外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

『理科系の作文技術』はハウツー書ではない

2018年05月29日 | 木下是雄:国語教育と英語教育の架け橋

『理科系の作文技術』はハウツー書ではない

木下是雄木下是雄著の『理科系の作文技術』と『リポートの組み立て方』は、毎年4月になると大学近くの書店には平積みされますが、十分理解されて読まれているかどうか、疑問に思います。

一見ハウツーものの題名なので、これを読めば大学のリポートはパスできるだろうぐらいに思って買う人は多いでしょうが、熟読玩味している人は少ないように思います。「お説教を受けているような」という印象を書いている人がネット上にいましたが、あまり日本人の大人が子供っぽいままでいる風景は見たくありません。

この書は、どうすれば大学や仕事でうまくやるかを指南する書ではなく、考える方法、生き方の姿勢を問うものです。しかし内容は小学生にも大人でも理解できるものです。以前教えていた小学生に「一生ものだよ」と言って『リポートの組み立て方』を渡したら、「へえ~」と反応していましたのを思い出します。そのようなわけで木下是雄の二つの本を紹介する必要を感じますが、ブログの気安さをいいことに、少しづつ書き足してまいります。

今回は、「事実の記述」と「意見」について。木下さんは次のエピソードを紹介しています。米国から帰国した同僚のお子さんが使っていた5年生用の教科書の一節を見て、衝撃を受けたと書いています。たまたま開いたページには次のようにありました。

ジョージ・ワシントンは米国の最も偉大な大統領であった。

ジョージ・ワシントンは米国の初代の大統領であった。

以上の二つの文のあとにはつぎような質問が書いてあります。

どちらの文が事実の記述か、もう一つの文に述べてあるものはどんな意見か、事実と意見はどうちがうか。

そのページのわきには囲み記事の注釈があったのですが、このあとは『リポートの組み立て方』の26ページをお読みください。

事実の記述か、意見かの見極めは若いころからの修練、習慣によって養われるもので、そうたやすいものではないと木下さんは強調します。28ページにある、以下の文の問題点がどこにあるか分かりますか。

事実と意見のスリカエ例:p.028
大磯は、冬、東京より暖かいと信じられているが、私は、夜は東京より気温が下がるのではないかと思う。夜間、大磯のほうが低温になることにふしぎはない。暖房その他の熱源が少ないし、第一、東京にくらべてはるかに空気が澄んでいて、夜は地面から虚空に向かってどんどん熱が逃げていくからである。

では、答えは次回のインストールメントに。ちなみに、先ほどの小学生を含め、教室などで気がついた人はいませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


​英語入学試験のアウトソーシング反対派の議論に何が欠けているか?。2/2

2018年05月20日 | 言葉について:英語から国語へ

英語入学試験のアウトソーシング反対派の議論に何が欠けているか?。2/2

女学生試験英語入試アウトソーシング論争の問題点は、賛成派ではなく、主に反対派にあり、というのが一つ目の記事で見てきたことでした。賛成派の議論は、いろんなことを述べていても、その本音は、経費削減、時間節約に尽きます。
では、反対派はどう論駁するか。一つ目の記事の最期に整理してみた反対派の議論の主な問題点は、次の4点でした。

 

① 大学入試の英語は高校過程の学習を理解したかを試すために行われるのか。
② 大学入試が高校での学習を基準とするものなのか。
③  全国一律の高校でのカリキュラムというものの存在を、賛成派と同様、「大前提」としているのではないか、と。
④ 「同業意識」の気分からたんに反対しているだけはないか。


以上は、産経新聞の2月9日(2018年)の記事によるものです。他の論点もありますので、ご覧になるとよいでしょう。
http://www.sankei.com/premium/news/180211/prm1802110022-n1.html 3月19日最終確認

反対派の鳥飼久美子さんは英語の入試は高校過程の学習を理解したかどうかを見るものだということを前提していますが、そうでしょうか。もともとの目的は、大学での学業で英語が必要だから英語の試験が必要なのでしょう。高校までの学習の基準は文部省が定めるものでしょうが、大学というところは別です。大学は一国の学問の水準をリードするところです。その学問に必要だから英語の試験があるのです。ということは、もし必要がなかったら英語の試験をする必要もありません。もっと踏み込んで、どのような英語試験にするか、も大学での学問によります。


