外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉の愉快な英語修行 8 咸臨丸船上、諭吉の誤認の巻

2019年01月01日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行  8 咸臨丸船上、諭吉の誤認の巻

前回

江戸 英会話開港直後の横浜で英語が通じないことを痛感した諭吉は、簡単な蘭英会話集と辞書で、英語をオランダ語に訳して意味が通るかどうかを確かめるという方法で英語入門をします。音声言語ではむつかしいですが、未知の言語の書き言葉に入門する際、この方法は有効です。トロイの遺跡を発見したとして知られるシュリーマンの場合は、ドイツ訳があるフランス語の短い小説を比較して読み、ついで現代ギリシャ語シュリーマン訳を読むという段取りをとりました。とても頭を使いますが、法則性を見つけながらこうして未知の言語の文法を身につけるのです。なにより大切なのは読むものが面白く、意味の深いものであることです。単に語学のための語学で動機を維持するのはむつかしい。文字の向こうにある作者に近づこうという意思がないと面白くありません。私の場合、昔のことですが、トマス・マンの『ベニスに死す』で仏語からドイツ語に移る手立てとしました。

さて、早くても1859年の半ば以降、横浜で最初に開店した商店、キニッフルで会話書を買ってから、つてを頼って、長くても6か月ほどで、咸臨丸での米国行きが叶います。木村提督の家来という資格です。遣米使節の本隊は米艦、ポーハッタン号で向かうので、咸臨丸は護衛という名目があるとはいえ、日本人でも太平洋横断ができるということを示し、かつ米国の航海、造船技術を知るための派遣だったようです。冒険と言ってもいい航海のため、二の足を踏む家来もいたらしく、そんなこんなで米国行きが叶ったと諭吉は書いています。

咸臨丸往路、英語の学習に精を出したかというと、そういうことは自伝に書いてありません。なにしろ嵐につぐ嵐、はしけを2艘波にさらわれ(福沢の記述による)、船腹が37~38度傾くというありさま。45度を超えると沈むそうです。37日の航海のうち30日以上は荒天でした。しかし、本人はいたって意気高く下のごとし。

航海中私はからだが丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「これは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋にはいって毎日毎夜大地震にあって居ると思えばいいじゃないかと笑って居るくらいな事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるの念が骨に徹して居たものと見えて、ちょいとも怖いと思ったことがない。

咸臨丸首脳若いころというのはこんなもので、あとで考えるとぞっとすることもあります。問題は、違うところにありました。諭吉は以下のように述べています。

しかしこの航海については大いに日本のために誇ることがある、と云うのはそもそも日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎においてオランダ人から伝習したのがそもそも事の始まりで、その業(ぎょう)成って外国に船を乗出そうと云うことを決したのは安政六年の冬、すなわち目に蒸気船を見てから足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、それで万延元年の正月に出帆しようと云う咸臨丸 福沢その時、少しも他人の手をからずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆と云い、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。

ところが実際はどうか。実は咸臨丸には、難破して帰国を待っていた米国人、キャピテン・ブルックという人とその部下が「便乗」していたのです。当初日本人士官は「日本人だけでやるんだ」と力んでいましたが、木村提督、幕府の意向で同乗するすることになりました。諭吉は晩年の自伝では5名ほどと言っていますが、じっさいは11人。この辺から諭吉の当時の判断が怪しくなります。(註1)

ブルックは詳細な航海日誌を残しましたが、自分の死後50年は開封を禁じていました。ブルックは1906年に逝去。その後50年の間に何が起きたかはここに記すまでもありません。1960年以降公開された日誌を少し引用しましょう。このブログ、英語学習を目的としています...。(註2)

以下、『福翁自伝』以外はキャプテン・ブルックの航海日誌と、諭吉同様、木村の家来、長尾幸作の『鴻目魁耳』を主要史料とした『咸臨丸海を渡る』(1992 未来社)に基づきます。著者、土居良三は長尾のひ孫。

ブルック5日目 2月14日(陽暦)

I can not put sail on the vessel as the Japanese are not competent to manage it.  The offifers are very ignorant indeed, have had probably no experience in heavy weather. All the orders are given in Dutch. I think it absoslutely necessary that the Japanese should have a marine language of their own.

The helsmen do not know how to steer by he wind. Weather braces & bowline they don't attend to. The weather is exessively disagreeable. No chance of an observation.

