が悪いから、ということもありますからねえ。

生徒:たしかに。学習順序しだいでは、制限、非制限を逆に捉えたりするなどという変な間違いはしませんね。

先生:案外これが多いんですよ。というわけで、何を学習するためには何を前提にするか、後にするか、という点を中心にしたので、包括的な関係詞学習というわけはありません。あとは、前述のマーフィーの文法書などで練習してください。一人で学習する場合もせめて声を出して練習問題にあたってくださいね。

生徒:さっそく"A ------"のサイトからマーフィーの本を注文します。

先生:青いのが英国篇、薄紫のが北米篇です。

生徒:了解。

------------------------------------------------------

続続の(1/3) で、高校一年ごろ、つまり、基本的な英語経験を積んだ後に、発音にとどまらず、英語と日本語の基本的違いを意識する必要があると述べました。この問題は、英語学習理論を考える場合の基本に横たわる問題だと思います。

■内向きの英語学習

このころを過ぎると、完璧発音派とカタカナ発音派に分かれて内輪の自己主張が始まります。「まるでネイティヴのようにお上手ですね」とか、米国人の占領当局者に向かって英国のなまりで「君も英語がうまくなるように頑張り給え」などと言ったという伝説とか、こういう話を好む「理想の英語」派という人が一方にいれば、他方で、「通じればいいのさ。気取りやがって!」という人たちもでてきます。

ここで注意すべきは、どちらも英語が言語だということ、つまり意思伝達の道具だということを忘れているということです。お互いの我を張りあっているだけで、日本人同士で褒め合ったり、けなしあったりしているだけです。どちらも英語学習以外の何かを英語学習だと思い込んでいるように見えます。

じっさい、このころの学習段階で起きていること何か。前提となるのは、母音に限っていえば、日本語では5つ、英語では13ないし16だということです(私はもう少し複雑だと思いますが)。ですから、lord / load、coat / court / caught、hard / heard、などなど、各スラッシュで区切った前後の発音は日本語の発音体系では表せないのは当然です。しかし、私たちが英語を学ぶというのは日本語から英語に移るということですから、出発点として日本語の5つの母音からスタートするしかありません。そこで、英語をカタカナで表記するのには宿命的な必然性があると言えるでしょう。しかし、じっさい、いくら「通じればいいのさ」といはいえ、文脈なしの「ロード」では認識されませんねえ(RとLの違いという問題もあるし…)。両派の派閥争いと関係なく実際起きている問題はこういうことではないでしょうか。

■学習理論の必要は日英の違いの認識から

この問題を越えるには2つの方法があります。一つはがむしゃらに英語をまねることです。DJの小林克也さんはそうしたのでしょうか。しかし、それは英語学習にほぼ全精力を費やせる場合の話です(それに才能も必要)。もう一つの方法は、発音を「理論」的に学ぶことでしょう。理論的といっても何も教室に座ってノートをとるようなことではないです。いろいろな方法で効率化を図るべきです。

しかし、その際、なぜ「理論」的に学ぶかという問いかけがないと、理論のための理論の学習になってしまって英語の実態から離れてしまうのは避けられません。「品詞の分類などに力をあまりいれないように」という前に述べた「通達」がおこなわれるような事態が生じます。

なぜ「理論」が必要か。その理由は、英語と日本語が違うということを意識するためです。私たちはほんとうは通じていないのに通じたと思い込んでいるということはありませんか。日本語を使う者どうしでもそのこと起きます。自分以外の人間は自分とは違う考えを持っているかもしれないことを無視して、自分の考えを押し付けることはよくあることです。ましてや、外国人ともなるとその違いが段違いです。向こうの人の発音を無視してカタカナで通すというのは、いくらなんでも相手を無視しすぎるというものです。「違うんだ」ということを意識すれば発音にかける学習にも力がはいります。そこには英語崇拝も国粋主義も入るこむ余地はありません。

もちろん、発音に限る問題ではないことはお分かりでしょう。今回、関係詞という一つの文法項目を扱いましたが、文法学習の必要性も、この「違いを知る」ということにもとづきます。いわゆるコミュニカティヴ・アプローチには「違い」の意識が少ないという指摘もできるかもしれません。

■コミュニケーションを拒否する言語

言葉は理解し、理解させる道具だといえば当たり前に聞こえますが、言語には、むしろコミュニケーションを拒否する機能もあります。お互いに仲間だということを確かめる機能です。もっと具体的に言うと、相手を傷つけないことに言葉を使う上で気を使いすぎる場合のことです。相手を傷つけないと言いますが、それは相手によって自分が傷つけられることを恐れるからです。要するに自分のことしか考えない態度、言い換えるとコミュニケーションの拒否ということになります。この態度からは「違い」を認めるという発想はでてきません。英語を学習している方にも、考え方の根底にこの気持ちが潜んでいる人がいるように思います。私は英語力が伸びない最大の理由はそこにあると考えます。

■違うからこそ

英語の木「通じればいいや」(じつは通じてなくても、そう思う)ではなく、違うからこそ理解しようとする、分かってもらえるように努める、この発想が今まで述べて来た「英語学習理論の必要」を支える考えです。違いを越えて理解を追及する...、こういうと、文法教育を軽視していると言われるミュニカティヴ・アプローチと同じではないかと、早合点する方もいるかもしれませんが、むしろ逆でしょう。ほんとうにコミュニケーションを図るためには、文法の学習、そして英語学習の理論も必要になると思います。違いの大きさ、意外さを身をもって経験すると、人間、あきらめるのではなく、なぜ違うのか、どうやってそれを乗り越えるのかを考え始めるものです。そこに外国語学習の面白さがあるのです。