外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

パソコンのマニュアルの難しさ。 泉下の山本夏彦、木下是雄は...。

2015年09月22日 | 言葉は正確に:

パソコンのマニュアルの難しさ。泉下の山本夏彦、木下是雄は...。

理科系の作文技術1990年ごろでしょうか、『理科系の作文技術』が知られてきた頃、木下是雄さんの研究室に、日本のパソコンメーカーに勤めているアメリカ人が訪ねて来ました。その人の役職は、日本語のマニュアルを英語に訳すことでした。ところが、日本語の文章がどうしても英語にならないので、悩みに悩んで、木下さんのところに相談に来たのでした。この経験は木下さんにとっても大きなことで、日本のマニュアルの書き方において重大な問題があることに気がつきました。内輪の専門家どうしでは分かるものの、しろうとには分からないことがあまりに多かったのです。そのアメリカ人が「英語の訳せない」と言ったことの、本当の意味は、「どの言葉にも訳せるような普遍性がない」ということです。

私なども、ワープロ、パソコン時代から、分からないことだらけでしたが、分からないと自分の方に責任のいくらかがあるという気持ちが先立って、なぜ分かりにくいかの追求をしないきらいがありました。しかし、常識に還ってつぎのような文を見てください。

サーバーへの接続は失敗しました。 アカウント : 'pop12.odn.ne.jp', サーバー : 'smtp02.odn.ne.jp', プロトコル : SMTP, ポート : 587, セキュリティ (SSL): なし, ソケット エラー : 10060, エラー番号 : 0x800CCC0E

電子メイルの送信に失敗すると以上のような記述が現われますが、皆目検討がつきません。英語では、jargonと言うのでしょうか、専門家どうしならつーかーかもしれませんが、素人には、最初の「サーバー」という意味からして分かりません。私にも分かるのは、「中継基地」のようなものだ、というだけで、どう対策を講じたらいいのか、なんら行動に指針にはなりません。

オーイどこ行くの表紙じつは、木下さんのところに米国人が訪れたころ、ある評論家が電気製品のマニュアルの分かりにくさを俎上に挙げていました。

この正月私はファクスを買いかえた。それまでのはナショナルのパナソニック、これは旧式だから使いこなせた。今度のはキャノンのキャノファックス、新式で要りもしない機能が山ほどついていて、うっかりその一つにさわると送信も受信もできなくなる。さわっても全く音がしないから原因が分からなくて夜ふけに一再ならず往生した。

著者は山本夏彦(1915-2002)。新潮文庫『オーイどこ行くの』所収のエッセイです。上の引用に以下の部分が続きます。

以前の電話は同僚にかかったものなら、おーいと呼べば相手はかけよるから受話器をわたせばよかったが、今は保留と書いたボタンを押せば相手の机上の電話につながる。かけよらなくてすむのは便利だが、この保留の意味が分からない。分からないからうっかり押さないでおーいと呼んで受話器を置くとその電話は切れてしまう。保留という言葉がメーカーだけに分かって第三者に分からないからこのことがある。

「保留」という言葉は、漢字自体は簡単ですが、少し考えると何を意味するのか分からない。「メーカーだけに分かって」いても、第三者には通じないということをマニュアルを書いた人は考えたのでしょうか。

完本 文語文このエッセイは、以上の経験を枕に、毎日新聞が「日本のマニュアル大賞」を新設したことを紹介するために書かれたものでした。その後、四半世紀、日本のマニュアルは分かりやすくなったでしょうか。2000年ごろには、主催が毎日新聞から、テクニカルライターの団体に移ったようで、今も同趣旨のコンテストが行われています。私の見るところ、エアコンや、窓、掃除機など住宅用の機器のマニュアルは、著しいとはいえないまでも、だいぶよくなっているようです。しかし、肝心の電子機器については25年間、進歩があったとは思えません。

今、思うのですが、インタネットの技術を用いれば、たとえば、「サーバー」という語をクリックすれば、その説明、定義が現われ、クリックを繰り返しているうちに、はたと納得する時が訪れるように仕組むことなど容易にできるのではないかと思います。じっさい、VOAのニュースサイトなど、記事中のどの単語をクリックしても1~2秒くらいで、ウエブスター辞典の定義が現われます。ただ、定義する際、より日常的な概念で定義するように心がけてもらいたいと思います。定義のぐるぐる回りは困ります。

