外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

諭吉さんの英語修行 付録:福沢の英文手紙(1862)

2018年10月14日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

諭吉さんの英語修行 付録:福沢の英文手紙(1862)

以下の写真は福沢諭吉が、1862年、日本への帰路、セイロンから、フランス人に宛て書いた手紙です。活字に写したものも含め、ネット上にアップロウドされていたのを拝借しました。写真の右側が切れていますが、下に活字への写しがあります。活字に写してくださった方に感謝します。

1862年(文久2年)に福沢諭吉が参加した遣欧使節の旅の帰途で、セイロン島ガル港の船上で書いた手紙の前半(表)部分。©慶応義塾大学

当時福沢は27歳、オランダ語をあきらめ、英語学習を始めてからたった3年(!)ということになります。

こうした過去の文献を扱う場合、たいてい以下の二つの見方をしがちです。

⓵ さすが、○○の書いたものだからたいしたものだ。

② 「間違い」があるが当時の事情を考えると許される。

しかし、どちらも、現在の視点の見方で過去を見ていると言えるのではないでしょうか。

⓵に関しては、当時福沢は有名人ではない。その後、業績を上げることなく死んでしまったらこの言葉は成り立ちません。(ただ、現在われわれがこの手紙が読めるのは福沢が有名になったからです。)

②は、「現在の英語教育水準」という純国内的な価値基準基準をあてはめて判断している。「間違い」とは何を基準にして言うのでしょう。

こういう先入観をなるべく排してみると、何が見えてくるでしょう。

(1) 27歳の青年が、たいした学校教育も教科書もない状態で、ゼロから3年間で英語という外国語を学習した成果であるということ。

(2) 遣欧使節の下っ端であるにもかかわらず、訪問地で知り合った人と積極的な交流を図ろうとしているということ。

手紙を見ると、外国人に添削してもらった形跡がありません。そのため「間違い」もそのままです。(1)については、現在完了形について自分で規則を作ってしまっているようなのが目につきます。オランダ語の影響かどうか私には分かりません。(2)については、ろくな辞書もない状態でしょうが、船名の綴りなどあまり気にせず、ともかく返信したいという意気込みで書かれたと推測します。「間違えたら恥ずかしいから」という気持ちで「完璧な英文を人に頼んで書く」という態度ではないです。むしろ、自力で書いたということも相手に伝えようとしていたのではないかと思えます。

註:Léon de Rosny(レオン・ド・ロニー:1837-1914)は、東洋学者。当時通訳を務めた。東洋語学校、日本語初代教授。


活字への写し:(To Léon de Rosny)
  

下に試訳があります。

18 Dec.1862 

On board of the French steamer Europen

Point de Galle

With pleasure I have received your charming note including in the letter to D Matouki at Alexanderia, where we have arrived 17th November; of course I was obliged to answer for it directly, but as soon as we arrived at Alexandeira I have departed there to Suez with some of our officers taking care for the baggages before Ambassadores, so that I had no time to write the answer to you, I hope you would not be angry for it.

At 20th of November we have departed from Suez with French steamer Europen arrived at Adens 28th of said month staying there five daies departed from Aden 3d of december and arrived here (point de Galle) yesterday, supposing the voyage forward we shall be at Japan in 45 or 50 days more.

裏面 

On board I have not much official busyness to do, so I am now studing the French every day but in embrassment to understand it. 

That you are always in good health have the same feelings for Japan and for myself, is the hearty wish of
your upright friend 

Foucousawa Youkitchy

試訳:一部、推測も含みます。

1862年12月18日

フランスの汽船「Europen」船上にて。

Point de Galle(セイロンの町)より。

うれしいことに、アレキサンドリアで、D・Matoukiさんへの手紙に同封された魅力的なおメモを受け取りました。アレクサンドリアには11月17日に到着し、すぐにお返事をしなければならなかったことは言うまでもありませんが、アレキサンドリアに到着してまもなく、公使たちより前に積荷を運び出す作業があったので、何人かの成員とともにそこを発ち、スエズに向かいました。そのため、お返事を書く時間がありませんでした。遅れたことに御怒りでないことを願っております。

11月20日、フランスの気船「Europen」でスエズを発ち、その月の28日にはアデンに到着し、そこでは5日間滞在しました。12月の3日にアデンを発ち、ここ(Point de Galle)に昨日到着しました。これからの旅路を考えると、日本に着くまでにはさらに45日から50日かかりそうです。

