外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

スーパーのレジで思う、YesとNo 

2021年08月02日 | 言葉は正確に:

スーパーのレジで思う、日英、YesとNo

毎日のことですが、スーパーのレジでこのように訊かれます。

「レジ袋、だいじょうぶですか?。」

それに対し、

「はい、だいじょうぶです」と答えれば、それは

「はい、なくてもだいじょうぶです。」のことですが、

「はい、いりません」と同じ意味でしょう。

これを英語で言えば、

"No, I don't."です。"Yes, I do."ではありません。日本語でもつい、

「いいえ、いりません」と答える方も多いのではないでしょうか。

とくにマスク下では、手を横に振って「いらない」という意味を伝えたくなります。ここでうなづくと、店員さんに「ご利用ですか」と訊かれるような気がするからです。

このように、日本語の「はい、いいえ」に英語のYes、Noの論理が覗いて、一瞬判断に困ることがときどきあります。こんなところにも英語学習の課題が隠されているようです。

Yes、Noで言えば、もっと難しい問題があります。Yes、Noを要求する設問に対しては、どちらかを選ばなければ、という強迫観念が生まれるのですが、そのどちらも選んではならない場合もあるのです。

かつて日本国の首相が直面した問題なのですが、「その領土問題は棚上げにしましょう」と相手に言われました。「はい、そうしましょ」、と答えれば、その領土問題が存在したことを認めることになってしまいます。日本は、問題の島が我が国の固有の領土であるという立場なので、YesともNoとも言うことができません。その時首相はどう答えたのでしょう。公式文書の記録よると、「無言で答えた」となっています。辛くもひっかからなかったと言えるでしょう。しかし、そのような消極的な対応では、その後、強弁される可能性もあります。

レジから話が広がりました。しかし、このような日本語の問題も英語学習と無関係ではないでしょう。

 

 

 

 

 


効果的な言語活動を瞥見。東証不具合時の会見:コラム以前

2021年01月03日 | 言葉は正確に:

効果的な言語活動を瞥見。東証不具合時の会見。

たいていこのコラムでは、日本人のプレゼンテーションの問題点などを指摘することが多いのですが、珍しく、好評だった記者会見があったので、メモ程度に記しておきましょう。またどこかで触れる機会があるかもしれません。

10月1日に生じた東京証券取引所の不具合、一日取引停止に際してのCIO、情報担当責任者の会見が産経新聞の「謝罪会見」についての記事中に見つかりました。「好評」だというと「事件性」がないかもしれませんが、「好評」なのはとてもまれなので、やはり、「事件」と言っていいかもしれません。

会見自体はとても地味なもので、アローヘッドとかフォールオーヴァーとかカタカナの専門用語が多く、どこまで適切なのかちょっと分からない面がありましたが、証券関連の人ならすぐよしあしが分かるのでしょう。論理の飛躍がなく、ひな壇の数人のなかでこのCIOが全体をリードしていたことが分かります。

面白いのは、この件に触れる記事のいくつかに、CIOが早稲田大学の落語研究会出身だということが書かれているということです。ただ、それだけで、落語と記者会見の関係については触れていません。願わくば、記者たちが「口頭の言語伝達共通の問題点について考えているということ。落語と記者会見という一見関係ないことに、実は何か関連があるのでは、と気づいているのなら、それはよいことだと思います。

じつは、子供科学相談室で中心的役割を担っていたFアナウンサーの夫君は落語家だとか。これまた無理やり関連させているように見えるかもしれませんが。

 


コロナ禍と必要条件、十分条件;コラム以前

2020年09月30日 | 言葉は正確に:

コロナ禍と必要条件、十分条件

以前、小学生向け教材として、必要条件、十分条件の練習問題を出しましたが、最近の新型コロナウイルス感染のなかでも、必要条件、十分条件、そしてそのどちらにも当はまらない条件の混同が見られました。

小学生とともに考える必要条件、十分条件:

https://blog.goo.ne.jp/quest21/e/7311d0ddf41cce7584b7b51171abfc27?fm=entry_awp

「体温が37°以上の方は発熱外来においでください」ともよりの病院のいり口に張り紙がしてありました。それを見た人々の反応は、「体温が37°以上の場合だけおいでください」と読む場合が多かったようです。つまり、必要条件ととらえたわけですね。人はある先入観、または前提をもって判断します。なかなかPCR検査が受けられない状況では、張り紙の内容を、<制限>する意味にとらえがちです。こんなところにも、「言語技術教育」の必要を感じる場合があります。

