外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

英語教育と国語教育:「論理的思考」と「国語力」

2014年05月29日 | 英語学習、教授法 新...

英語教育と国語教育:「論理的思考」と「国語力」

英語教育

(2018年10月、少し分かりやすく書き換えました)

今回は、とくに意見を展開するのではなく、新聞のコラムの感想を述べながら、今の英語教育論の現状はどんなものだか推し量ってみます。


読んだのは、産経の5月27日<風を読む>、『独善にさせない読解力』。議論にそれほど特徴はありませんでしたが、英語教育と国語教育について、今、人々が考えていることを知るためには有益な議論でした。(新聞の政治的立場から離れて論じられるテーマです。朝日にでてもおかしくないコラム。)

「ロジカルコミュニケーション」

このコラムは、サッカー選手を目指す中学生に、「ロジカルコミュニケーションスキル」という論理的思考力を鍛える教育を取り入れているという記事を紹介しながら、国語教育によくあるとされる、「登場人物の気持ち」は何かという問いに答えるより、情報を読み取った上で「なぜ」の問いに答えることの必要を肯定的に論じるところから始まっています。「論理的思考力」が重視される、OECDによる国際学力試験(PISA)も、「国語以外の教科にもつながらる力」であるとし引用されています。

「論理思考力」育成 → 英語早期諭批判

ところが、そのあと、日本の国語教育への批判、あるいは提案につながるのかな小学校英語と思ったら、意外な方向に展開します。「学校での英語の早期教育」より、することがある、ということが述べられているのです。コラムの最後には、家庭や友達の間での読書活動や話し合いを増やすことを主張していました。最後の文は「英語教育より先にやることは多い」。

そして、コラムのタイトルは「独善にさせない読解力」です。

このコラムの焦点はどこにあるのか...?。タイトルと「ロジカルコミュニケーションスキル」、末尾がどうつながるのか...?。英語早期教育論批判なのか、「論理的思考」育成が主なのか...?。先へ進めましょう。

国語教育が優先されべき理由

ここで言われている国語力とはなんでしょうか。私の二つ前のブログ記事に、「国語はあらゆる知的活動の柱になる、道具以前の存在という性質を持つ」と書きました。藤原正彦さんらが主張する英語早期教育への批判の骨子はここにあります。ふつう、英語早期教育批判を行う場合、対立軸は、人間を育てる根っこである国語教育を忘れてはならない、という点です。しかし、このコラムで述べられているのは、そういう日本人の自己同一性に関わる分野というより、「伝えるための技術」という側面です。このように展開することは思いませんでした。

国語教育の本質、英語教育の本質の議論が欠けているのでは

このように、国語対英語の議論を始めると、国語教育にせよ、英語教育にせよ、それらの本質がなんであるか、何を目指すべきかがけっこうあいまいなままであることに気がつくことが多いです。いずれ、議論を進めているいくうちに、明らかになっていくことでしょうが、ここでは、私は、国語教育の持つ、二つの意味を分けて考えたらどうかと提案します。一つはあらゆる学習に先立つ人間の成長に関わる側面。もう一つは、正確に伝え、理解するという「伝える技術」に関する側面です。

PISA英語、国語に共通する部分

このコラムで言われている能力は、後者の「伝える技術」に関する側面です。この能力は、英語にも国語にも、いや、世界中のあらゆる言語に通じる「普遍的」な部分です。OECD各国共通の学力テストで問われているのですから明らかなことです。そう考えると、カリキュラムの時間を取り合う議論は別として、案外、ここで触れられている「国語教育」は、「英語早期教育に先立つものとして」英語教育と対立するものではなく、英語教育とも共有できるのではないでしょうか。

私が、英語の先生と国語の先生はもっと話し合ったらどうですかと、述べている理由はそこにあります。前回の私のコラムで提案した要約と報告は、国語の時間にも、中学三年レベルの英語の時間でもできることです。知的効果は同じです。