ちょっと歴史的に見てみましょう。明治期に、英語の入試が導入され、夏目漱石たちが問題作りに精を出したことでしょうが、当時、必要とされた英語力は、最初期は外人講師の授業が理解できること。そして、ほどなく、英語の文献が読めるようなることになりました。当時必要とされた「英語力」とは、爆弾の作り方をいかに速く、正確に読み取れるか、ということです。そこで、リーディング中心の英語入試が必要とされたわけです。その後、爆弾の作り方から、経済学や繊維、精密機械の作り方へと対象は変化しましたが、文字から情報を手に入れるという能力が中心で、英語で相手を説得するなどという能力は一部の外交官などの特殊技能とされてきました。「英語屋」と彼らは呼ばれていたのですね。今、学校の英語が役に立たないとか、文法偏重だと言われますが、百年前の日本にとっては必要な能力だったのです。問題は、百年前に必要だったことをそのまま、昨年もそうだったという理由でずっと続けてきたということでしょう。

漱石では、今どうすべきか。ここですぐにアウトソーシングに議論を移せば飛躍そのものです。大学が、どのような英語能力を求めているのか再考することが先決でしょう。百年たって変わった点、変わらない点があります。何もかも変わったわけではありません。大学というところは学問を学び、追及するところで、貿易会社ではありません。その点は変わっていないとういうことをしっかり踏まえたら、自ずと英検、TOEIC中心の問題の出し方と違う点が見えてくるでしょう。単語ひとつ取ってみても、TOEICに出されるような社内メールでやり取りされる回数が多いものではなく、普遍的な論理関係を表わす表現を重視すべきだ、と分かるでしょう。TOEICや英検の実際の問題を見ると、速く反応することは求めていても、論理的正確さに焦点を当てた問題はあまり見られません。少なくとも、高校生に論理的な英語表現を理解、作文する能力を高めるような学習へと誘導することはできません。今でも、結果を表わす接続詞のsoを満足に使えない学生が多いと明大教授だったマーク・ピーターセンが嘆いています。こんな現状ですから、アウトソーシングをして責任を回避するするどころか、大学側が、高校生や、高校側にもっと英語学習の要求を高める必要があるというのが現実ではないかと思います。


昔から、大学は国家とは距離をおいて発展してきました。政府が勝手に都合がいいように学問を捻じ曲げる恐れがあるからです。それは今までそうであったし現在も世界中のいたるところで起きています。日本のような新興国家は、そのような自立した大学の成長を待つことができないので、国家主導型でした。そのため、大学は文部省に頭が上がりません。英語入試についても、文部省の言うがままで、大学が入学者にどのような英語力を求めるか、というメッセージを送る意思が見えません。ここで上の①と②の問題点の本質が分かります。


① 大学入試の英語は高校過程の学習を理解したかを試すために行われるのか。
② 大学入試が高校での学習を基準とするものなのか。


中世大学高校過程の学習を決めるのは文部省です。ですから、反対派の議論の論拠としているのは国の権威に頼っているということになり、英語をどう学ぶか、英語で何を学ぶべきかという視点がありません。そこで、「社会の必要」を持ち出す賛成派に対し立場が弱くなってしまいます。ほんとうは、大学入試の基準は高校を基準にするのではなく、大学で必要だからこういう能力を身につけて入学してい欲しいと、大学が自らがが基準を設けるべきです。そうすることによって、文部省が高校の学習をどう規定するかということと関係なく、大学への進学を希望する高校生は大学が示す基準を目指すことでしょう。たとえば、一定の長さの英文を示して、一定の時間に正確に要約できるように、というようなモデルを提示すればよいのです。では、今問題になっている会話、聴き取りの能力はどうでしょう。ここは説明が難しいのですが、以前よりは重視するものの、英語の読み取りの力が第一で、それに次ぐ能力という位置づけがあってもよいと思います。今も昔も、大学は学問をするところだからです。会話力は入学してから必要に応じ学習してもよいのです。

