外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

米国人にとって日本語は世界一難しい言語...、つまり…。

2014年02月26日 | 言葉について:英語から国語へ

  『英語教育論の進め方への疑問 - 普通の日本人にとっての英語学習は、<限られた時間で、限られた英語力を養う>ということ』の草稿より

(2018年10月、画像追加)

日本人にとって英語は難しい言語だということ....。まるでタブーであるかのように、このことに触れられません。商業的理由でしょうか…。

日本語今回、「アメリカ人にとって日本語が難しい」という、米国国務省の外交官向けデータを紹介します。

「アメリカ人にとって日本語が難しい」ということは日本語と英語の距離が離れているということで、「日本人にとって英語が難しい」ということを意味します。(日本語の文字が3種類だという点は、差し引いて考える必要がありますが)
このことを考慮に入れないで、「日本人は英語が不得意だ」、あるいは「英語教育が悪い」と言っても意味がありません。

出典は、『日本人の英語勉強法』(2013 バーダマン)。この書の評価についてはまた触れたいと思います。よい点と欠けている点があると思います。

The Foreign Service Institute (Department of State)
外交官が実際に習得にかかった(らしい)時間の言語別のリスト
いつのリストか分かりませんが、言語はそう簡単に変わらないことを考えると参考になります。

日本語は、Languages which are exceptionally difficult for native English speakersの、5言語の1つに分類され、そのうち、唯一、「特に難しい」のアスタリスク(*)マークがつけられています。つまり、世界一難しい言語 ということになります!。
ちなみに、以下の「~週間」とは、習得時間のこと。すでに外国語のエキスパートである外交官にとっての習得時間です。(「~語」は省略)

1/5 英語と密接に関連した言語:23 ~24週間
アフリカーンス、デンマーク、オランダ、フランス、イタリア、ノルウェー、ポルトガル、ルーマニア、スペイン、スウェーデン

2/5 英語に似た言語:30週間
ドイツ

3/5 英語から言語学的に、および/もしくは、文化的に異なる言語:36週間
インドネシア、スワヒリ、マレーシア

4/5 英語から言語学的に、および/もしくは、文化的に著しく異なる言語:44週間
アルメニア、アゼルバイジャン、ブルガリア、ビルマ、クロアチア、チェコ、*エストニア、*フィンランド、*グルジア、ギリシャ、ヘブライ、ヒンディー、*ハンガリー、アイスランド、クメール、ラトビア、リトアニア、マケドニア、*モンゴル、ネパール

5/5 英語のネイティヴスピーカーにとって習得が非常に難しい言語:88週間
アラビア、広東、中国標準、*日本、韓国

アスタリスクに注目!。

米国務省日本語難易度



『英語教育論の進め方への疑問』草稿より

2014年02月26日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

   『英語教育論の進め方への疑問』の草稿より

「科学的」という表現は、みんな勝手な意味に解しているので、あまり使いたくないのですが、論壇の「英語論」というのは、とても「非科学的」という印象を 持ちます。つまり、英語習得者がかってに経験論を述べていて、一般化できないということです。一般化できないから、役に立たないのです。

問題は、もっと深いです。たいていの評論は、「世間にこんな間違った、愚かな意見がある、でも私はこう思う」という形を取ります。例えば、こんな具合です。

「日本の英語教育は文法偏重だ」 →「コミュカティヴ・アプロウチというのをアメリカで習ったから<会話>だ!。」

「会話偏重は行き過ぎだ」 → 「文法を忘れてはいけない」

左が「世間の通念への反感」です。必ず、「そうだ!」という人がたくさんいて、「溜飲を下げる」というところで終わってしまうのです。
理論 → 妥協 → 実行、という見通しはだれも持っていないのです。

今日の新聞には、「プレゼンテーション、情報の発信ばかり言うのは片手落ちだ」 → 「聴いて理解することが第一だ」というのがありました。いかにも「正論」に聞えます。実際、「正論」でしょう。
聞いた人は、「そうだ、世間は間違っている、私の考えの方が上だ」という気持ちは満足させるようですが、その後どうするのでしょう。

「憲法9条は改正だ」という議論も同じで、大問題ではあるのでしょうが、論じている人は、論じていることで盛り上がっているという陥穽に陥っていないでしょうか。100年たったら現状の憲法がおかしいのは誰も常識だと思うでしょう。改正して普通になるだけのことです。

こうした、レトリックの落とし穴に陥ると、現実みが失われていきます。極端な例で、「英語を勉強するな」というところまで、行ってしまうのは予想したとお りでした。レトリックを共有する人は、「そうだ、そうだ」と感じる(興奮する?)のでしょうが、結局何も言ったことにならないのです。

では、なぜ、こうした現象が起きるか。
私が考える結論だけ言いましょう。

① 1月14日の最初のコラムに書いたように、日本人が子供の頃から外国語に接することが少ないこと、それに、意志の伝達の真剣さを感じていないので、いろいろな意見を聞いて右往左往するだけだらです。