英語も国語も言語です。意思の疎通を図り、思考を深めるためにあるものですから近い存在です。物理と化学ほどではないとしても、教科として近い面があります。しかし、私どものスクールに来られていた、ある公立高校の英語の先生は、「国語の先生は、英語の先生が生徒の国語力を破壊する、と言っている」とおっしゃっていました。基本的に両者は仲が悪いそうです。「~なところの」なんて訳読をしているということを指してそういうのでしょう。

「論理的思考」を強調するだけでよいか

ところで、最後に一言。この記事で、サッカースクールでの授業の例として、「例えば2枚の絵論理 感情の共通点と違いを文章で書く。なぜそう答えたのか、「なぜ」の質問が繰り返され、論理的に考える力をつけていく。」と、これまた、肯定的に紹介されていましたが、私は若干疑問を持ちます。教える先生にもよりますが、これが、単なる「ゲーム」だと生徒に思われるようになると、しだいに、生徒の意欲が薄れる可能性があるということです。「論理的」ということが一人歩きして、「なぜ論理的でなければならないのか」ということが問われなければ、まさに、TOEICのスコアを上げることだけが英語を学習する目的になるのと同じようなことになってしまうかもしれません。

分かった論理的とはどういうことか。論理的でないと何が生じるのか。論理だけでいいのか、焦点というものがあるのではないか、そして、さらに、論理的なくてもよい時はどういうときか。こういう具体的な問いかけが教育現場で常に行われるようでないと、案外効果がない可能性があります。このコラムでは、「論理的に考える力」という「能力」があることを前提している点も気になります。また、「ロジカルコミュニケーションスキル」というカタカナが、こうした議論でふつうに使われることも、イメージが論理に先行しているのではないかという疑いを抱かせます。

次回は、ここまでの議論をきっかけに、「アサヒウイークリー」色パズルや、「JT」のような、駅のキオスクで売っている、タブロイド版の英語学習紙の意味を論じたいと思います。いや、それらの新聞を通して、英語学習の意味を考えてみたいと思います。ただし、別の課題が生じたら、後に送られて、そのうち忘れてしまうかもしれませんが...。このへんがブログの「いいかげん」なところです。

 


英語教育と国語教育:「新情報」と「旧情報」をきっかけに 2/2

2014年05月25日 | 英語学習、教授法 新...

 

 英語教育と国語教育:「新情報」と「旧情報」をきっかけに 2/2

 

外国語の先生の間では知られていることですが、話しているとき、相手が知っていないだろうと思って言うときと、相手が知っているだろうなと思いながら言うときでは、違う表現を使うという規則がどの言語にもあるようです。

桃太郎おばあさん日本語では、助詞の「は」と「が」の区別の一端がこれです。「むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんあったと。おじいさん山へ柴刈りに、おばあさん川へ洗濯に行ったと。」 最初は、聴く人が知らないことなので、「が」。次の文では、すでに知られていることなので、「は」が使われています。

一方、英語など、印欧語の不定冠詞(indefinite articles)、英語では「a」は、相手が知らないと思って言うこと、定冠詞(definite articles)、「the」は、相手が知っていると前提して言うことに使うのが基本です。詳しくは、以下の、東大理学部のサイトにあるトム・ガリーさんの記事を読んでください。

『科学英語を考える』 トム・ガリー 

全10回中の1回から6回まで

http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/english/01.html

ここでは、教室でよく使うマーフィーの文法書に出てくる問題を少しだけ引用させてもらいます。文の意味、使われる状況をよく考えて、aか、theのどちらかを空所に入れてください。英国的な英語です。


a. This house is very nice. Has it got ………………………… garden?


b. It’s a beautiful day. Let’s sit in ………………………. garden.


c. I like living in this house, but it’s a pity that ………………………… garden is so small.