ここまでで、大学の主体性のなさという、ひょっとしたら英語だけはなく、日本の大学の根本的弱さにつながるかもしれない問題が浮き彫りになってきました。その問題をどうするか、という具体論はに二次的な問題なので、ここで論じるのはやめておきましょう。


また、上で述べた残りの二点、
③ 全国一律の高校でのカリキュラムというものの存在を、賛成派と同様、「大前提」としているのではないか、と。
④ 「同業意識」の気分からたんに反対しているだけはないか


も、飛ばして、今まで触れてこなかった点に触れておきます。大学入試を経験した人なら、じつは、たいていの人が分かっていることですが、大学入試の英語問題では英語能力が問われているわけではない!、ということです。世間で難しいという言われる試験に合格した人なら、はは~んと頷くことでしょう。つまり、国語能力です。ちょっと考えてください。日本語に訳しても分からないことが英語で書かれていたら分かるわけがないでしょう。「英語が不得意」な人は、自分の点が低い理由が英語力だと思いがちですが、案外、高校生活を通して、関心をもって新聞や本を読んで来なかったのが原因かもしれません。残念ながら、じつを言うと、国語力を問うという傾向もだんだん弱まっているように思えます。日本語に訳すと小学生でも分かるような内容の英文が、ひたすら字数だけ多く出題されることが多くなっていると思うのです。英語の先生が、「この英文は内容が難しいから真の英語力は問えない」などと言っているのではないかと邪推したくなるのですが、どうでしょう。伝統的な、と、あえて言いますが、英語の入試問題では、「言語は伝えるためにあるのか」(哲学)「温暖化への対策は何がよいか」(自然科学)、「外国人労働者導入は是か非か」(社会)、「おとり捜査は是か非か」(法律)など、こうした内容の議論を正確に理解、考える力が、実質的に問われて来たのです。もちろん一定レベルの語学力は必要ですが、ある程度入試が難しい大学に受かる人は語彙などの語学力では差がつきません。合否を決めるのはこうした問題を理解できるかどうかだと思います。それをあえて「国語力」と言いました。英語の先生のなかには、こうした問題を考えたくもないという人も多いのかもしれません。しかし、案外、以前からの入試問題には、こうした「硬派」の内容のものが多くて、英語の問題を通して知的関心を掻き立てられたという人も多いのではないかと思います。こういう問題は、減らすどころか、高校生にどしどし押し付けたらいいのです。彼らはきっと食いついてくるでしょう。


フランス人さて、この長いエッセイも終わりに近づきました。反対論の問題点を主に指摘しながら、大学の主体性のなさ、英語力と国語力のつながりなどを見てきましたが、最期に、すぐ上に述べたことを、このエッセイの題とは逆方向に、アウトソーシング導入賛成派に欠けているある重要な点につなげたいと思います。それは何か。それは、導入論では言語が<何かを>伝える道具だ、という視点が欠けているということです。人はなぜ語学を学習するのか。それは語学自体を目的としているからではありません。「言語外」の何かを理解したい、伝えたいからです。たしかに最初の頃は言語自体へのあこがれというものがあります。私はフランス語が大学での中心となる言語でしたが、ほとんどのフランス語学習者は「お」フランスにあこがれているだけで、フランス語で何かを理解する、ましてや、伝えるという段階にまで達していません。

英語学習者はこのような状態から速く脱するきっかけが与えられます。上のパラグラフで、典型的な大学入試リーディングのテーマを哲学、科学、社会、法律にわたってあげましたが、こういう問題を考えたい、知りたいからこそ人は英語を学習するのでしょう。さらに進んで、こうした問題についての自分の意見を外国人に伝えたい、間違ってはいけない、と思うので、書いたり、話したりする訓練をする意欲がわくわけです。若い人をそのように導く意図が、いままでの大学入試の問題にもかろうじて見られました。ところが、ちょっとでも英検やTOEICのリーディングの問題を見れば分かることですが、そのような若者の知的関心を掻き立てるような文章はまず登場しません。少なくとも、二度読みたくなる文章はありません。ただただ速く、表面的な論理の間違いをしないことだけが問われます(審議会の先生方は問題を解いていらっしゃるのでしょうね)(註)。これらの試験問題は言語の試験というよりクイズに近くなることもあります。鳥飼さんは、アウトソーシングされた問題では、生徒は技術に走るようになると述べていますが、一回目に述べたように、じっさいにこのことは起きています。このような英語に接するのは苦痛以外のなにものでもありません。電車のなかでTOEICの問題集に取り組んでいる方を見るとその苦労が偲ばれます。試験が終わったら英語学習に関心を失うというのも当然でしょう。

