外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉の愉快な英語修行 10/10

2019年07月01日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 10/10

★『文明論の概略の冒頭部分』の分解(『福沢諭吉の見事な論理とレトリック』)は、「言葉について。英語から国語へ」のセクション。以下を参照。5章あります。:

https://blog.goo.ne.jp/quest21/e/15c12cfd61558c7d21d2e15b97e6bf89

諭吉の愉快な英語修行 その1へ

前回(福沢諭吉9)

長い間をおいて、諭吉さんの英語修行、最終回に至りました。この間(かん)、言うことが無くなったからだと思う方もおられるでしょうが、実情はさにあらず、福沢テーマはあまりに広がりすぎて言い切れなくなったからです。いろいろな側面についてはこれから別のコラムで扱うことにして、今回、幕末期の一青年の外国語体験を振り返ることで、私たちの外国語学習についても考えたいと思います。

■伝わってこそ

大阪の緒方洪庵の適塾にいたころ、「バターのような」という比喩をオランダ語の「ボートル」を使う代わりに「味噌のような」と訳すことをためらわなかったことについて触れました。緒方は「蘭学者は概して、「正確に」ということばかりに捉われて、原文を対照しなければ意味が分からないような和訳を行っている始末だ」ということを言いましたが、ここに、緒方から福沢に至る系譜を見ることができるでしょう。外国語を学ぶことが言語というコミュニケーションの手段の学習だということを忘れて内輪のあらさがしになってしまっているのは、江戸時代だからでしょうか。今の大学での語学教育もこの弊なしとはしません。「誤訳がない」ことは大切ですが、「誤訳がなければいい」という十分条件のように思っているようだと、私だけでなく、友人の語学教師もため息をついています。諭吉は原稿が書きあがると印刷する前に、家の子供、婦人らを集め朗読して分かったかどうか確かめたと言っています。「分かってなんぼ」という語学教育の礎をその後も日本人は身につけたかどうか、考えさせられます。

■目的のない学習

大阪の適塾では、塾生は目的を持たずに学習に励んだことがよかったと述べています。「目的を持たず」と言っても、言語が伝達を目的とするということを忘れるという意味ではありません。江戸で蘭学を学べば、幕府に取り立てられるなど出世の機会があるのですが、大阪ではそのような見込みは考えられない。ただただ、塾生どうしが毎度の会読で己の力を競い合い、当時の学問の最先端に触れることに得意の面持ちだったようです。今言う、「どや顔」ですね。その「ストレス」をとんでもない悪戯で発散していたのもおかしいですが、その結果、ファラデーの電気理論など共同で訳しながら概略を知るに至ったのはめでたいことです。今日、英語学習は試験目的から抜け出すことができたでしょうか。大学受験の英語については今年などとやかく言う議論がありますが、だからと言って、英検、TOEICをにすればよいという程度の議論を越えたものではなさそうです。若い人間は、外見的な「目的」がなくても、本質を目指して情熱を燃やすことができます。むしろ試験、出世、金が絡むと情けないとも思います。語学に限らず若い日の学業の柱はこの「無目的性」にあるのではないでしょうか。語られることが少ないこととです。こんなことを言うとそれは一部のエリートにのみ言えることに過ぎないという反論があらかじめ用意されたように戻ってきます...。福翁自伝を読んでつくづく考えました。

■言葉の外へ

語学の学習はその言語の向こうにある知識への渇望なしに成り立つでしょうか。電車のなかで、赤い下敷きを使って英単語を一生懸命覚えている高校生を見ながら思うことです。果たして彼らが外国語で書かれたものをむさぼるように読むことがいつか来るのだろうか。ま、若い人のことですからこれからのことは分かりませんが、諭吉の、理解しようとする情熱は、当時の人としても、比類のない、という境地に達していたのではないでしょうか。諭吉だけではなく、福地桜痴など、オランダ語と英語を解する数人の人間が幕府によってアメリカと欧州に派遣されましたが、『西洋事情』をはじめとする多くの著作を続けざまに書き上げ、出版できたのは諭吉だけでした。それらは大変なベストセラーズになり諭吉に巨額の富をもたらしました。本人は全集の緒言で『西洋事情』などは浅薄なものだと書いていますが、売れに売れた理由の根幹には新知識への渇望を著者と読者が共有できたからにちがいありません。アメリカで郵便制度か為替制度について分からないので、向こうの人を引き留め1時間も2時間も訊いた挙句腑に落ちたそうですが、そのとき、「前に来た日本人は半日も訊いて、結局分からないで帰って行ったが、あなたは理解が早い」、と言われ赤面したと述べています。知りたいという強い意志が、向こうの人のふとした一言をきっかけに顔を赤くさせたのでしょう。外国人と見れば背伸びしたり、逆に卑屈になったして、知識欲が委縮するというような感情に捉われていないことが分かります。