(Murphy p.144 英 72.2 Put in a / an or the 1)

答えは、a. → a、b. → the、c.→ the

「新情報」、「旧情報」という説明で納得がいきましたか?。aとthe


このように、相手が知っていると思って言うこと、つまり、「旧情報」と、相手が知らないと思って言うこと、「新情報」の区別は、国語においても、英語においても、とても重要で、規則になっているくらいのものです。言語は「伝わってなんぼ」だということを、言葉を使い始めた昔の人間は身にしみていて、規則にまでしたのですね(もちろん、無意識にですが)。

このことが国語と英語の教育において示唆することは、表現するときの態度です。表現するとき、というのは、具体的には、作文、英作文、発表、プレゼンテーションなどのことです。文章でも会話の場面でも、相手の立場を想像することが求められます。概して、人間は自分が知っていることは相手も知っているだろうと思いがちです。そう思わせる力は絶大なもので、押し寄せる波のように、こちらが一生懸命漕ぎ続けなれば、相手に自分の知っていることを押し付ける波に流されてしまうものです。常に聞き手、読み手の立場を考え、相手の知っていそうなことは何か、知らなさそうなことは何かを考えながら話さないと、通じません。

broken telephoneでは、その訓練にはどうしたらいいのか。英語と国語に共通する教え方、学習法というものはあるのか?。

たとえば、英語のクラスでも、国語のクラスでも、だれかに新聞の記事を読ませて、それを読んでいない人に口頭で伝えるというゲームをしたらどうでしょう。英語の場合でも、語学的な面ではしっかり読み込んで、あるい聴き込んでいるのですから、ゆっくりなら、「英会話」がだめなんていう生徒でも言えるはずです。大事なのは、

①内容をしっかり理解し、

②削れるところは削る、

③飛ばさない。

④重要な点とそうでもない点のメリハリをつける、

⑤接続詞などの論理的表現を明快に使用する。

そして、なんと言っても、

⑥相手が知らないこと、たとえば専門用語などですね、を日常的な言葉に言い換えて伝えることです。

短い記事でもこのような多面的な要素を含むので生徒はたいくつしないし、なにより達成感が得られます。

あとで、ちゃんと伝わったかどうか、チェックするときに意外な間違い、落とし穴に高校 プレゼン気がつくもののです。そして、間違っても発表者は恥ずかしがるということもないと思います。伝えるのは大変だ、がんばらなくてはという気持ちにつながれば成功です。ゲームとは言え、ゲーム機のゲームと違って、実社会での言語生活との関連がすぐ想像できるのもこの「ゲーム」の特徴です。

もし、伝えるということの難しさと面白さが伝われば、あとは、習う側が自発的に学習していくでしょう。以前の記事で触れたような、instead ofとin spite ofの区別を間違えるようなことはなくなると思うのですが...。

この方法は、実際に英語スクールで試しているものです。小さい規模なので、数量化できはできないのですが、英語学習の動機がはっきりない方、TOEICのスコアアップが気になってばかりいる方などに、効果があると感じています。より、客観的なデータがほしいものです。協力してくださる英語の先生をを求めています!!。


 


英語教育と国語教育:「新情報」と「旧情報」をきっかけに ① 序

2014年05月24日 | 英語学習、教授法 新...

 

 英語教育と国語教育:「新情報」と「旧情報」をきっかけに ① 序

 

今回は、背景について述べますので、具体的な考えについては、②をお読みください。

ネット上に見られる意見を瞥見すると、外国語より国語教育を重んじるべきだという意見がとても多いように思います。その反対論はほとんど見かけません。な言語 通じないぜか。それは実用論は、意見にはならないからです。実践家は、言論などというものは無視してただ現実化すればよいからです。

かつて、あるところに、こう書きました、、「つきつめれば、理想と実用という普遍的な対立である。古来、この対立は理想論に絶対的な真理があって、そうでありながら、というか、そうであるので、勝つのは実用派に決まっている」。どしどし現実が押し寄せてくる中で、「理想論」を述べていても独り言以上の意味があるのかどうか疑わしいのではないでしょうか。

英語英語の早期教育反対、移民反対などの、保守的な立場からの意見の根底には絶対的な正しさがあるのですが、その正しさの根拠は、唯物論に対する精神の立場を守ることにあります。たとえば、1960年代の福田恒存の「保守的」言論は強靭な精神に貫かれていました。それだけに今でも読んでも強い感銘を受けます。