英語 物理 山 言葉やろうと思えばできると思うのですが、改善のないのは、市場原理の限界でしょうか。パソコン、インタネットの類は買わずに済ますわけには行かないのですから。ブラウザー、サーチエンジンにいたっては寡占状態が続いています。

木下さんや山本さんの影響は、はたして、微小にすぎたものだったようです。ただ、じつは、山本さんが木下さんの『理科系の作文技術』を発見したという事実は注目に値します。『完本 文語文』という本のなかで、扱っているのを最近になって知りました。しかも、山本さんが社主を務める雑誌『室内』の新入社員には、自腹で『理科系の作文技術』を配っていたそうです。たった一人の反応といえども、この共感には問題の客観性を強く裏付ける力あります。25年前のこの反響を少しでも今に響かせたく思い、ここに紹介するしだいです。


 

 

 

 


小林秀雄の新発見評論

2015年09月22日 | 言葉について:英語から国語へ

小林秀雄の新発見評論

小林秀雄の全集未収録エッセイが見つかり、『新潮』9月号に掲載されたと、産経新聞が報じていました(9月20日福島俊雄)。

http://www.sankei.com/column/news/150920/clm1509200005-n1.html

まだ、『新潮』掲載のエッセイは読んでいませんが、このエッセイ、および福島さんの評論を読んでいただくよう促すために、ここで紹介します。

最初に掲載されたのは昭和22年8月、九州の地方紙でした。小林は、政治を「複雑膨大で不安定な対象」を扱っていて、「それを扱う人間の健全な精神能力を大きく超え、「凶暴な怪物」のようになってしまった」と述べています。

小林秀雄「健全な精神能力」ということの根底には、理系、文系を越えたところで事実と真実を追究する、小林自身の姿勢があると私は思います。健全な精神能力が機能している場合、結論が間違っていることが分かれば、それに耳を傾け、新しい仮説を立て、粘りよく真理を追究します。そこには、完全な真理、完全な誤謬だけではく、「ある程度本当らしいこと」も、そういうものとして認識する精神力が必要です。ところが、政治の世界では、概して「ある程度本当らしいこと」はふっとんでしまい、一部の事実を誇張されて、それが複雑に紛糾し、自動的に誰も望むことのない大戦争が起きることがあります。そのことを小林は「凶暴な怪物」と読んだのでしょう。

それに対し、小林は「民主主義」をこう捉えます。

「怪物に食い殺されぬためには、民主主義という自己防衛策を講じなければならなかったが、わが国では、これがはなはだ立ち遅れた。「ぼく等」はこの防衛策を行使して、「大臣という才腕ある事務員」を支配者として選べばいいだけであって、それ以上ではないー。」

小林は「民主主義」を意味のあるものとしてしていますが、「それ以上ではない」という部分を注意深く読む必要があります。

「民主主義とは人民が天下をとることだなどと馬鹿げたことを考えていると、組織化された政治力は第二の怪物となって諸君を食い殺しかねまい。ムッソリーニは、ファシズムとは進歩した民主主義だと主張した。」

リヴァイアサンこの点で、民主主義の到来を寿ぐ当時の他の知識人と大きく考えを異にします。福島さんは国家をリヴァイアサン(凶暴な怪物)とするホッブスの思想との共通性を指摘しています。しかし、政治思想家のホッブスと異なるのはこの先です。福島さんも「その醒め方は、いささか尋常でない深度を持っている」と述べられていますが、小林の目的とするのは精神の自由でしょう。政治に精神を食い荒らされないようにするにはどうするか。小林には、全体主義に民主主義を対置する知識人の態度はおめでたい、と写るだけでなく、はなはだ危険なものに見えたに違いありません。「民主主義」のお題目を唱えるうちに、足をすくわれる恐ろしさまで小林には見えていたのです。政治を「人間の健全な精神を大きく超えた「凶暴な怪物」」と呼んだ所以です。

10年後、「戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった。」と、母親の死に際し、小林は述べていますが、小林の精神を動かしたのは何か。小林の精神を凶暴な政治から護ったのなにか。それは「悲しみ」という感情だったのでしょう。敗戦の悲しみを素直に感じ取ることが小林における精神の自由の根底にあるように思います。



西尾幹ニさんの新評論『言語を磨く文学部を重視せよ』で思うこと

2015年09月08日 | 言葉は正確に:

西尾幹ニさんの新評論『言語を磨く文学部を重視せよ』で思うこと

以下は、映画『チップス先生、さようなら』からの引用です。

チップス ポスター新任の校長がこう言います。

- There we are. I'm trying to make Brookfield an up-to-date school. . .. . .and you insist on clinging to the past. The world's changing, Mr. Chippping..

