英語教育と国語教育:「論理的思考」と「国語力」
(2018年10月、少し分かりやすく書き換えました)
今回は、とくに意見を展開するのではなく、新聞のコラムの感想を述べながら、今の英語教育論の現状はどんなものだか推し量ってみます。
読んだのは、産経の5月27日<風を読む>、『独善にさせない読解力』。議論にそれほど特徴はありませんでしたが、英語教育と国語教育について、今、人々が考えていることを知るためには有益な議論でした。(新聞の政治的立場から離れて論じられるテーマです。朝日にでてもおかしくないコラム。)
「ロジカルコミュニケーション」
このコラムは、サッカー選手を目指す中学生に、「ロジカルコミュニケーションスキル」という論理的思考力を鍛える教育を取り入れているという記事を紹介しながら、国語教育によくあるとされる、「登場人物の気持ち」は何かという問いに答えるより、情報を読み取った上で「なぜ」の問いに答えることの必要を肯定的に論じるところから始まっています。「論理的思考力」が重視される、OECDによる国際学力試験(PISA)も、「国語以外の教科にもつながらる力」であるとし引用されています。
「論理思考力」育成 → 英語早期諭批判
ところが、そのあと、日本の国語教育への批判、あるいは提案につながるのかなと思ったら、意外な方向に展開します。「学校での英語の早期教育」より、することがある、ということが述べられているのです。コラムの最後には、家庭や友達の間での読書活動や話し合いを増やすことを主張していました。最後の文は「英語教育より先にやることは多い」。
そして、コラムのタイトルは「独善にさせない読解力」です。
このコラムの焦点はどこにあるのか...?。タイトルと「ロジカルコミュニケーションスキル」、末尾がどうつながるのか...?。英語早期教育論批判なのか、「論理的思考」育成が主なのか...?。先へ進めましょう。
国語教育が優先されべき理由
ここで言われている国語力とはなんでしょうか。私の二つ前のブログ記事に、「国語はあらゆる知的活動の柱になる、道具以前の存在という性質を持つ」と書きました。藤原正彦さんらが主張する英語早期教育への批判の骨子はここにあります。ふつう、英語早期教育批判を行う場合、対立軸は、人間を育てる根っこである国語教育を忘れてはならない、という点です。しかし、このコラムで述べられているのは、そういう日本人の自己同一性に関わる分野というより、「伝えるための技術」という側面です。このように展開することは思いませんでした。
国語教育の本質、英語教育の本質の議論が欠けているのでは
このように、国語対英語の議論を始めると、国語教育にせよ、英語教育にせよ、それらの本質がなんであるか、何を目指すべきかがけっこうあいまいなままであることに気がつくことが多いです。いずれ、議論を進めているいくうちに、明らかになっていくことでしょうが、ここでは、私は、国語教育の持つ、二つの意味を分けて考えたらどうかと提案します。一つはあらゆる学習に先立つ人間の成長に関わる側面。もう一つは、正確に伝え、理解するという「伝える技術」に関する側面です。
英語、国語に共通する部分
このコラムで言われている能力は、後者の「伝える技術」に関する側面です。この能力は、英語にも国語にも、いや、世界中のあらゆる言語に通じる「普遍的」な部分です。OECD各国共通の学力テストで問われているのですから明らかなことです。そう考えると、カリキュラムの時間を取り合う議論は別として、案外、ここで触れられている「国語教育」は、「英語早期教育に先立つものとして」英語教育と対立するものではなく、英語教育とも共有できるのではないでしょうか。
私が、英語の先生と国語の先生はもっと話し合ったらどうですかと、述べている理由はそこにあります。前回の私のコラムで提案した要約と報告は、国語の時間にも、中学三年レベルの英語の時間でもできることです。知的効果は同じです。
英語も国語も言語です。意思の疎通を図り、思考を深めるためにあるものですから近い存在です。物理と化学ほどではないとしても、教科として近い面があります。しかし、私どものスクールに来られていた、ある公立高校の英語の先生は、「国語の先生は、英語の先生が生徒の国語力を破壊する、と言っている」とおっしゃっていました。基本的に両者は仲が悪いそうです。「~なところの」なんて訳読をしているということを指してそういうのでしょう。
「論理的思考」を強調するだけでよいか
ところで、最後に一言。この記事で、サッカースクールでの授業の例として、「例えば2枚の絵の共通点と違いを文章で書く。なぜそう答えたのか、「なぜ」の質問が繰り返され、論理的に考える力をつけていく。」と、これまた、肯定的に紹介されていましたが、私は若干疑問を持ちます。教える先生にもよりますが、これが、単なる「ゲーム」だと生徒に思われるようになると、しだいに、生徒の意欲が薄れる可能性があるということです。「論理的」ということが一人歩きして、「なぜ論理的でなければならないのか」ということが問われなければ、まさに、TOEICのスコアを上げることだけが英語を学習する目的になるのと同じようなことになってしまうかもしれません。
論理的とはどういうことか。論理的でないと何が生じるのか。論理だけでいいのか、焦点というものがあるのではないか、そして、さらに、論理的なくてもよい時はどういうときか。こういう具体的な問いかけが教育現場で常に行われるようでないと、案外効果がない可能性があります。このコラムでは、「論理的に考える力」という「能力」があることを前提している点も気になります。また、「ロジカルコミュニケーションスキル」というカタカナが、こうした議論でふつうに使われることも、イメージが論理に先行しているのではないかという疑いを抱かせます。
次回は、ここまでの議論をきっかけに、「アサヒウイークリー」や、「JT」のような、駅のキオスクで売っている、タブロイド版の英語学習紙の意味を論じたいと思います。いや、それらの新聞を通して、英語学習の意味を考えてみたいと思います。ただし、別の課題が生じたら、後に送られて、そのうち忘れてしまうかもしれませんが...。このへんがブログの「いいかげん」なところです。