人権とは何か? 礼儀か?優しさか?
(「人権」、「尊厳」などは欧米語、とりわけ英語からの翻訳語です。元来と違う意味で使っている場合もあるので、確かめる、これも英語学習の一部です。)
とても可哀想だけれど嫌われ者がいたとします。その人にどう対応するか。現代では、これは人権問題ということになるようです。しかし、人権とは何か、ちゃんと考えられているのでしょうか。以前、ある落語家が「人権などは簡単なことです。相手の身になって考えればいいのです」と言っていましたが、なるほど、日本人はこう考えるのかとある種の感慨を覚えたものです。
しかし、西欧で、とりわけ18世紀のフランスやアメリカで意識された人権=human rightsは市民革命の正統性を保証する政治的概念でした。底には、闘争があります。可哀想な、嫌われ者にも優しく振る舞いましょうとい
うだけでは言い尽くせない概念です。権利の概念を定着させようとした福沢諭吉の自伝を見ますと、母親が毎年近所にやってくる極貧のおばあさんを手厚く迎える場面が出てきますが、そういうことは日本にもあった。しかし福沢は人権という概念に異なるものを見ていたようです。
可哀想で嫌われ者に対しどう接するかを子供に教える場合を考えた場合、年齢におうじて、4つの段階を踏む必要があるように思います。しかし、なんとなく、子供から大人になる過程で、刷り込みが行われて「分かった気になっている」のが実情でしょう。4つはつぎのとおりです。
⓵ 優しさ
⓶ 礼儀
③ 尊厳としての権利の尊重
④ 政治権力の行使としての人権
ここで、ピンとくる方にはもうこれ以上書く必要がないと思いますが、そうでない場合、逆に、どこまで通じるか...。
⓵はキリスト教の概念としてチャリティーに通じます。日本でも宗教が担う役割でした。宗教的でもあるし、とても個人的なものでもあります。しかし、「施し」は人権と違うという感覚はなんとなく理解されているように思います。
⓶ 相手がいかに嫌な人でも、礼儀正しく、相手をたててふるまう。これは⓶にしましたが、案外難しいことで大人にならないと分からないかもしれない。しかも身につけるという性格のものなので、大人でもちゃんとふるまえるかは怪しいものです。相手が敵であろうとなんであろうと、服装、態度が相応なものなら、ふさわしくふるまう。これは伝統的な英国の紳士のふるまいです。ホテルでの対応で今でも生きているようです。どんな貧民でも背広、
ネクタイをしていれば尊重されます。しかし、大金持ちでも破れジーンズを来ていた場合、注意を受けることになります。礼儀という観点からすると、見下すような態度をとるのは、人権の問題ではなく「趣味が悪い」と見なされます。さらに言えば、"fair"(美しい)でないのです。18世紀の英国人は大陸の革命騒ぎと人権思想に、こういう観点から苦々しく思っていたのかもしれません。一方、礼儀正しくふるまうことは偽善を呼びこむことがあるかもしれません。それに身につけられる人が限られています。
③ フランスでは、地下鉄での物乞いは、頭を下げるのではなく、演説を一節演じた後、現行の政策の犠牲者への「カンパ」を募ると聞いたことがあります。「馬鹿にされたくない」という感情は人間にとってとても強いものなので、⓵が過ぎると、あるいは「空気が読めないと」、「そんな金は受け取れるか」と言われて、「ちゃぶ台返し」の目に合うかもしれません(地下鉄で…?)。「俺だって人間だ!」という感情ですね。これを正統づけるのがhuman rightsです。
ところで、権利というのは債権を意味するのが基本だと思いますが、債権というからには債務とバランスが取れているはずです。ギリシャで市民が権利を
獲得できたのは、ペルシャ戦役で乗船員として国家に貸しを作ることができたからです。それ以前は戦うのは馬を持った貴族階級だけでした。近代においても選挙権、被選挙権は納税、兵役とバランスと取ろうとしていました。ところが、キリスト教が導入されてからいかなる債務を負わなくても人間である、ということだけで最低限の権利が保証されるという思想が導入されました。これを尊厳=dignityと呼びます。digne(仏語)は「ふさわしい」という意味。なぜか。それは人間は神の似姿だからです。どのような人間も、モノや動物にはない性質、つまり「神聖さ」が宿っているという考えなのです。もうローマ人にあらずんば人にあらずとは言えなくなりました。キリスト教が地方宗教のユダヤ教から脱して全ローマを越えて広まった理由の一つはこのことでしょう。
④ キリスト教は宗教ですから、この世の法は持ちません。しかし、18世紀になって、世俗の法律にもdignityの概念が導入されたのです。ここに至って、human rightsが実質的な意味を持ちます。つまり国家権力、そしてそれから派生する社会的習慣が、尊厳を保証することになりました。英国風(?)に「趣味が悪い」では収まらない社会の動きがそうさせたのでしょう。ここで「人権」が国家権力の力を借りて拡大する道が開けたのです。そのことは「人道に反する」という場合と比べるとより意味がはっきりします。つまり、「人権」という概念によって国際的なものも含め、裁判への道が開けるのです。ここに至って、姑が「キクコさん、赤ちゃんはまだなの」と嫁をいびり、嫁がそれに耐え、卑屈になるということから解放されたのです。しかし姑のいびりたい気持ち自体は減りません。そのため弊害もあるかもしれません。それについては述べません。