(裏面)

船上、公務もあまりないので、今、日々フランス語を学習しております。しかし、理解に難渋しております。

かわらずお元気でありますことを、そして、日本国と私自身の健康にも、貴方に対する私の気持ちと同様の気持ちを持っていただけることを心から願っております。あなたの誠実な友より。
福沢諭吉

 

 

 

 


福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 2/5

2018年10月10日 | 言葉について:英語から国語へ

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 2/5

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- 議論を紛糾させる三点について

文明論の概略2『文明論の概略』の文章はいかがでしたか。ある一流大卒の中年の方が「どうも漢字がね」とおっしゃっていましたので、少しかっこの仮名を増やしておきます。たとえば鰌(どじょう)はほとんどの方が読めません。しかし、三つの論点のリズムをあらかじめ予想して読めばそんなに難しいものではないと思います。ゆっくりと、話すスピードで読めばリズムの心地よさに乗って読み進めることができます。書き言葉が音声言語から乖離した現代の日本語では味わえない趣があります。

さて、その三点とは以下の通りでした。

A: 理論的主張

B: 実際への適用 

C:  比喩や例示

Cは、「たしかに~は正論だが、----」、「~でなければ----でない」というレトリックを多く用います。

前回では、「基準が必要」だということを三点について論じました。

論点1.A: 基準が必要である。

論点2.   A: 一般的なものとしての基準が必要である。

論点3.   A:目的としての基準が必要である

今回、続く個所では、議論を紛糾させる三点に注意を促します。

論点4.   A:一見同じ意見に見えるが、じっさいの帰結は違う場合ある。

論点5.   A:極端な例を持ち出すとして、相手をそしる場合がある。

論点6.   A:長所を見ず欠点にみに注目して、相手をそしる場合がある。

福沢 ペテルスブルグでは、前回と同じように、A、B、Cがどういう具合で出てくるか見てみましょう。今回の三項目では、Bの実際例、Cのたとえにおいても、おもしろいレトリックを繰り広げます。その点も詳しく分解してみます。少し長くなります。

論点4. 

A:一見同じ意見に見えるが、じっさいの帰結は違う場合ある。

B : 頑固者も学のある者も外国人嫌いという点では同じ意見に見えるが、その理由を尋ねれば、頑固者は単に異質なものを嫌悪するのに対し、学のある者は、利害、不公平など少し広い立場で判断している。

B:開国派も攘夷派も、表面的な結論は同じことを言うが、根本的な発想が違う。

C:宴会、行楽などでも仲良く楽しんでいるように見えるが、好みが異なっていることが多い。

A:人の表面的な挙動でその人の考えを即断してはいけない。

論点5.

A:極端な例を持ち出すとして、相手をそしる場合がある。

B: 伝統派は、同権主義者を我が国体を破壊し国難を招くとそしり、同権がどういうものかを考えもしない。一方、同権主義者は伝統派を不倶戴天の敵とみなす。

C:仮に酒飲みと甘党の議論があったとする。双方とも、相手はこちらの側の極端な害を持ち出して攻撃していると憤慨する。

甘党の意見:酒飲みは、正月にはお茶漬けを食べ、餅屋を廃業し、もち米作りを禁止せよ、などと勝手なことを言う。

酒飲みの意見:甘党は、酒屋を壊し、酔っ払いを厳罰に処し、薬用アルコールの代わりに甘酒を使い、婚礼には水盃を使えなどと勝手なことを言う。

B:古今東西、極端な議論が不和を生じ、大きな害を生じた例は多い。インテリがそれを行う場合はアジテーションになり、無学な者がそれを行う場合、暴力、暗殺につながる。

論点6.

A:長所を見ず欠点にみに注目して、相手をそしる場合がある。

C:田舎ものと都会の市民は互いの弊害のみ見て、美徳は見ない。

それぞれ弊害、美徳がある:

田舎ものの弊害:頑固、無学   田舎ものの美徳:正直

都会市民の弊害:軽薄   都会市民の美徳:頭の回転が速い

しかし...、

田舎ものいわく:市民は軽薄だ!。

都会市民いわく:田舎ものは頑固だ!。

A:相手の長所と短所を両眼で見れば争いも消え、自分の欠点を直すことで、お互いの利益となろう。

B1:現在、言論界は改革派と伝統派に分かれている。改革派は進取の気性があるが軽率に流れる欠点があり、伝統派は地道だが頑迷に陥る欠点があるが、必ずしも、地道が頑迷を伴うわけでもないし、進取の気性が軽率に流れるわけでもない。

