伊藤博文はどれくらい英語ができたか。3/3
その後、西南戦争、憲法制定、清国との交渉を通して、よく知られる、歴史の表舞台での活躍が続きます。「伊藤博文と英語」に関しては、歴史書にあまり記述が見つかりませんでしたが、拓殖大学の塩崎智さんといわれる方が、日清戦争から日露戦争にいたる時期の資料を発掘されました。以下の内容は、塩崎さんの論文に基づいたものです。(註1)
1871年に遡りますが、伊藤一行(福地源一郎、陸奥宗光、中島朔太郎ら)が米国に貨幣制度の視察に赴いた際、多忙な政府関係者に代わって、公私にわたり日本人の世話を行ったヘンリー・クルーズという銀行家がいます。日本国の紙幣印刷の入札などで骨を折り、井上臨時大蔵大臣から、絹布一枚がクルーズに送られました。クルーズによると、その後も日本の要人と文通を続けていましたが、再びクルーズが史料に現われるのは1895年、日清戦争の時の、伊藤博文との往復書簡などからです。公開書簡のやりとりは、日露戦争まで続きます。
1895年10月30日、New York Tribune紙上に、A LETTER FROM MARQUIS ITO – The Japanese Prime Minister Writes to Henry Clewsという記事が載ります。そこに引用されたのが以下の伊藤博文の書簡です。(訳文は未完)
The following is Marquis Ito’s letter to Mr. Clews: Tokio,September 17, 1895
Dear Mr. Clews: It is with a very pleasant and grateful feeling that I begin these lines. Your book, “Twenty-eight Years in Wall Street,” which you kindly sent me, was received while I was in Kioto, where I availed myself of the scanty moments of leisure and read it with a good deal of interest. The delay in acknowledging the receipt of your thoughtful gift I trust you will attribute solely to the constant pressure of business. I now find myself doubly indebted to you by your kind letter of August 7. As I read it the memories of “good old days” vividly come up to my mind. Let me thank you for your lasting cordiality and friendship. The contents of your letter have received my careful consideration. I fully indorse your motto: “Let justice be done, though the Heavens fall.”Japanhas no other ambition than to attain to the highest state of civilization. She will never do violence, however slight, to the cause of justice and truth. Again thanking you for your kind and friendly suggestion, and with my kind regards, I am, dear Mr. Clews, yours very sincerely.
HIROBUMIE ITO.
この時期から日露戦争に至るまで、クルーズとの往復書簡が米国の有力紙などに掲載されますが、これは日本の代表の意見を米国民に伝えるための巧みな広報活動だったと思われます。She will never do violence, however slight, to the cause of justice and truth.(「日本は、どんなに些細なものであっても、正義と真実の大義を、力で踏みにじるようなことはしません」)の部分、いや、この書簡全体の主な意図は、当時問題となっていた旅順虐殺事件を意識したものでしょう。日の丸演説の当時とちがい、英語のアドヴァイスを与えてくれる人は金子堅太郎をはじめ、ことかかなかったと思いますが、以下のような個人的ニュアンスの強い原文からは、伊藤個人の書いたものだという印象を受けます。
Your book, “Twenty-eight Years in Wall street,” which you kindly sent me, was received while I was in Kioto, where I availed myself of the scanty moments of leisure and read it with a good deal of interest.
「お送りくださった御著書、『ウォール街での28年』は、私が京都にいる間に届き、在京中、わずかな余暇を利用して引き込まれるように読ませていただきました。」
10年後の日露戦争時には、何度も電信で、伊藤自身が日本の立場を英語で米国人に訴えている姿が見られます。これほどのレベルの英文ですから、「中学英語」程度の英語力では、部下に下書きをさせたとしても、責任ある内容チェックはできません。そのため「中学英語に毛がはえた」程度以上の英語力はあったと考えるのが自然だと思います。ちなみに津田梅子も伊藤博文の英語アドヴァイザーだったそうです。
しかし、伊藤博文の英語において評価すべきは、たんに「~程度の英語力」ということではなく、日本語しか知らない江戸時代の人間が、日本語以外の言語を用いて、明確な意思を相手に正確に伝えることができたということです。往復書簡という、一方通行ではない言語活動がそのことを証明しています。しかも公開書簡です。ふつう、「英語ができる」と言ったとき、「英文解釈が達者」、「英文が立派である」、「会話によどみがない」という意味で、そう言いますが、その際、上の三つの一つのみを念頭において言うのがたいていです。そのどれも、「お互いに正確に理解し合う」という意味を目指して言われているわけではありません。ところが、往復書簡を見れば「お互いが正確に理解し合」っているかどうかは、一目瞭然です。その点で、福沢諭吉、ジョン・万次郎などの、維新当時の英語の達人とされる人たちとは異なる意義を「伊藤博文の英語」は持っていると思います。
註1:拓殖大学『語学研究』 122号 2010年3月 p.101
http://journal.takushoku-u.ac.jp/lcri/lcri_122.pdf
註2:写真上:ヘンリー・クルーズ、写真中:『ウォール街の28年』、写真下::中心が高杉晋作、向かって右が伊藤博文。
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