「言語技術教育」と英語教育の関連についてはまた論じたいと思います。

今回、コラムにもならないちょっとしたことでした。頭の活動が鈍いので、コラムができるまで待っていると時宜を逸するので、ときどき、これからちょっとしたことも書き込みたいと思います。ブログの気安さですね。

 

 

 

 


子供科学電話相談室と大人の言葉使い:コラム以前

2020年09月30日 | 言葉は正確に:

子供科学電話相談室と大人の言葉使い コラム以前

「コラム以前」シリーズ、二つ目はNHKの子供科学相談室について。今年の夏も特集が行われ、その後、今毎週日曜に、二つから三つの専門ごとに回答が行われています。コロナ禍のため、スタジオに先生がくる場合もあるし、先生は自宅から、という場合もあります。

この番組も年間通しての番組となり1年以上ですが、いろいろ気づかされることがありました。その一つ。アナウンサーにも、先生たちにも言えることですが、不可解なのは、子供が専門用語を知っているたびにほめちぎるという点です。専門用語というのは能率を図るために生まれたもので新しい知見でもなんでもありません。知識がある=科学という間違った方向に導く可能性はないでしょうか。

もっと子供の心理に近づいてみましょう。子供は、専門用語を知っているから誉められてもちっとも嬉しくはありません。自分で努力し、見出したことは評価されたいと思いますが、用語を知っているから褒められても、当惑するばかりです。

二つ目ですが、アナウンサーはもっと聴くことの訓練をする必要があるということ。アナウンサーは話す職業ということになっていますが、言語は話し手と聞き手がいて成り立つ行為です。聴くことがうまくないのはアナウンサーとしてはいけないのではないでしょうか。インタビューの際にその力量が試されます。深夜便の須磨さんなど聴き上手の方がおられますが。

では、どうしたら聴くことがうまくなるのか。それは経験と読書、つまり教養というものが左右します。うまく話すということは、さまざまな選択肢から他を捨てて、ある言葉を選ぶ作業です。瞬時に取捨選択、とくに、捨てるということが大切です。ストックが少なければ言葉も単調になるのは分かりやすい道理です。音楽番組でも、かつての吉田秀和さんや、『題名のない音楽会』の黛敏郎さん(これらはユーチューブで見たり聴いたりできます)が魅力的で、説得力のある話し手であったのは、彼らの人生で積み重ねてきたものがあるからこそでしょう。若い人がうまく話せないということはこういうことです。無難であることしか念頭にないのでしょうか。相手の理解を考慮することなく言葉を排出する様は聴いている側にストレスをもたらします。

話が広がりました。子供の質問の意味をよく理解して、適切に次の課題にリードするのはアナウンサーの修行としても意味のあることでしょう。「コラム以前」と言いながら長くなりました。しかし冗長でした。

 

 


人権とは何か? 礼儀か?優しさか?

2018年10月03日 | 言葉は正確に:

人権とは何か? 礼儀か?優しさか?

人権(「人権」、「尊厳」などは欧米語、とりわけ英語からの翻訳語です。元来と違う意味で使っている場合もあるので、確かめる、これも英語学習の一部です。)

とても可哀想だけれど嫌われ者がいたとします。その人にどう対応するか。現代では、これは人権問題ということになるようです。しかし、人権とは何か、ちゃんと考えられているのでしょうか。以前、ある落語家が「人権などは簡単なことです。相手の身になって考えればいいのです」と言っていましたが、なるほど、日本人はこう考えるのかとある種の感慨を覚えたものです。

しかし、西欧で、とりわけ18世紀のフランスやアメリカで意識された人権=human rightsは市民革命の正統性を保証する政治的概念でした。底には、闘争があります。可哀想な、嫌われ者にも優しく振る舞いましょうとい福沢 うだけでは言い尽くせない概念です。権利の概念を定着させようとした福沢諭吉の自伝を見ますと、母親が毎年近所にやってくる極貧のおばあさんを手厚く迎える場面が出てきますが、そういうことは日本にもあった。しかし福沢は人権という概念に異なるものを見ていたようです。