C:酒飲みは必ずしも酩酊するわけでなく、餅好きが必ずしも腹をこわすわけではない。酒は酩酊の十分条件ではなく、餅が腹痛の十分条件ではない。要は節制するか否かである。

B2: 改革派も伝統派もB1で述べた短所をあげつらうと敵意が増すばかりだが、長所を認め合えば双方の本質が見えて来て親しみも湧くであろう。

● 7に移る前に。

さて、議論の基準と注意点を2回にわたって分解しつつ、ここまできましたが、よりよい議論をするためには具体的に何をしたらいいか。これを7で論じます。次回は少し短くなります。

では、4、5、6の三点に該当する部分を原文でみてみましょう。

岩波文庫:p.17-p.21

又議論の本位を異にする者を見るに、説の末は相同じきに似たれども中途より互に枝別してその帰する所を異にすることあり。故に事物の利害を説くに、その、これを利としこれを害とする所を見れば両説相同じと雖(いえ)ども、これを利としこれを害とする所以(ゆえん)の理を述るに至れば、其説、中途よ生麦事件り相分れて帰する所同じからず。たとえば頑固なる士民は外国人を悪(にく)むをもって常とせり。又学者流の人にても少しく見識ある者は外人の挙動を見て決して心酔するに非ず、これを悦ばざるの心は彼の頑民(がんみん)に異なることなしと云ふも可なり。この一段までは両説相投ずるが如くなれども、その、これを悦ばざるの理を述るに至て始て齟齬(そご)を生じ、甲は唯(ただ)外国の人を異類のものと認め、事柄の利害得失に拘はらずしてひたすらこれを悪むのみ。乙は少しく所見を遠大にして、唯これを悪み嫌ふには非ざれども、その交際上より生ずべき弊害を思慮し、文明と称する外人にても我に対して不公平なる処置あるを忿(いか)るなり。双方共に之を悪(にく)むの心は同じと雖ペリー来航(いえ)ども、之を悪むの源因を異にするが故に、之に接するの法もまた一様なるを得ず。即(すなわち)これ攘夷家と開国家と、説の末を同ふすれども中途より相分れてその本を異にする所なり。すべて人間万事遊嬉宴楽のことに至るまでも、人々その事を共にしてその好尚を別にするもの多し。一時その人の挙動を皮相して遽(にわか)にその心事を判断するべからざるなり。


 また、あるいは事物の利害を論ずるに、その極度と極度とを持出して議論の始より相分れ、双方互に近づくべからざることあり。その一例を挙て云はん。今、人民同権の新説を述る者あれば、古風家の人はこれを聞て忽(たちま)ち合衆政治の論と視做(みな)し、今我日本にて合衆政治の論を主張せば我国体を如何せんと云ひ、遂には不測の禍(わざわい)あらんと云ひ、その心配の模様はあたかも今に無君無政の大乱に陥らんとてこれを恐怖するものゝ如く、議論の始より未来の未来を想像して、未だ同権の何物たるを糺(ただ)さず、その趣旨の在る所を問はず、ひたすらこれを拒むのみ。又彼の新説家も始より古風家を敵の如く思ひ、無理を犯して旧説を排せんとし、遂に敵対の勢を為(な)して議論の相合ふことなし。畢竟(ひっきょう)双方より極度と極度とを持出だすゆゑこの不都合を生ずるな酔っ払いり。手近くこれをととへて云はん。爰(ここ)に酒客と下戸と二人ありて、酒客は餅を嫌ひ下戸は酒を嫌ひ、等しくその害を述てその用を止めんと云ふことあらん。然(しか)るに下戸は酒客の説を排して云く、餅を有害のものと云はゞ我国数百年来の習例を廃して正月の元旦に茶漬を喰ひ、餅屋の家業を止めて国中に餅米を作ることを禁ず可きや、行はるべからざるなりと。酒客は又下戸を駁(はく)して云く、酒を有害のものとせば明日より天下の酒屋を毀(こぼ)ち、酩酊する者は厳刑に処し、薬品の酒精には甘酒を代用と為し、婚礼の儀式には水盃を為す可きや、行はる可らざるなりと。かくの如く異説の両極相接するときはその勢必ず牡丹餅相衝(つき)て相近づくべからず、遂に人間の不和を生じて世の大害を為すことあり。天下古今にその例少なからず。この不和なるもの学者君子の間に行はるゝときは、舌と筆とを以て戦ひ、あるいは説を吐きあるいは書を著し、いわゆる空論をもって人心を動かすことあり。唯無学文盲なる者は舌と筆とを用ること能(あた)はずして筋骨の力に依頼し、動(やや)もすれば暗殺等を企ること多し。