さらに悪いことに、がんらい手段である資格試験が自己目的化すると、人々は点数を上げて人より上に立ちたい(給料を上げてほしい、というのもあります)という動機で英語の学習をするようになります。日本語であれ、英語であれ、自分と異なる考えを持った他者を理解、する、させる道具であるというのが言語の本質であることを忘れ、「人より上に」という欲求の方がだんだん優勢になってきます。この欲求は自分しか見ていないので、コミュニケーションの拒否と言うこともできるのではないでしょうか!。つまり言語の本質の否定です。私が「英会話」を学習し始めたころ、「君は英検1級を取っていないのだから英会話はまかりならぬゾ」というジョークを飛ばす米国人がいました。権力に絡む心理は外国人にも理解しやすいものです。

青春は短い。英語試験のアウトソーシングで余計な技術的な勉強時間を増やすことより、大学が、英語入試を通して、他の教科とも相乗効果を生むような、知的関心を高める学習をリードしなければならないのではないでしょうか。元来は。

註:TOEFLは、あまり知られていませんが、試験の自己目的化を極力避けるように工夫し、コミュニケーションの能力を問うテストになるような試みがいろいろなされています。
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英語入学試験のアウトソーシング反対派の議論に何が欠けているか?。1/2

2018年05月08日 | 言葉について:英語から国語へ

 

英語入学試験のアウトソーシング反対派の議論に何が欠けているか?。1/2

英語入試

少々長いエッセイですが、英語入試のアウトソーシングの本質について考えるよすがにしていただけたら幸いです。

英語入試の外注について2月の新聞に対論の記事がありました。そのあと静観していましたが、その後もこの問題が注意の的になっています。東大は外注をしないと最初言っていましたが、そのあと外注をすることに決めたという記事がありました。その後、未定だという報道もあります。
「理想論はいづれ実際の必要に負けるものだ」という見方通りの結果になってしまうかもしれませんが、外国語教育や入試のありかた、大学の意味を問う大きな問題なので、結果がどうなるかとは別に論じておくのも無駄ではないでしょう。

試験と言えば、まず、次の三つの問いが頭に浮かびます。入学試験は何のために行うのでしょう。

● 定員が限られているから仕方なしに行うのか。

● 優秀な生徒を選抜するためなのか。

● または、入学前の生徒に学習を促すためなのか。

これらのことが十分考えられて大学の入学試験が行われているのか、はなはだ疑問です。考えなくても毎年生徒が大勢受験してくれるのでとくに問題なく毎年過ぎていくのです。
ところが、今回のように、入試問題を外注に出すということになると、どうしても、こういう問題が好ましい、好ましくないの議論が始まります、いや、今回の英語の試験の件に関しては、アウトソーシングの是非自体を問う議論が始まります。ここに至って、初めて試験は何のために、ということを考えざるを得なくなるではないでしょうか。

積極的に外注を進める側の言い分は分かるのですが、外注反対派の論者は、なぜ外注はだめなのか、十分考えた上で反対しているのか疑問を覚えます。「入試を外注に出すとは何ごとか」と怒るの英語教師が多いようですが、なぜ怒っているかよく考えていないように思います。なんとなくの「同業意識」からそう言っているのではないでしょうか。
よく「英語力」と言う言葉が使われて、みんな分かっているようなつもりで話していますが、少し問い詰めると類型的な答えが返って来るだけです。尤も、だいたい「学力」という言葉もなんだか分からないままでものすごく頻繁に使われています。なぜ考えないで使われているかというと、点数で表わしうるものなので自明だと思い込んでいるからでしょう。それでいて一方で、「試験では問えない学力がある」などと言ってるとしたら、矛盾というものです。