そこです。私はブルックフィールド校を時代にあった学校にしたいのです。なのに、あなたは過去にしがみつくことに拘泥している。世界は変化しているのですよ、チッピング先生。

それに対し、老教師、チッピングは、反駁します。

-I know the world's changing, Dr. Ralston. I've seen the old traditions dying one by one. Grace, dignity, feeling for the past.

「世界が変わりつつあるのは承知しています。ラルストン博士。私は古い伝統が一つ一つ死に絶えて行くのを見てきました、品格、尊厳、過去に対する感性...。」

最期にこのように啖呵を切って、チッピングは席を立ちます。

Give a boy a sense of humor and a sense of proportion, and he'll stand up to anything. I'm not going to retire. You can do what you like about it.

「少年にユーモアのセンスとバランスの感覚をあたえればよいのです。そうすれば、その少年は何ものにも立ち向かって行けます。私は辞職しませんよ。好きなようになさったらいい。」

この映画は、1939年。映画のこの場面は第一次世界大戦前のことです。まるで、今年行われている議論のようではありませんか。このせりふそのままでテレビドラマにしても、100年前の英国のことだとはだれも気がつかないでしょう。

リベラルアーツ文部科学省が6月に出した人文系の再編を促す通知に対し、ウォールストリート・ジャーナルアジア版が、「日本の大学が教養教育を放棄へ」と報じたことで(産経9月7日)、何時の時代ににも現れる、実用と教養の対立が議論の的になっています。文部省は、文系軽視ではないと、否定に躍起になっているようですが、通知には、どう見ても「実用」という視点しか書かれていないので、反発は止むことはないでしょう。

かと言って、反論する側の意見というのも、強く響くものとは言えません。野田元首相は、ブログに、「即戦力の人材養成も必要でしょうが、長い時間を経て役に立つ人文社会の知見も軽視してはなりません。実学と教養を二者択一で迫るのではなく、そのバランスをとる教育が必要です。」と述べていますが、敢えて言わせていただくと、誰でもいつでもこのような意見は言えるものです。そして無力なのです。じっさいに、文部省の通達が出る前から、京都大学では哲学科の名称が無くなるなど、「実用主義」への流れが止むことはありません。

「教養」の語の意味を問い詰め、なぜ「実用」だけではだめか、を具体的に論じることができなけれが、「ご説ごもっとも」と言いながら、きれいごととして無視されてしまうのが関の山でしょう。「文系」の学者が「知の~」などと言い出した頃から、彼らの意見は軽視され始めたように思います。その件は、ここでは置いておくとして、先ほどのチップス先生のせりふの中の、二点に注目したいと思います。

パブリックスクール 戦争一つは、feeling for the past、「過去への感性」。もう一つは、Give a boy a sense of humor and a sense of proportion, and he'll stand up to anything.「少年にユーモアのセンスとバランスの感覚をあたえればよいのです。そうすれば、その少年は何ものにも立ち向かって行けます。」という部分です。

「過去への感性」、これは歴史感覚と言いうこともできます。現在、私たちがあるのが過去のおかげであると言う謙虚さを養い、「実用」という現在の価値を相対化するする力です。もう一つの文は、第一次世界大戦で、チップス先生の教えている学校に通ってくるような、恵まれた階層の子供たちが同年齢の英国人兵士のなかで一番死亡率が高かったということを知った上で味わえば、一味違って感じられます。先ほどテレビドラマのせりふになるということを言いましたが、実際放映した場合、この映画ほどの重みが伝わるかどうか分かりません。

さて、ここで漸く、題で扱った、西尾さんの評論ですが、文部省の通知に対する単なる反発ということではなく、なぜ、それがいけないかを、短いながらも的確に論じています。まず、問題の重要性を言い切る姿勢がはっきりしています。(産経新聞:正論欄:平成27年9月10日)

「先に教養課程の一般教育を廃止し、今度リベラルアートの中心である人文社会科学系の学問を縮小する文科省の方針は、人間を平板化し、一国の未来を危うくする由々しき事態として座視しがたい。」

本居宣長切手過去、つまり歴史については以下のように述べています。

「学者の概説を通じて間接に自国の歴史を知ってはいるが、国民の多くがもっと原典に容易に近づける教育がなされていたなら、現在のような「国難」に歴史は黙って的確な答えを与えてくれる。」