city slickers 又世の議論を相駁するものを見るに、互に一方の釁(きん)を撃て双方の真面目を顕(あらわ)し得ざることあり。其釁とは事物の一利一得に伴ふ所の弊害を云ふなり。たとえば田舎の百姓は正直なれども頑愚なり、都会の市民は怜悧なれども軽薄なり。正直と怜悧とは人の美徳なれども、頑愚と軽薄とは常に之に伴ふ可き弊害なり。百姓と市民との議論を聞くに、その争端この処に在るもの多し。百姓は市民を目して軽薄児と称し、市民は百姓を罵(ののしり)て頑陋(がんろう)物と云ひ、その状情あたかも双方の匹敵各片眼を閉じ、他の美を見ずしてその醜のみを窺(うかが)ふものゝ如し。若しこの輩(やから)をしてその両眼を開かしめ、片眼以て他の所長を察し片眼以てその所短を掩(おお)ひ、その争論止むのみ

上京ならず、遂には相友視して互に益を得ることもあるべし。世の学者もまたかくの如し。たとへば方今日本にて議論家の種類を分てば古風家と改革家と二流あるのみ。改革家は穎敏(えいびん)にして進て取るものなり、古風家は実着にして退て守るものなり。退て守る者は頑陋に陥るの弊(へい)あり、進て取る者は軽率に流るゝの患あり。然りと雖(いえ)ども、実着は必ずしも頑陋に伴はざるべからざるの理(ことわり)なし、穎敏は必ずしも軽薄に流れざるべからざるの理なし。試に見よ、世間の人、酒を飲て酔はざる者あり、餅を喰ふて食傷せざる者あり。酒と餅とは必ずしも酩酊と食傷との原因に非ず、その然(しか)ると然らざるとは唯これを節する如何に在るのみ。然(しから)ば則(すなわ)ち古風家も必ず改革家を悪むべからず、改革家も必ず古風家を侮るべからず。ここに四の物あり、甲は実着、乙は頑陋、丙は穎敏、丁は軽率なり。甲と丁と当り乙と丙と接すれば、必ず相敵して互に軽侮せざるを得ずと雖ども、甲と丙と逢ふときは必ず相投じて相親まざるを得ず。既に相親むの情を発すれば初て双方の真面目を顕(あら)はし、次第に其敵意を鎔解するを得べし。

3/5につづく

 

 

 



福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 1/5

2018年10月04日 | 言葉について:英語から国語へ

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 1/5

解説+原文の一部のセットと言う形をとります。

考えられる形としては、現代語訳や、註を付ける、というやり方がありますが、「解説+原文」という形での本はないのではないでしょうか。原文は文語とはいえ、普通の日本人にも十分分かると思います。

文明論の概略英訳福沢諭吉さんの英語修行について「日本人の英語シリーズ」で扱うつもりでしたが、その前に、『文明論之概略』の第一章、「議論の本位を定る事」の論理とレトリックを分解することにしました。文庫本で10ページほどですが、数回に分けます。下に福沢のテキストも少しづつ挙げますので、福沢の論理展開をゆっくり読む手助けとしてください。古い日本語が不得意という方もぜひ原文に触れてもらいたいと思います。イラストもたくさん入れました。

とても古い書であるので、たいしたことあるまいとたたをくくっている人が多いと思いますが、現在の評論家でもこれだけ、論理的で説得力のある議論を進める人はあまりいないのではないでしょうか。加えてもう一つ、現在の文章にはない大きな特徴があります。それは、音読に耐えるということです。漢語が多いので決して口語ではないのですが、文にリズムがあり、読者の頭だけではなく、耳にも訴えるのです。文明論の概略

第一章の「議論の本位を定る事」では、議論とはこのようにするのだという原則を述べます。

各論点を次の3つの要素で組み立て、それを繰り返します。三拍子の論理のリズムが心地よく響きます。例えば、A→C→B→C→Bという具合です。論理の展開が速いのでゆっくり読むことを進めます。