可哀想で嫌われ者に対しどう接するかを子供に教える場合を考えた場合、年齢におうじて、4つの段階を踏む必要があるように思います。しかし、なんとなく、子供から大人になる過程で、刷り込みが行われて「分かった気になっている」のが実情でしょう。4つはつぎのとおりです。

⓵ 優しさ

⓶ 礼儀

③ 尊厳としての権利の尊重

④ 政治権力の行使としての人権

ここで、ピンとくる方にはもうこれ以上書く必要がないと思いますが、そうでない場合、逆に、どこまで通じるか...。

キリスト⓵はキリスト教の概念としてチャリティーに通じます。日本でも宗教が担う役割でした。宗教的でもあるし、とても個人的なものでもあります。しかし、「施し」は人権と違うという感覚はなんとなく理解されているように思います。

⓶ 相手がいかに嫌な人でも、礼儀正しく、相手をたててふるまう。これは⓶にしましたが、案外難しいことで大人にならないと分からないかもしれない。しかも身につけるという性格のものなので、大人でもちゃんとふるまえるかは怪しいものです。相手が敵であろうとなんであろうと、服装、態度が相応なものなら、ふさわしくふるまう。これは伝統的な英国の紳士のふるまいです。ホテルでの対応で今でも生きているようです。どんな貧民でも背広、エドモンド バークネクタイをしていれば尊重されます。しかし、大金持ちでも破れジーンズを来ていた場合、注意を受けることになります。礼儀という観点からすると、見下すような態度をとるのは、人権の問題ではなく「趣味が悪い」と見なされます。さらに言えば、"fair"(美しい)でないのです。18世紀の英国人は大陸の革命騒ぎと人権思想に、こういう観点から苦々しく思っていたのかもしれません。一方、礼儀正しくふるまうことは偽善を呼びこむことがあるかもしれません。それに身につけられる人が限られています。

③ フランスでは、地下鉄での物乞いは、頭を下げるのではなく、演説を一節演じた後、現行の政策の犠牲者への「カンパ」を募ると聞いたことがあります。「馬鹿にされたくない」という感情は人間にとってとても強いものなので、⓵が過ぎると、あるいは「空気が読めないと」、「そんな金は受け取れるか」と言われて、「ちゃぶ台返し」の目に合うかもしれません(地下鉄で…?)。「俺だって人間だ!」という感情ですね。これを正統づけるのがhuman rightsです。

ところで、権利というのは債権を意味するのが基本だと思いますが、債権というからには債務とバランスが取れているはずです。ギリシャで市民が権利をペルシャ戦争獲得できたのは、ペルシャ戦役で乗船員として国家に貸しを作ることができたからです。それ以前は戦うのは馬を持った貴族階級だけでした。近代においても選挙権、被選挙権は納税、兵役とバランスと取ろうとしていました。ところが、キリスト教が導入されてからいかなる債務を負わなくても人間である、ということだけで最低限の権利が保証されるという思想が導入されました。これを尊厳=dignityと呼びます。digne(仏語)は「ふさわしい」という意味。なぜか。それは人間は神の似姿だからです。どのような人間も、モノや動物にはない性質、つまり「神聖さ」が宿っているという考えなのです。もうローマ人にあらずんば人にあらずとは言えなくなりました。キリスト教が地方宗教のユダヤ教から脱して全ローマを越えて広まった理由の一つはこのことでしょう。

④ キリスト教は宗教ですから、この世の法は持ちません。しかし、18世紀になって、世俗の法律にもdignityの概念が導入されたのです。ここに至って、human rightsが実質的な意味を持ちます。つまり国家権力、そしてそれから派生する社会的習慣が、尊厳を保証することになりました。英国風(?)に「趣味が悪い」では収まらない社会の動きがそうさせたのでしょう。ここで「人権」が国家権力の力を借りて拡大する道が開けたのです。そのことは「人道に反する」という場合と比べるとより意味がはっきりします。つまり、「人権」という概念によって国際的なものも含め、裁判への道が開けるのです。ここに至って、姑が「キクコさん、赤ちゃんはまだなの」と嫁をいびり、嫁がそれに耐え、卑屈になるということから解放されたのです。しかし姑のいびりたい気持ち自体は減りません。そのため弊害もあるかもしれません。それについては述べません。