■その後の福沢さん

万延元年(1860年)の咸臨丸渡米のあと、幕府に雇われ、文久二年(1862)に一年かけて欧州旅行、慶応3年(1867)、つまり明治元年の前年に米国ワシントンまで旅行、どちらも公務でしたが、その成果が先に挙げた『西洋事情』をはじめとした著作に結実します。英語力も読む方は、たいへんとは言えませんが、かなり上達して、慶應義塾を通じて日本の英語教育の普及に寄与します。福沢のあと、伊藤博文や津田梅子など、福沢を越えた英語力を持つ人が現われますが、急速に英語が専門家のものになっていきます。一方、試験中心の学校英語も広がりだし、漱石のころにはその弊害もすでに表れているようです。漢文の世界から飛び出し、オランダ語、そして英語という、西洋の言葉に素人として取り組む新鮮さが次第に薄れていったのではないでしょうか。そんなことを考えながら『福翁自伝』を紐解くと、外国語学習の持つ元来の新鮮さを思い出させてくれます。

ついでながら、しばらく前にアップロウドした諭吉の英文手紙をリンクしておきますので、ぜひ見てみてください。前回、指摘しなかった、「間違い」は以下の二点。たしかめてください。

⓵ baggage(荷物)が可算名詞として扱われている点。bagは可算名詞ですが、baggage / luggageは不可算名詞。

⓶ 現在完了形が、過去の一時点を明示してある文で使われていること。どうも、オランダ語では現在完了形がyesterdayのような過去を明示した表現といっしょに使えるようです。

ろくな辞書もなかったと思われるインドの港に停泊中の船中で、英語学習開始後3年でここまで来たのだなあと、歴史上の人物ながら共感のごときものを感じます。


 


福沢諭吉の愉快な英語修行 9 サンフランシスコからの三つの土産の巻

2019年02月06日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 9 サンフランシスコからの三つの土産の巻

 前回

咸臨丸サンフアンシスコ諭吉、数えで25歳。横浜で1859年の夏以降、英語学習に目覚め、1860年(万延元年)1月から5月までサンフランシスコ旅行がかないました。木村提督の家来として忙しかったからか、他の乗組員のように乗船日誌を残していません。しかし、晩年の『福翁自伝』や、木村提督の後日談、同じく木村の家来の長尾幸作の航海記録からその一片は伺えます。

往路は難航海のため、ほとんどの日本人乗組員が倒れてたのですが、諭吉は平気だった数人の日本人の一人でした。「航海中私は身体(からだ)が丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「これは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入って毎日毎夜大地震にあって居ると思えばいいじゃないかと笑ってる位くらいな事」だったそうです。サンフランシスコでは忙しい木村提督に代わって提督のために相応のお土産を買ってきてくれたと木村は感謝しています。長尾によると、諭吉がサメのてんぷらを作っているとき油に火がついて大騒ぎだったとか。諭吉は武士とはいえ貧乏な下級武士なので、炊事洗濯をはじめこまごまとした細工なども幼少のころから得意だったそうですが、失敗も多かったようです。

サンフランシスコでは町を挙げての大歓迎。連日のようなパーティーに諭吉も御相伴にあずかります。日本からの渡来に町はその将来を夢見ていたのでしょう。その流れは今に続きます。

タバコを一服と思った所で、煙草盆がない、灰吹がないから、そのとき私はストーヴの火でちょいとつけた。マッチも出て居たろうけれどもマッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸付けた所が、どうも灰吹がないので吸殻を棄てる所がない。それから懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を吹出して、念を入れて揉んで揉んで火の気のないようにねじつけてたもとに入れて、暫くして又あとの一服をやろうとするその時に、袂からけぶりが出て居る。何ぞ図からん、よく消したと思たその吸殻の火が紙に移って煙が出て来たとはおおいに胆を潰した。

このような笑い話はたくさん『福翁自伝』に出てきます。

咸臨丸 シスコでの生活それからあちらの貴女紳士が打寄りダンシングとかいって踊りをして見せるというのは毎度の事で、さて行って見た処が少しも分わからず、妙な風をして男女(なんにょ)が座敷中を飛廻るその様子は、どうにもこうにもただ可笑しくてたまらない、けれども笑っては悪いと思うからなるたけ我慢して笑わないようにして見ていたが、これも初めの中は随分苦労であった。