とりわけ、Cの比喩は、「~でなければ---である」という裏からの論理、「たしかに~は一理あるが、----」という譲歩の論理を多用します。

A: 理論的主張

B: 実際への適用 

C:  比喩や例示

冒頭3ページ分解に先立って、Cの「例示」の一例を挙げてみましょう。「A:目的としての基準が必要である」の例です。神道と仏教の論争を想定してください。現在でもテレビの「討論番組」で扱うかもしれないテーマです。福沢は神道は「現在」、仏教は「未来」を目指すとうい点で目的が違うので議論にならないと、一刀両断に切り捨てます。ある条件付きで...。あまりに乱暴だと思いますか。無知から来る即断だと思いますか。しかし、現代の討論番組であったなら、かみ合わない主張を繰り返したあと、それぞれいい点もあるね、でしゃんしゃんと終わるのではないでしょうか。福沢は、そういう状況をきらいます。福沢の主張は、唯一議論が成り立つためには、両者の主張を越えた「目的」が基準になる場合のみだということです。マスコミに登場する現在の論者たちは、これだけの論理的整合性を落ち合わせているでしょうか。きっと、福沢は、当時、議論と称して勝手なことを言い合っている状況にあいそがつきていたのではないかと想像します。

では、文庫本11ページほどの内容ですが、上の3点で分解してみましょう。今回は、冒頭3ページ弱です。

論点1.

A: 基準が必要である。

定義:「相対して重と定り善と定りたるものを議論の本位と名づく。」

C1:軽重、長短、善悪、是非

C2:背に腹。小の虫、大の虫。鶴と鰌

B: 日本国と諸藩による旧制度のどちらが大切かという基準が必要(維新はたんなる権力奪取ではないということ)

論点2.

A: 一般的なものとしての基準が必要である。

C:ニュートンの法則がなければ、船の動き、車の動きなど、ただただ箇条が増えるばかり。(法則は「本位」と同じ意味にとることができる)

論点3.

A:目的としての基準が必要である

C1:城を攻める側、守る側、敵のためか味方のためか、往く者のためか来る者のためか、目的がなければ利害得失を論じることができない。

B:現在の議論の混乱の原因は最初の目的が違うのに無理やり結果を同じようにするからである。

C2:神道は現在を説き、仏教は未来を説くのが「本位」であるので議論はかみ合うはずがない。

C3:儒学者は政権の奪取を「本位」として、和学者は「一系万代」を「本位」とするので議論がかみ合うはずがない。

C4:戦う場合、弓矢、剣の特質を論じるのも目的があいまいなので議論はかみ合わないが、小銃が現れて以来、その議論は消えた。

B:議論を解決するためには、より高次の目的を目指す新説を示し新旧の得失を判断させるしかない。

ここまでで、文庫本3ページ目(全体のp.17)です。

では、福沢さんの原文です。読みやすくするため原文にない段落を設けました。小見出しはないですが、上の分解例を読み直してから進めると分かりやすいです。

註:原文の漢字を多くかなに改めました。之(これ)、其(それ)、斯く(かく)、都て(すべて)、恰も(あたかも)、只管(ひたすら)など、論理的表現です。かなに改めることで古典への距離ができてしまいますが、昨今、はやりの現代語訳より距離が短いかと思います。その他、鰌(どじょう)のような現代ではあまり使われない漢字はかっこでかなをしめしてあります。

 

巻之一

第一章 議論の本位を定る事

 軽重長短善悪是非等の字は相対したる考より生じたるものなり。軽あらざれば重あるべからず。善あらざれば悪あるべからず。故に軽とは重よりも軽し、善とは悪よりも善しと云ふことにて、これと彼と相対せざれば軽重善悪を論ずべからず。かくの如く相対して重と定り善と定りたるものを議論の本位と名(なづ)く。

鰌 鶴諺(ことわざ)に云く、腹は脊(せ)に替へ難し。又云く、小の虫を殺して大の虫を助くと。故に人身の議論をするに、腹の部は脊の部よりも大切なるものゆゑ、むしろ脊に疵を被るも腹をば無難に守らざるべからず。又動物を取扱ふに、鶴は鰌(どぜう)よりも大にして貴きものゆゑ、鶴の餌には鰌を用るも妨(さまたげ)なしと云ふことなり。