 私は帆を船に張ることができない。日本人の対処能力がないからである。加えて、士官たちは、まったく無知である。おそらく、悪天候の経験が全然ないのだろう。命令は、すべてオランダ語で下される。私は、日本人が、彼ら自身の航海用語を持つべきだと強く思う。

舵手は風を見て舵をとることが出来ない。操桁索や、はらみ索に全く気を配らない。あまりに不愉快な天気だ。天測の機会なし。

かくのごとく、5日目にブルックは事態の深刻さを悟ったようです。今から見れば諭吉の認識はとんでもない誤認です。なぜ諭吉は気が付かなかったのか。あるいは敢えて知っていて述べなかったのか。96人の乗組員のなかで、木村提督の世話にかかりっきり、米国人乗組員の人数の間違いからも情報ギャップは推察できます。英語力も米国の水夫に親しく話しかけることができるほどでなかったのでしょう。ところで、ただ一人だけ、ブルックが信頼を寄せる日本人がいました。

ジョン万次郎Old Manjiro was up nearly all night. He enjoys the life, it reminds him of old times. I was amused last night, heard him telling a story to old Smith, which he followed with a song.

わが万次郎は、ほとんど一晩中起きていた。彼はこの生活を楽しんでいる。昔を想い出しているのだ。昨晩、私は、万次郎が年取った方のスミスに物語りをしているのを聞いて面白かった。スミス(万次郎?)はそれに歌で答えた。

福沢は航海中の万次郎の役割にも気がつかなかったようです。ジョン・万次郎は米国で航海士になる教育を受け、21歳で副船長になり、3年以上、捕鯨船で世界を回っていた人です。気が付かなった理由は、万次郎の実務家はだの人柄、日本における元漂流民の地位の危うさからくる慎重な態度に加え、「言葉の人」、つまり漢学者であった諭吉から見ると、英語の発音を訊くインストラクターに過ぎなかったからかもしれません。

航海を困難にしたのは、三点です。上記の荒天、日本人乗組員の無能に加え、もう一つめは人間関係です。

6日目 2月15日

Manjiro tells me that the Japanese sailors threatened to hang him at the yard arm last night when he insisted upon their going aloft. I told him [that] in case of any atempt to put that threat into execution to call upon me, (and) that in case of mutiny upon the part of the Japanese sailors if the Capt. would give authority I would hang them immediately.

万次郎が言うには、昨夜、日本人の水夫らにマストに上ってくれるようにと言ったとき、「お前を帆桁に吊すぞ」と脅されたそうだ。「彼らが、もし、その脅しを実行に移そうとしたら、私にまかせなさい、日本人側に反乱があれば、勝艦長が私に権限を与えてくれ次第、すぐ吊してやるつもりだ」と万次郎に言っておいた。

いわゆる「おもしろくない」という心理が閉鎖空間に蔓延したようです。一方、ハワイで給水せずサンフランシスコに直行を決めたため、水の節約が必須課題になってから後、米国の水夫が水を使いすぎることがあり、これについては諭吉が(直接か?)ブルックに言います。

甲比丹(カピテン)ブルックに、どうも水夫が水を使うて困ると云ったら甲比丹の云うには、水を使うたらすぐに鉄砲で撃殺してくれ、これは共同の敵じゃから説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云う。

艦内、なんとか秩序を保ちえたのは艦長の勝海舟がいたからではなく、ブルックのリーダーシップがあったからだということがこの二つのエピソードから読み取れます。勝は、諭吉によれば、船酔いで自室に閉じこもったままだったそうですが、他の史料などから見ると、出帆前のごたごたでへとへとになり、重い伝染病で倒れたというのがほんとうのように思えます。また、ブルックは万次郎から、木村への不満でふてくされていたためだ、と聞いています。

さて、事態は好転しません。艦内の無秩序とだらだらした態度は米国海軍にはありえないとブルックは慨嘆します。

7日目 2月16日

There does not appear to be any such thing as order or discipline onboard. In fact the habits of the Japanese do not admit of such discipline and order as we have on our men of war. The Japanese silors must have their little charcoal fire below, their hot tea and pipes of tobacco.

船上、秩序とか規律と云うようなものは見当たらない。のみならず、我が兵士に対する規律と秩序は、日本人の習慣に入りこむ余地がないのだ。日本人の水夫は船室で火鉢を囲み、熱いお茶を飲み、キセルをふかしているに違いない。

士官がオランダ語を使うので、水夫は自分の仕事の意味を理解しないのもボイコットの原因だとブルックは考えます。

ブルックは万次郎に尋ねます。

11日目 2月20日 

I asked him (=Manjiro) what the Commo would do if I took my men off watch and refused to work the vessel. "(He'll) let her go  to the bottom" he replied. He said [that] for his part he had some regard for life.