急に映画の話になりますが、チップス先生はラテン語教師です。ドイツ軍による爆撃の最中にゲルマン民族の襲来の様子をラテン語で生徒に読ませ、「死んだ言語も時は役に立つだろう」と言って生徒の笑いをとる場面があります。ちなみに、英国では今でも小学校課程からラテン語を教えている学校が多く在るようです。

西尾さんの論点は、さらに深く展開します。

「言語は教養の鍵である。何かの情報を伝達すればそれでよいというものではない。言語教育を実用面でのみ考えることは、人間を次第に間化し、野蛮に近づけることである。言語は人間存在そのものなのである。言語教育を少なくして、理工系の能力を開発すべきだというのは「大学とは何か?」を考えていないに等しい。言葉の能力と科学の能力は排斥し合うものではない。」

「言語」という点にまで問題が深まりました。これからテレビの討論番組などで、文科省の通知についての討論が行われるかもしれませんが、どうか、反論する立場の人も「言語」という地点に足を踏まえて論じていただきたいと思います。このエッセイを「言語は正確に」に項目に入れた所以です。


 

 

 

 


バーナードさん、「英会話は存在しない」から、別の記事へ。

2015年09月02日 | シリーズ:日本人の英語

バーナードさん、「英会話は存在しない」から、別の記事へ

英会話1

前編の記事

辞書学者、バーナードさんの「英会話は存在しない」の皮肉が分かる人がどれだけいるのか、という心配が頭をもたげます。日本に住む外国人は、よく見当違いの「日本批判」を行うことがありますが、一方、日本社会から一歩距離を置くことで、日本人の社会心理をよく言い当てることもあります。「英会話は存在しない」は、後者の典型だと思います。

数日前、読売新聞の夕刊に載ったエッセイに、この社会心理現象の傍証になる記述があったので紹介しましょう。著者は英語が話せ、外国人とも頻繁に話す方です。一対一ではなく、一つのグループに外国人と日本人が混ざっておしゃべりをしている場合を取り上げています。そういう場合、日本人同士が話すときは日本語になってしまうという例でした。そして、さらに言うには、日本人同士が英語で話すときは、気恥ずかしさを感じるということでした。「こっぱずかしい」などという表現を用いていたと思います。さらに進めて、このようなことを書いています。著者がヨーロッパに出かけたとき、非英語圏の数人と会話をする機会があったそうです。その場では、著者のみが英語しか話せないという状況でした。その際、著者を気遣ってほかのメンバーはみな英語で話したそうです。著者によれば、さすが欧州人は外国語の扱いに慣れていると。

私にもそういう場を経験したことが何度もあります。日本人は、日本語のできない外国人をほったらかして日本語で会話する傾向があります。なんでその外国人を孤立させるのかと私は思い、なるたけ、おぼつかない外国語で話したものです。

ABCここで気になるのは、「こっぱずかしい」と感じる心理です。この心理が著者だけなく、多くの日本人に共通するものだとしたら、これはある社会心理を物語っていると言えないでしょうか。

外国語で話すということが、意思の疎通を図るというだけでなく、何か特別の感情を伴うということです。数十年前ですが、パリなどに旅行する日本人は、日本人と会っても挨拶せず、目をそむけると言われていました。今はどうか知りませんが、その心理と同じものではないでしょうか。

「英会話」というのが、意思の疎通だけでなく、それ自体がある価値を持ったものだと見なされているのです。その価値は、「虚栄心」と呼ぶものと似たものでしょう。ですから、相手の日本人が自分に英語で話しているのを見ると、自分の虚栄心を鏡で映して見たような気がして、「こっぱずかしく」なるのでしょう。

パリの日本人バーナードさんが、「英会話は存在しない」と言ったときの「英会話」にはそんなイメージも含まれているのではないでしょうか。意思の疎通ではなく、ある種の自己満足のために行われているのが「英会話ブーム」であると。しかし、バーナードさんは単に日本人を皮肉っているだけではなさそうです。虚栄心という内向きの感情に捉われていると、正確に理解し、正確に伝えるという言語の本来の役割がおろそかになると警告しているのではないかと思います。

私がここで一言付け加えるとすれば、日本人の「気配り」とか、「おもてなし」とかは本当なのかな、という疑いです。もし隣にいる日本人に気取っていると思われたくないというエゴに捉われて、会話のグループにいる外国人を疎外するのは、むしろ、気配りが欠けている、ということではないでしょうか。

最近は、そういうことは少なくなったのでしょうか。パリの日本人観光客どうしも気軽に挨拶を交わせるようになったのでしょうか。