② 新しいことをちょっと言えば本が売れるという出版社の近視眼的な戦略、いや、経営戦略の欠如があるからです。

皆さんはどう思われますか。

★ 写真は、斉藤博駐米大使一家


言葉を正確に理解する

2014年02月26日 | 言葉は正確に:

  言葉を正確に理解する

日本語の問題ですが、英語学習にも通じることです。ある歴史的文書のスクープに関して。

---「意向」を強制性が明らかな「指示」と改めるよう求め、協議の末に「要請」で決着した。

ここには、「意向」、「指示」、「要請」という三つの語が出てきますが、普通の人はどれほど三つの語を厳密に使い分けているのでしょう。普段、「専門家」 以外の人はあまり区別しない表現を、異なる二つの言語の間で、喧々諤々の議論をして決めている様子には、ちょっとこっけいなものがあります。本人たちは、 国家的責任がかかっているのでとても真剣なのでしょうが。

でも、言葉は専門家のものではなく、普通の人が使っているものこそ真の言葉なのです。

たしかに、①指示、②要請、③意向の順で、「強制性」が低まるようですね。さらに言えば、指示の前に、「命令」、意向の後に、「希望」をつけて、①命令、②指示、③要請、④意向、⑤希望、と並べることもできますかね。
いずれにせよ、言葉の意味について考えさせてくれる機会でした。

もう一つ、言葉の意味ついての記事。産経新聞の投書に、「今日は真冬のような気温になるでしょう」という、年末の天気予報に違和感を覚えたという指摘があ りました。「真冬の」でもよさそうなものです。「ような」は、「そうでない」ということを前提して成り立つ表現ですから、違和感どころか、論理的におかし いのです。
「ような」は、英語で、like+名詞、文なら、as if (= though) +文です。英語ではas ifの後に、非現実的事態を表わす仮定法を使うことが多いのです。
こういう論理的なおかしさにも敏感になりたいものです。英語学習にもこういう敏感さが必要な場面がたくさんあります。機会があったら紹介しましょう。

★写真は、斉藤博一家、米国の駅頭にて


「言葉」の学習

2014年02月26日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

 「言葉」の学習

前のエッセイは、英語の先生へ向けるという形で、書かれたものですから、英語を学ぶ人へも一言。
述べるべきことは多岐にわたっていますから、まず一点だけ。

英語学習については、いろいろな固定観念、個人的な経験談が飛び交っています。その状況を利用して、詐欺まがいの商法も繰り返し行われています。

なぜでしょう。一つには、日本人は、欧州の人などと違い、子供の頃から、「外国語」の存在に親しんでいないから、という理由があると思います。変な言い方 に聴こえるかもしれませんが、日本人は「外国語が存在する」と思っていないのかもしれません。ある外国語があったとして、それが分からなくても、身近に見 聞きしていれば、自ずと「距離感覚」が生まれるでしょうが、そうでないので、「~すれば英語ができるようになる」という甘言にふらふらとなるのです。

では、「外国語が存在することが分かっている」とはどういうことでしょう。

それは、身近にまったく自分とは違う言葉を話す人が存在していることを身にしみていること、そして、そうでありながら、そういう人たちが自分とはあまり違 わない生活をしている人間だということもまた分かっていること。この二重の体験があると、外国語を知らなくても、また、学習を始めていなくても、外国語学 習についての幻想を掻き立てる広告には簡単に引っかからないと思うのですが…。

さて、世界には、日本人と同様、「外国語が存在しない」と思っている国民がもう一つあります。どこでしょう。それはアメリカです!。しかし、そうなった理由は、日本と逆。その理由とは…。

写真は、①斉藤博葬儀 グルー大使斉藤博の葬儀において遺族に挨拶するグルー米国大使


英語教育の前に、言葉の教育という視点を

2014年02月26日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

 「英語教育」という前に、言葉の教育ということを考えたいです

斉藤博のことを書いてきて、問題は、狭い意味での「英語教育」でなく、「言葉」なのだと思います。

斉藤博 家族
「言葉」の難しさ、面白さ、重要さが、「外国語」を学ぶ時、とりわけ、明らかになります。正確に伝える強い意志、 正確に理解したいとという情熱、そのことの涵養なくしては、英語教育は、うすっぺらなものになってしまうでしょう。

斉藤博 パネー号
教育には、社会の必要に習う人を合わせるという、「上からの教育」の面だけでなく、習う人が大きく育つのを助けるという「下からの教育」という面がありま す。英語教育も、国際化の時代だからという「社会の必要」に合わせる側面だけでなく、外国語という他者を理解し、外国語という他者を鏡として自分を理解す る力を養うという側面に眼を向けていただきたいと思います。


educateは「~から引き出す」という意味です。ですから、teachと違って目的語には「人」しか来ません。英語や数学を目的語にすることはできま せん。習う側が育つきっかけを見つけ、引き出すという過程が、英語教育の現場でどのように可能なのか、一緒に考えませんか。

英語の先生たちへ。