2月9日(2018年)の産経新聞、ニッポンの議論欄に、民間英語試験導入について、賛成派と反対派の論者の対論が掲載されています。各々の主張の要点は以下の通りです。
http://www.sankei.com/premium/news/180211/prm1802110022-n1.html 3月19日最終確認

賛成派:
① 大学入試の英語は役に立たない。
② 社会の役に立つ英語を民間の試験によって導入すべきだ。

反対派:
① 大学入試の英語は高校の学習をどれだけ理解したかを見るもので、英語能力一般を試す民間試験は適さない。
② 民間試験導入により試験のための勉強が優先され、本来の学業がゆがむ。

英語辞書この他にもいくつか論点がありますが、主要な点は以上のとおりです。しかし、大学入試の英語は役に立たないのでしょうか。では「社会の役に立つ英語」とは何なのでしょうか。民間の英語試験の内容がほんとうに役に立つと言えるかどうか、調べてから言っているのでしょうか。一見、議論をするように見えて、じつは大学と大学教員の負担軽減という強力なドライブのもとで押し切ろうとしているだけではないか、と疑ってみることができるでしょう。一方、反対派の方ですが、大学入試の英語は高校過程の学習を理解したかを試すために行われる、というのはほんとうでしょうか。冒頭に触れた「同業意識」を正当化しているだけはないか。
両者とも、世間の通念を疑うことなく前提しているという点で同じ弊に陥っているように思えます。賛成派は、象牙の塔の「役に立たない英語」 VERSUS「社会が必要とする役に立つ英語」という、なんとなく世間で受け入れられる二項対立を疑うことなく主張しているだけではないか。一方、反対派の方も、大学受験が高校での学習を基準とするものだと言う考えを疑うことなく受け入れて言っているだけではないか。また、全国一律の高校でのカリキュラムを大前提にしていないでしょうか。

アウトソーシング賛成派の議論には大きな問題点があります。紙上の賛成派の論者は「当初は混乱するかもしれないが、英語は一つ。( ------ ) 実社会に対応したテストに収束されるだろう」と述べていますが、反対派の危惧には一切反論していないのです。その危惧とは、民間試験のスコアアップが自己目的化してしまいうということです。反対論を述べる鳥飼久美子氏は、「解答能力を高めるための英語教育となり、高校英語教育は崩壊する」と述べます。「解答能力」とは、スコアを上げるためのテクニックで、英語力とは関係ない能力のことです。こうした現象とは、鳥飼さんが指摘する通り、たんに「理論的」な予想というだけはなく、大学レベルでじっさいに起き、問題となっているという事実に基づいていることに目をつぶるわけにはいきません。一般的に言って、「社会学者」でなくても、世間での経験をある程度積んだ人なら、だれでも手段の目的化が問題を引き起こすことは知っているはずです。賛成論者は、上の意見に続けて、「試験の外注は教育の問題ではない、技術論と本質論を分けるべきだ」と述べていますが、文脈的にどうつながるのか(産経新聞のサイトを参照)。どうも、決まってしまえば勝ち、という意識で強弁しているという印象を受けました。
しかし、いかにこの新聞上の主張が脈絡がなくても、事実、英語試験外注化が決まりそうなので、賛成派の勢いはとても優勢なのです。それに対し反対派は十分強力な反論をしているでしょうか。嘆いて見せ、内輪で盛り上がるるだけという、理想派にありがちな陥穽に陥っていないでしょうか。


ここで、先ほどの反対派の議論に私が疑問を覚えた点を、上の箇条書き以外の点も含めてもう一度取り上げましょう。

① 大学入試の英語は高校過程の学習を理解したかを試すために行われるのか。
② 大学入試が高校での学習を基準とするものなのか。
③  全国一律の高校でのカリキュラムというものの存在を、賛成派と同様、「大前提」としているのではないか、と。
④  「同業意識」の気分からたんに反対しているだけはないか。

以上の4点をつづきのコラムで考えてます。