もし私が部下を当直から外し、操船を拒否したら木村提督はどうするだろうと万次郎に尋ねたら、「船を海の藻屑にしてしまうでしょう」、と答えた。まだ死ぬのは惜しいとも言った。

7日目 2月16日

Manjiro is the only Japanese onboard who has any idea of what reforms the Japanese Navy requires.

万次郎は、この船の中で、日本海軍がどのような改革を必要としているかについての考えを持っている唯一人の日本人である。

I shall endeavor to improve the Japanese navy and will aid Manjiro in his efforts.

私は日本海軍の改革に努める。そして万次郎の仕事を助けよう。

ついにブルックは強硬手段にでます。

勝海舟23日目 3月3日

The wind being ahead I proposed to show the officers how to track ship. They were too lazy to come on deck, made various excuses etc. I therfore called all my men and sent them below with orders to do do nothing without my consent. I then informed the Cap. that I should not continue to take care of the vessel unless his officers would assist. He gave them a lecture [and] put them under my orders, and I sent my watch on deck.

向い風になった時、私は士官たちに針路変更の技術を教えようと申し出た。彼らは、非常に物ぐさで、あれこれと言い訳をしてデッキに出て来ない。そこで私は、米国人部下全員を集め、私の承諾なしには何もするなと言い渡し、彼らを船室に入らせた。そして、勝艦長に、士官たちが協力しないかぎり、私はこれ以上この船の面倒をみない方がよいと伝えた。勝艦長は士官たちに訓辞して、士官たちに私の指図に従うよう命じたので、私も当直をデッキに送った。

この経緯についてはもちろん諭吉はまったく知らずにいた気配です(または知らないふりをしていた)。万次郎のシーマンシップとブルックのリーダーシップが咸臨丸を沈没から免れさせたといってもよいでしょう。この間、ブルックは日本人船員を教育したのでした。帰路は往路より日にちがかかったものの、ブルックなし、主に日本人の力で(+米国人の水夫5名)太平洋を横断できました。直後、南北戦争が始まり、ブルックは南軍に身を投じ大砲の開発などに携わりましたが、戦後は大学で教鞭をとりました。1868年に諭吉が再び渡米した際、ブルックは再び日本人の船員教育に意欲を示したという話も伝わっています。

今回は、諭吉の英語学習から少し離れて、異文化間の組織論に話が及びました。

咸臨丸航路ところで、咸臨丸は3月17日(陽暦)にサンフランシスコに到着。37日間の旅でした。堀江青年のヨット、マーメイド号による太平洋単独無寄港横断(1962)は3か月でしたから、ずいぶん速いです。

註2:ブルックが航海日誌を死後50年間は公開しないように遺言した理由としては、外交上の理由と万次郎の立場への考慮の二つが推測できる。50年という長期を考えると前者の外交上の理由が常識的に考えられる。ブルックはサンフランシスコ到着後のインタビューでも、日本人の技量を高く評価している。一方では政府への報告書では援助した旨も記している。サンフランシスコ到着後、勝が全員を集めて緘口令を敷いたということも想像できるだろう。

註1:諭吉が分かっていながら真相を述べていない、という見方は、いつもの「からくち」の諭吉の言動を考えると諭吉らしくないようだが、終生、大恩を忘れなかった木村提督の名誉を慮ったことも考えられる。一方、他の乗組員については、『咸臨丸、大海を行く』(橋本進:海文堂 2010)に、以下のような記述がある。

これらの航海日記のうち、日本人士官の書いた日記類は体面を重んずる武士らしく、ブルック大尉の『咸臨丸日記』にあるような船内のトラブルなどについては一切触れていない。ましてや、ブルックらの献身的な努力についてはほとんど記録していない。ところが、木村奉行の従者であった長尾幸作や斎藤留藏は日記のなかで、ブルックらのことや咸臨丸乗組員のことを率直に書き遺している。
 文倉平次郎は『幕末軍艦咸臨丸』(昭和13年刊行)のなかで、長尾幸作の『鴻目魁耳』から「衆人皆死色、唯亜人之輩、言笑する」を引用し、この航海がいかに難航海であったかを紹介するにとどめている。(------)

続く

 

 

 

 

 

 

 

 


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