ところが同じことでも、今のように「保守的言論」が社会で一定の「市場」を得ている時代に述べる場合、「言論としての影響を持つ」、ということがあるのでしょうか。似たような意見の持ち主同士が、そうだそうだ、と言い合って溜飲を下げるだけに終わってしまう可能性があると思います。

そして、その結果、無定見な改革路線が抵抗を受けることなく、推し進められるという事態に陥る惧れがないわけでもありません。

そこで、このような行き詰まりを打破するために、英語の先生と国語の先生が国語もっと話し合って、今後の教育について共有できる見解を増やす必要があると思います。英語も国語も言語という点で同じなのですから、具体的な共通点はあるはずです。、国語はあらゆる知的活動の柱になる、道具以前の存在という性質を持つのに対し、英語は日本人が最初に接する日本語以外の言語、という性格を持っています。こういう違いはあるのですが、どちらも、他者を理解し、他者に自分の考えを伝えるためにある、という点で共通しています。ここをとっかかりにして、次回、具体的な点をひとつ述べます。

 


言葉は正確に:フラッシュ・モブ(flash mob)と「ドッキリカメラ」との違い(2)

2014年05月23日 | 言葉は正確に:


言葉は正確に:フラッシュ・モブ(flash mob)と「ドッキリカメラ」との違い(2)

フラッシュモブ バス前々回に、フラッシュ・モブに触れましたが、言い足りない点があったので、もう一度、扱いたいと思います。これまた、「英語・母国語」とは話題が離れますがご容赦を。(下にいろいろなリンクがあります。)

 

前回、純粋な「祝祭」性が、フラッシュモブの本質であるということを述べました。祝祭性と黒いオルフェは、お祭りをお祭りにしている、お祭りの本質のことですが、それは、日常生活から完全に切り離された、またはそれと対立する、限られた時間と空間のこと。そのときだけ、人々の感情生活は別の世界を経験します。しかし、祝祭は長続きしません。祝祭は必ず終わるのです。終わったあと、ふとわれに返ると、日常の生活を営んでいる自分に気がつきます。しかし、ほんの少し前の自分とは違うものを発見するかもしれません。 ブラジルの貧民街を舞台にしたフランス映画『黒いオルフェ』の挿入歌、「カーニヴァルの朝」はそのときの気分を歌い上げたものです。リンクは、ジョーン・バエズが歌っているものです。フラッシュ・モブのサイトをいくつか見た方は、今度見るとき、演奏が終わった後の一瞬に注目してください。「良い」フラッシュ・モブであれば、演奏者がすっと消え、群集は夢を見たかのような表情を一瞬浮かべて、そのあと、日常の足取りに戻るでしょう。

この記事では、最後に、フラッシュ・モブの終わり方に注目し、ひょっとしたら、フラッシュ・モブを最初に始めた人は、この映画から示唆を受けたのではないかと思う、ある映画に触れます。その前に、祝祭性以外に、前回触れなかった二つの点に触れましょう。

ひとつは、街中の辻音楽士に対するまなざしです。プロの音楽家は常にステージ上の華やかな場所にいますが、晴れの舞台ということは音楽の本質と関係があるだろうかという問いは、どの音楽家にもあるはずです。辻音楽士でも、とても優れた音を奏でる人がいます。しかしふつう、マスコミなどから与えられた枠組みで人は音楽を「評価」しがちです。つい先ごろもニュージーランド フラッシュモブそんな「虚像」が話題になりましたね。このニュージーランドのフラッシュ・モブをご覧ください。朝の8時過ぎ。必ずしもすべての人が音楽に注目するわけではありません。駅の「変な人たち」に対する視線が消えていないだけ、フラッシュ・モブの本質がより顕わになっていると思いませんか。

二つ目は、インタネットとの関係です。フラッシュ・モブ自体、携帯電話を用いた周到な用意のもとに行われれるのですが、インタネットによって変質した社会への疑いもまた、フラッシュ・モブがこれだけ世界中で猖獗を極めている深い理由ではないかと思います。

