続続続の(3/3):関係詞の学習の仕方、教え方のアイデア
生徒:最終回は関係詞の話はもうおしまいですね。
先生:はい、学習理論の必要を論じる一般論の方におまかせしましょう。
生徒:何か補足することは?。
先生:whatの話などまだ話していないことがあるのですが、今回の関係詞特集は、学習の段取りに焦点を当てたので、触れていない点があります。「限定(=制限)」の意味を理解しない人が多いのは、学習の順序が悪いから、ということもありますからねえ。
生徒:たしかに。学習順序しだいでは、制限、非制限を逆に捉えたりするなどという変な間違いはしませんね。
先生:案外これが多いんですよ。というわけで、何を学習するためには何を前提にするか、後にするか、という点を中心にしたので、包括的な関係詞学習というわけはありません。あとは、前述のマーフィーの文法書などで練習してください。一人で学習する場合もせめて声を出して練習問題にあたってくださいね。
生徒:さっそく"A ------"のサイトからマーフィーの本を注文します。
先生:青いのが英国篇、薄紫のが北米篇です。
生徒:了解。
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続続の(1/3) で、高校一年ごろ、つまり、基本的な英語経験を積んだ後に、発音にとどまらず、英語と日本語の基本的違いを意識する必要があると述べました。この問題は、英語学習理論を考える場合の基本に横たわる問題だと思います。
■内向きの英語学習
このころを過ぎると、完璧発音派とカタカナ発音派に分かれて内輪の自己主張が始まります。「まるでネイティヴのようにお上手ですね」とか、米国人の占領当局者に向かって英国のなまりで「君も英語がうまくなるように頑張り給え」などと言ったという伝説とか、こういう話を好む「理想の英語」派という人が一方にいれば、他方で、「通じればいいのさ。気取りやがって!」という人たちもでてきます。
ここで注意すべきは、どちらも英語が言語だということ、つまり意思伝達の道具だということを忘れているということです。お互いの我を張りあっているだけで、日本人同士で褒め合ったり、けなしあったりしているだけです。どちらも英語学習以外の何かを英語学習だと思い込んでいるように見えます。
じっさい、このころの学習段階で起きていること何か。前提となるのは、母音に限っていえば、日本語では5つ、英語では13ないし16だということです(私はもう少し複雑だと思いますが)。ですから、lord / load、coat / court / caught、hard / heard、などなど、各スラッシュで区切った前後の発音は日本語の発音体系では表せないのは当然です。しかし、私たちが英語を学ぶというのは日本語から英語に移るということですから、出発点として日本語の5つの母音からスタートするしかありません。そこで、英語をカタカナで表記するのには宿命的な必然性があると言えるでしょう。しかし、じっさい、いくら「通じればいいのさ」といはいえ、文脈なしの「ロード」では認識されませんねえ(RとLの違いという問題もあるし…)。両派の派閥争いと関係なく実際起きている問題はこういうことではないでしょうか。
■学習理論の必要は日英の違いの認識から
この問題を越えるには2つの方法があります。一つはがむしゃらに英語をまねることです。DJの小林克也さんはそうしたのでしょうか。しかし、それは英語学習にほぼ全精力を費やせる場合の話です(それに才能も必要)。もう一つの方法は、発音を「理論」的に学ぶことでしょう。理論的といっても何も教室に座ってノートをとるようなことではないです。いろいろな方法で効率化を図るべきです。
しかし、その際、なぜ「理論」的に学ぶかという問いかけがないと、理論のための理論の学習になってしまって英語の実態から離れてしまうのは避けられません。「品詞の分類などに力をあまりいれないように」という前に述べた「通達」がおこなわれるような事態が生じます。
なぜ「理論」が必要か。その理由は、英語と日本語が違うということを意識するためです。私たちはほんとうは通じていないのに通じたと思い込んでいるということはありませんか。日本語を使う者どうしでもそのこと起きます。自分以外の人間は自分とは違う考えを持っているかもしれないことを無視して、自分の考えを押し付けることはよくあることです。ましてや、外国人ともなるとその違いが段違いです。向こうの人の発音を無視してカタカナで通すというのは、いくらなんでも相手を無視しすぎるというものです。「違うんだ」ということを意識すれば発音にかける学習にも力がはいります。そこには英語崇拝も国粋主義も入るこむ余地はありません。
もちろん、発音に限る問題ではないことはお分かりでしょう。今回、関係詞という一つの文法項目を扱いましたが、文法学習の必要性も、この「違いを知る」ということにもとづきます。いわゆるコミュニカティヴ・アプローチには「違い」の意識が少ないという指摘もできるかもしれません。
■コミュニケーションを拒否する言語
言葉は理解し、理解させる道具だといえば当たり前に聞こえますが、言語には、むしろコミュニケーションを拒否する機能もあります。お互いに仲間だということを確かめる機能です。もっと具体的に言うと、相手を傷つけないことに言葉を使う上で気を使いすぎる場合のことです。相手を傷つけないと言いますが、それは相手によって自分が傷つけられることを恐れるからです。要するに自分のことしか考えない態度、言い換えるとコミュニケーションの拒否ということになります。この態度からは「違い」を認めるという発想はでてきません。英語を学習している方にも、考え方の根底にこの気持ちが潜んでいる人がいるように思います。私は英語力が伸びない最大の理由はそこにあると考えます。
■違うからこそ
「通じればいいや」(じつは通じてなくても、そう思う)ではなく、違うからこそ理解しようとする、分かってもらえるように努める、この発想が今まで述べて来た「英語学習理論の必要」を支える考えです。違いを越えて理解を追及する...、こういうと、文法教育を軽視していると言われるミュニカティヴ・アプローチと同じではないかと、早合点する方もいるかもしれませんが、むしろ逆でしょう。ほんとうにコミュニケーションを図るためには、文法の学習、そして英語学習の理論も必要になると思います。違いの大きさ、意外さを身をもって経験すると、人間、あきらめるのではなく、なぜ違うのか、どうやってそれを乗り越えるのかを考え始めるものです。そこに外国語学習の面白さがあるのです。
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