外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

その翻訳語、外来語は正しいか。エビデンスとadversary

2021年03月24日 | 言葉について:英語から国語へ

その翻訳語、外来語は正しいか。エビデンスとadversary

3月21日の産経に、翻訳語に関する記事が二つありました。一つは国際関係、もう一つは医療関連の記事です。抽象的、あるいは主観的性格の強い概念に関しては福沢諭吉たち以来、日本人は苦しみ続けてきた、と言いたいところですが、いつのまにやら、膨大な翻訳語があたりまえのように使われ、分かった気になっている、というのが実情ではないでしょうか。『翻訳語成立事情』(柳父章 岩波新書)のような労作もありますが、これからの評論、大学の教養課程ではもっと徹底するべき課題であるように思います。

国際関係の記事はadversaryとenemyの違いについて。双方とも「敵」と訳すことが多いですが、「簡潔に言えばadversaryは負かしたい相手であり、enemyは滅ぼすべき相手を指す。」と述べています。そうでしょう。辞書というものの不完全さを暗示する点で、こうした指摘は示唆に富むものですが、日英のニュアンスの違いと筆者は言っているものの、ニュアンスというより「論理」の違いと言った方がよいのではないでしょうか。「adversaryは妥協点を探って共存は可能だし歓迎されるが、enemyとの譲歩は屈服でしかなく宥和政策の負のイメージが付きまとう。」と筆者は適切に述べているのですから。教養課程の「英語学習」の課題と言える所以です。

エビデンス = evidenceに関しては、「一般的な方は<エビデンス=絶対的信頼性>ととらえがちですが、エビデンスは日々生まれ蓄積されていくもので、研究の計画や解析方法など、条件の違いにより、相反するエビデンスが生まれることがある」と言い、エビデンスには6つのランクがあると話を進めながら、「エビデンスは大切ですが、絶対視は危険です」と述べていますが、この外来語はこれだけあいまいなのですからそもそも使わない方がよいのではないかと思ってしまいます。少なくともこの外来語への疑問が必要だと思いますが、「実務家」の常として、基本的語彙は疑わず、説明(いいわけ)つきで使い続けるものです(「一般の方」は知らないでしょう、という含みで)。

日本語には、事実、それに証拠という言葉があるのですからそれとの整合性はどこかで検討してもらいたいものです。そのうえで、さらに、言語技術教育の基本概念である、事実と意見、伝聞の違い、十分条件と必要条件をも考慮する必要があるでしょう。

この薬が飲んでみたら効いたというだけでエビデンスと言えるのでしょうかね。いつ?、何回?、誰と誰に効いた?ということが分からなくてもエビデンスと言えば<十分条件>を満たしているような気分でこの単語が使われていないでしょうか。ちなみに今度エビデンスという単語を見つけたら「証拠」に置き換えてみてください。たちまち、「いつ?、何回?、誰と誰に効いた?」という疑問が頭に浮かぶはずです。

外来語の問題は福沢諭吉以来、未解決です。