どういうことか。

インタネットはユビキタス(遍在。「偏在」ではない。)という言葉に表れているように、いつどこでも情報が得られ、発信できることを目指しています。地球の裏側の町並みも、グーグルの地図からいつでも簡単に引き出せます。音楽が録音の技術によっていつでも聴けるようになってから100年以上たちますが、インタネットによってお金を払わなくても音楽が聴けるようになり、音楽家は、自らの寄って立つところについて疑いを抱かざるを得ません。そういう時代に、フラッシュ・モブは、「今、ここでしかない!」ということに<価値>があるということをひそかに主張しています。それはインタネットのちょうど対極にあると言えるのではないでしょうか。そのことをインタネットで発信しているということに、フラッシュ・モブの「ゲリラ性」を認めることもできるでしょう。!。

(インタネットがどういう影響を社会に与えているかの社会学的研究を見かけませんが、フラッシュ・モブは研究のきっかけになりはしないでしょうか...。)

祝祭性を取り戻すといことに加え、この二つの動機が相まって、「集団的無意識に」に影響を与えたことが、ここ2年ほど、まさに、世界のありとあらゆるところでフラッシュ・モブが勢いよく広がった理由ではないかと、推察しています。

さて、最初に戻りましょう。

祝祭の時間と、終了後の日常への回帰ということです。じつは、日本で行われているフラッシュ・モブを見ていて、どうも、この二つの対比があまり強くないようにも思えることがあるのです。たしかに外国の「まね」ということもあるでしょうが、「どっきりカメラ」と同じような感じがすることがあります。そんなことを考えていたら、昔なんだか似たようなことがあったという気がしてきました。

新宿西口フォークゲリラ1969年の新宿西口広場の、いわゆる「フォークゲリラ」です!。これは、交通妨害になるということで、「広場」が「通路」に変更されるといういわくつきの「イヴェント」でした。確かにこれも、祝祭性を伴う事件ではありました。私も大学の先輩から「祝祭」という当時はやり始めた概念で説明を受けたことがあります。しかし、日本人のまじめさからか、「何か意味づけをしなければならない」とでも思ったせいで、政治的性格を帯びながらしぼんでいったものです。

私は、「日本人のまじめさ」以外にも理由があると思います。日本の文化には、「晴(ハレ)」と「褻(ケ) =日常生活」」の対立があると柳田國男などは言っていますが、柳田は、晴よりむしろ褻の方を強調いていたようです。晴と褻をするどく対立させるのではなく、日常生活に両者の対立をうまく織り込むことに日本人は長けていたのではないか。それだけに、ブラジルのカーニヴァルのように、祝祭と日常的時間が激しく対立することはなく、フラッシュ・モブの、フラッシュ、つまり閃光ようなひらめきには少々疎いのではないかという気もします。日本では祇園祭のように祝祭も時間をかけて徐々に盛り上がり、徐々に消えるのかもしれません。おっと、頭でっかちになりかかったようです。

8 1/2 エンディング冒頭に、フラッシュ・モブがある映画に影響を受けたのではないかと申しましたが、それは何か。イタリアの映画監督、フェリーニの「8 1/2」のことです。この映画はまさに祝祭がテーマです。この映画での祝祭は「脈絡のなさ」と言ってもいいかもしれません。だから、「分からない」、「難しい」映画に分類されることもあります。しかし、映画を通して、主人公の映画監督にのしかかる得体の知れない重圧が、何の理由もなく最後の場面で解消するということこそがこの映画の持ち味なのです。いや、問題は「解消」はしないのです。この世の理屈内では、何
も解消していないのです。では、「解消したように思わせている」のか、と問われれば、そうも言えない。ともかく、この世の時間と論理とは異なるのが祝祭的時間だということがこの映画に描かれていました。英国軍楽隊 フラッシュモブ

最後に、二つリンクをつけておきましょう。ひとつは、「8 1/2」の最後の場面。映画の製作が途中で頓挫し、マルチェロ・マストロヤンニが演じる映画監督が打ちひしがれる場面からです(04:21 フランス語の字幕)。もうひとつは、英国の軍楽隊によるフラッシュ・モブです。似ていると思いませんか。


 

 

 

 

 

 

 

 

 