背に腹たとへば日本にて封建の時代に大名藩士無為にして衣食せしものを、その制度を改めて今の如く為したるは、徒(いたづら)に有産の輩(やから)を覆(くつがへ)して無産の難渋に陥れたるに似たれども、日本国と諸藩とを対すれば、日本国は重し、諸藩は軽し、藩を廃するは猶腹の脊に替へられざるが如く、大名藩士の禄(ろく)を奪ふは鰌を殺して鶴を養ふが如し。

都(すべ)て事物を詮索するには枝末を払てその本源に遡り、止る所の本位を求めざる可らず。かくの如くすれば議論の箇条は次第に減じてその本位は益確実なる可し。「ニウトン」初て引力の理を発明し、凡(およ)そ物、一度び動けば動て止まらず、一度び止まれば、止まニュートンりて動かずと、明にその定則を立てゝより、世界万物運動の理、皆これに由らざるはなし。定則とは即ち道理の本位と云ふも可なり。もし運動の理を論ずるに当(あたり)て、この定則なかりせば其議論区々にして際限あることなく、船は船の運動をもって理の定則を立て、車は車の運動をもって論の本位を定め、徒(いたづら)に理解の箇条のみを増してその帰する所の本は一なるを得ず、一ならざれば則ち亦確実なるを得ざるべし。

 議論の本位を定めざればその利害得失を談ずべからず。城郭は守る者のために利なれども攻る者のためには害なり。敵の得は味方の失なり。往者の便利は来者の不便なり。故にこれらの利害得失を談ずるた城めには、先づそのためにする所を定め、守る者のため歟(か)、攻る者のため歟、敵のため歟、味方のため歟、何れにてもその主とする所の本を定めざる可らず。古今の世論多端にして互に相齟齬(そご)するものも、其本を尋れば初に所見を異にして、その」末に至り強ひてその枝末を均ふせんと欲するによって然(しかる)ものなり。

たとへば神仏の説、常に合はず、各その主張する所を聞けば何れももっともの様に聞ゆれども、その本を尋れば神道は現在の吉凶を云ひ、仏法は未来の禍福を説き、議論の本位を異にするをもって両説遂に合はざるなり。

神仏漢儒者と和学者との間にも争論ありて千緒万端なりと雖(いえ)ども、結局その分るゝ所の大趣意は、漢儒者は湯武(殷の湯王と周の武王)の放伐(追放)を是とし、和学者は一系万代を主張するに在り。漢儒者の困却するは唯この一事のみ。かくの如く事物の本に還らずして末のみを談ずるの間は、神儒仏の異論も落着するの日なくして、その趣はあたかも武用に弓矢剣槍の得失を争ふが如く際限あるべからず。

刀と銃若しこれを和睦せしめんと欲せば、その各主張する所のものよりも一層高尚なる新説を示して、自から新旧の得失を判断せしむるの一法あるのみ。弓矢剣槍の争論も嘗(かつ)て一時は喧(かしま)しきことなりしが、小銃の行はれてより以来は世上にこれを談ずる者なし。

《神官の話を聞かば、神官にも神葬祭の法あるゆゑ未来を説くなりと云ひ、又僧侶の説を聞かば、法華宗などには加持祈祷の仕来もあるゆゑ仏法に於ても現在の吉凶を重んずるものなりと云ひ、必ず込入たる議論を述るならん。されども是等は皆神仏混合の久しきに由り、僧侶が神官の真似を試み、神官が僧侶の職分を犯さんとせしのみにて、神仏両教の千年来の習慣を見て明なり。今日又喋々の議論を聞くに足らず。》

文庫本p.17

2/5につづく

 

 


人権とは何か? 礼儀か?優しさか?

2018年10月03日 | 言葉は正確に:

人権とは何か? 礼儀か?優しさか?