「情報発信」の大変さ:佐瀬昌盛さんのためいき

2014年05月20日 | 言葉について:英語から国語へ

「情報発信」の大変さ:佐瀬昌盛さんのためいき

ともだち作戦数回前に、佐瀬昌盛さんが日本国憲法の英訳について書いた記事を扱いました。今日(5月20日火)の産経新聞『正論』欄に、佐瀬さんが「集団的自衛権」について書いています。ここでは、政治的立場とは無関係に、この記事で扱っている、「情報発信の難しさ」について触れたいと思います。

「情報発信の重要さ」は昨年来、マス・メディアの「定番」となった主張で、なんとなく「そのとおりだ」という空気が醸成されてきていると思います。しかし、それをどうするか、どの点が大変なのか、という議論がなかったので、佐瀬さんのこの記事は、私にはとても意義を持つものだと思われました。ここでは、「集団的自衛権」の容認に関する賛成、反対とは別に、佐瀬さんの苦労を追ってみたいと思います。


タイトルと著者名を見て、集団的自衛権行使容認賛成の論陣を張っているのかなと、思う人も多いでしょう。しかし、卓越したコミュニケーション論だということにどれだけの人が気づくことか。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140520/plc14052003100005-n1.htm (最終閲覧:14/05/21)

 

この記事によると、ここのところ、佐瀬さんは、講演会に招かれ、「集団的自衛権」について語る機会を多く持ちました。しかし、どうも、聴衆が、集団的自衛権が何か分かっていないのではないかと疑い、集団的自衛権が何であるかを言ってほしいと、参加者に起立、発言を求めました。ところが、だれも「う~ん」と言ったきり絶句するばかり。

「参加者は、これから政界にで活躍するような人で、集団的自衛権についても関心の高い人たちばかり」でした。しかし、「採点すればほぼ全員が0点に近い落第点。なぜ?下駄の履かせようもない。」

「市井の人」については...、「間違いなく有権者の99%は「集団的自衛権? それって何のこと?」の世界にいる。」と佐瀬さんは述べています。

ところが、世論調査ではもっともらしい数値が並んでいます。それに対して佐瀬さんは、「残酷な光景集団的自衛権毎日だ」。そうなった理由は、「 「消費税引き上げ」とか「一票の格差」とか皮膚感覚でつかめる具体性の域にはない」からだと<仮説>を立てます。

そして、そのあとで、その証拠となるものとして、二つの新聞の世論調査を比較します。

目に見える具体的なものがない状況では、誘導尋問のような世論調査によって、「世論」は操作できます。このことを佐瀬さんは確かめました。以下は、朝日と読売の、世論調査の設問の比較です。

朝日は、「日本にとっての集団的自衛権とは、同盟国やその軍隊が攻撃されたときに、日本が攻撃されていなくても、日本に対する攻撃と見なして一緒に戦う権利」のこと」 。(佐瀬さんは、「一緒に戦う権利」のところに傍点を打っています。)

読売では、密接な関係にある国を「攻撃した相手に反撃する権利」。(「反撃」集団的自衛権読売に傍点。)

なるほど、朝日の設問では、「戦争に巻き込まれる」という意味がより強く伝わります。読売の設問は、「友を助ける」という意味に取れます。

朝日の場合は、反対論は63%。読売は、反対論は43%だそうです。なお、さらなる証拠として、読売が具体的な設問にした問いでは、肯定論が圧勝した例も挙げています。

以上、佐瀬昌盛さんの論文から、多く引用させていただきましたが、3つのポイントがありました。

① 意見を伝えることがいかに難しいことか。

② その理由は、抽象的はことは人々は理解しようとしないからだ。

③ 抽象的な問題では、世論の誘導は易しい。

薩長同盟以上のことが、主張、理由、そして、結果と証拠という三段構えでしっかり構築された小論文です。佐瀬さんの主張の証拠となることは記事の最後にもうひとつ挙げられています。それについては記事本体をお読みください。

それにしても、このような説得力がある評論でも、これがどれだけ読む人に訴えるか...。力強さとともに、「ためいき」も行間に伺えます。