人権(「人権」、「尊厳」などは欧米語、とりわけ英語からの翻訳語です。元来と違う意味で使っている場合もあるので、確かめる、これも英語学習の一部です。)

とても可哀想だけれど嫌われ者がいたとします。その人にどう対応するか。現代では、これは人権問題ということになるようです。しかし、人権とは何か、ちゃんと考えられているのでしょうか。以前、ある落語家が「人権などは簡単なことです。相手の身になって考えればいいのです」と言っていましたが、なるほど、日本人はこう考えるのかとある種の感慨を覚えたものです。

しかし、西欧で、とりわけ18世紀のフランスやアメリカで意識された人権=human rightsは市民革命の正統性を保証する政治的概念でした。底には、闘争があります。可哀想な、嫌われ者にも優しく振る舞いましょうとい福沢 うだけでは言い尽くせない概念です。権利の概念を定着させようとした福沢諭吉の自伝を見ますと、母親が毎年近所にやってくる極貧のおばあさんを手厚く迎える場面が出てきますが、そういうことは日本にもあった。しかし福沢は人権という概念に異なるものを見ていたようです。

可哀想で嫌われ者に対しどう接するかを子供に教える場合を考えた場合、年齢におうじて、4つの段階を踏む必要があるように思います。しかし、なんとなく、子供から大人になる過程で、刷り込みが行われて「分かった気になっている」のが実情でしょう。4つはつぎのとおりです。

⓵ 優しさ

⓶ 礼儀

③ 尊厳としての権利の尊重

④ 政治権力の行使としての人権

ここで、ピンとくる方にはもうこれ以上書く必要がないと思いますが、そうでない場合、逆に、どこまで通じるか...。

キリスト⓵はキリスト教の概念としてチャリティーに通じます。日本でも宗教が担う役割でした。宗教的でもあるし、とても個人的なものでもあります。しかし、「施し」は人権と違うという感覚はなんとなく理解されているように思います。

⓶ 相手がいかに嫌な人でも、礼儀正しく、相手をたててふるまう。これは⓶にしましたが、案外難しいことで大人にならないと分からないかもしれない。しかも身につけるという性格のものなので、大人でもちゃんとふるまえるかは怪しいものです。相手が敵であろうとなんであろうと、服装、態度が相応なものなら、ふさわしくふるまう。これは伝統的な英国の紳士のふるまいです。ホテルでの対応で今でも生きているようです。どんな貧民でも背広、エドモンド バークネクタイをしていれば尊重されます。しかし、大金持ちでも破れジーンズを来ていた場合、注意を受けることになります。礼儀という観点からすると、見下すような態度をとるのは、人権の問題ではなく「趣味が悪い」と見なされます。さらに言えば、"fair"(美しい)でないのです。18世紀の英国人は大陸の革命騒ぎと人権思想に、こういう観点から苦々しく思っていたのかもしれません。一方、礼儀正しくふるまうことは偽善を呼びこむことがあるかもしれません。それに身につけられる人が限られています。

③ フランスでは、地下鉄での物乞いは、頭を下げるのではなく、演説を一節演じた後、現行の政策の犠牲者への「カンパ」を募ると聞いたことがあります。「馬鹿にされたくない」という感情は人間にとってとても強いものなので、⓵が過ぎると、あるいは「空気が読めないと」、「そんな金は受け取れるか」と言われて、「ちゃぶ台返し」の目に合うかもしれません(地下鉄で…?)。「俺だって人間だ!」という感情ですね。これを正統づけるのがhuman rightsです。

ところで、権利というのは債権を意味するのが基本だと思いますが、債権というからには債務とバランスが取れているはずです。ギリシャで市民が権利をペルシャ戦争獲得できたのは、ペルシャ戦役で乗船員として国家に貸しを作ることができたからです。それ以前は戦うのは馬を持った貴族階級だけでした。近代においても選挙権、被選挙権は納税、兵役とバランスと取ろうとしていました。ところが、キリスト教が導入されてからいかなる債務を負わなくても人間である、ということだけで最低限の権利が保証されるという思想が導入されました。これを尊厳=dignityと呼びます。digne(仏語)は「ふさわしい」という意味。なぜか。それは人間は神の似姿だからです。どのような人間も、モノや動物にはない性質、つまり「神聖さ」が宿っているという考えなのです。もうローマ人にあらずんば人にあらずとは言えなくなりました。キリスト教が地方宗教のユダヤ教から脱して全ローマを越えて広まった理由の一つはこのことでしょう。

④ キリスト教は宗教ですから、この世の法は持ちません。しかし、18世紀になって、世俗の法律にもdignityの概念が導入されたのです。ここに至って、human rightsが実質的な意味を持ちます。つまり国家権力、そしてそれから派生する社会的習慣が、尊厳を保証することになりました。英国風(?)に「趣味が悪い」では収まらない社会の動きがそうさせたのでしょう。ここで「人権」が国家権力の力を借りて拡大する道が開けたのです。そのことは「人道に反する」という場合と比べるとより意味がはっきりします。つまり、「人権」という概念によって国際的なものも含め、裁判への道が開けるのです。ここに至って、姑が「キクコさん、赤ちゃんはまだなの」と嫁をいびり、嫁がそれに耐え、卑屈になるということから解放されたのです。しかし姑のいびりたい気持ち自体は減りません。そのため弊害もあるかもしれません。それについては述べません。




「Why?」の疑問に対する二種類の答え方

2018年10月01日 | 言葉は正確に:

「Why?」の疑問に対する二種類の答え方

蟻NHK AM第一放送の『夏休み子供科学相談室』で、「ありはどうして壁を登るの?。」の「どうして」をアナウンサーが、「なぜ」という意味ですか、「どのようにして」の意味ですか、と、即座に、鋭く問い直している場面について触れました。今回は、「なぜ」にも二つの意味があるという点について。いや、より正確には、「なぜ」という問いかけに対する答えには二種類あるということについて触れます。

「すっきり」するために問うのか

番組のなかで、司会のタレントの人が、先生の答え、説明と言い換えてもいいでしょう、のあと、「~~ちゃん、すっきりした?」と問いかけていましたが、これはいただけない。「なぜ」と問うのは「すっきり」するためでしょうか。これは科学の番組です。問に対する答えは次の問題を解決するためのステップなのです。問を立てることこそ重要なことなので、それに対して答えは出るかもしれないし出ないかもしれません。出たとしてもそこから次の問いを立てられることに意味があります。この番組では、子供たちの問いかけ茗荷こそが貴重です。「茗荷を縦に切ったときと横に切ったときで味が違うのは何故」、「なぜ数字に終わりがないの」、「時計はなぜ右回りになったのですか」、「どうして重さがあるの」、「なぜいい空気と悪い空気があるの」、「毒を持っている動物は毒で死なないの」。先生たちは、これらにうまく答えられる場合もあれば、うまく行かない場合もあります。答え方に関しては、言葉の使い方という観点からすでに少し述べました。今回はこれらのことを疑問思ったということがこの番組の一番の聴きどころだということにこそ注目すべきだと思い記事を書きました。

もやもやを解決するためのWHY

たしかに人はもやもやを解決するために「なぜ」と訊く場合があります。しかし、説明を聞いて「すっきり」した場合、それで解決したのか。うまくだまされたのではないのか、と疑ってみることができます。心の不安はなくなるでしょうが、じっさいの問題は解決するのかと問う余地があります。しかなぜし、すっきりしたくて訊いた人にはそうした動機が乏しいです。「神のお告げだ」という説明を聴いて恐れ入った人は最初から神のお告げを聴きたかったのでしょう。問題を解決するために訊いたのではないです。そう、「すっきり」するために訊くのは、ずっとたどっていくと宗教へ行きつきます。なかにはたちの悪い宗教まがいのものもあるので注意しなければなりません。答えの出ないのを承知で叫びが質問の形をとる場合もあります。キリストの最期の言葉、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや、はその究極的な表現です。

もう一つのWHY

科学における「なぜ」はそれの対極にあるというべきです。その答えは次の質問につながるのです。茗荷以外の野菜で試したらどうでしょう。味が変わるものと変わらないものに分かれる場合もあるかもしれません。そうしたら、なぜその違いが生まれたかと問うことができます。このように「現実」の問題を一歩ずつ解決していくがもう一つの「なぜ」に対する説明です。

好奇心ちょっと残念なのは、年齢が上に上がるにつれ、質問が本質的でなくなる傾向があるのです。なぜか小学校3年生が一番質問してくるようです。6年ともなると塾の勉強で忙しくなるのかもしれません。今日の新聞によると、ノーベル賞をとった本庶さんは、研究の原動力は何かと訊かれたとき、「何かを知りたいという好奇心だと即答したそうです。その上で大切なことは6つのC、「好奇心」、「勇気」、「挑戦」、「確信」、「集中」、「継続」だそうです。6つのCとは何かの答えは下にあります。最初に挙げたのが「好奇心」。これを大人になっても持ち続けることができたら、職業的な科学者でなくても人は幸せものです。


「好奇心」curiosity、「勇気」courage、「挑戦」challenge、「確信」conviction、「集中」concentration、「継続」continuity