日本人が来たということを口実に、ゴールドラッシュのあと余裕のできた市民たちが自分たちで楽しんでいる様子が伺えます。まだ引用したいところも数々あるのですがぜひ『福翁自伝』を読んでみてください。ここでは、単に福翁自伝の記述がたんにおもしろ話に終わっていない点を指摘しておきましょう。それは、単に事実の記述ではなくその解釈をしているということです。それも後代の思想的な枠にはめるやり方ではなく、常識に基づく推論です。じつはこれが『福翁自伝』を他の書とちがうものにしています。

まず、大歓迎の心理的推察。

アメリカ人の身になって見れば、アメリカ人が日本に来て始めて国を開いたとうその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たと云うわけであるから、ちょうど自分の学校から出た生徒が実業について自分と同じ事をすると同様、おれがその端緒を開いたと云わぬばかりの心持ちであったに違いない。

その歓迎ぶりは実利の予測からだけでなく、兄貴分としての大盤振る舞いだと推察しています。一方日本人の心理状態は。

すべてこんな事ばかりで、私は生れてから嫁入をしたことはないが、花嫁が勝手の分らぬ家に住込んで、見ず知らずの人に取巻かれてチヤフヤ云われて、笑う者もあれば雑談を云う者もあるその中で、お嫁さんばかりひとり静かにしてお行儀をつくろい、人に笑われぬようにしようとしてかえってマゴツイて顔を赤くするその苦しさはこんなものであろうと、およそ推察が出来ました。日本を出るまでは天下独歩、眼中人なし怖い者なしと威張って居た磊落(らいらく)書生も、始めてアメリカに来て花嫁のように小さくなってしまったのは、自分でも可笑しかった。

窮理図解じつは、科学技術についてはそれほど驚きません。オランダ語をとおして少なくとも理屈だけは分かっていたことばかりです(適塾の巻参照)。諭吉が注意を留めた点、あるいは感慨を持って晩年振り返るのは、目に見えない社会構造と経済です。幕府が望んだ、操船、造船のようなことについては同行の上級士官、小野友五郎などがしっかりと学習していますが、この旅で、社会、経済の構造に目を向け考える端緒を見出したのは諭吉の特異な点ではないでしょうか。

男女の社会関係については。

その医者の家に行った所が、田舎相応の流行家と見えて、中々の御馳走が出る中に、いかにも不審な事には、お内儀さんが出て来て座敷に坐り込んでしきりに客の取持ちをすると、御亭主が周旋奔走して居る。これは可笑しい。丸で日本とアベコベな事をして居る。

アメリカが共和国ということの実感も理屈ではなく現地で経験して初めて分かるものです。じつは、諭吉は、馬に車付きの箱が付いているのが馬車だということが、一見しただけでは分かりませんでした。理解ということは頭だけではできないというよい例でしょう。さて、共和国。

私がふと胸に浮かんである人に聞いて見たのはほかでない、今ワシントンの子孫はどうなって居るかと尋ねた所が、その人の云うに、ワシントンの子孫には女があるはずだ、今どうして居るか知らないが、何でも誰かの内室になって居るようすだといかにも冷淡な答で、何とも思って居らぬ。これは不思議だ。もちろん私もアメリカは共和国、大統領は四年交代と云うことは百も承知のことながら、ワシントンの子孫と云えば大変な者に違いないと思うたのは、こっちの脳中には源頼朝、徳川家康と云うような考えがあって、ソレから割出りだして聞た所が、今の通りの答に驚いて、是れは不思議と思うたことは今でもよく覚えて居る。

そして経済。しっかりとごみの観察も怠りません。

ただ驚いたのは、掃溜めに行って見ても浜辺に行て見ても、鉄の多いには驚いた。申さば石油の箱見たような物とか、色々な缶詰の空がらなどがたくさん棄すてゝある。これは不思議だ。江戸に火事があると焼跡に釘拾いがウヤウヤ出て居る。所でアメリカに行て見ると、鉄は丸でごみ同様に棄てゝあるので、どうも不思議だと思うたことがある。

たんに珍しがるのではなく、人が目を目を付けないところにも隠された真理が潜んでいると考えるのは諭吉流。後の優れた著作活動に一直線につながります。その思考方法は『窮理図解』という諭吉流物理学入門書(1871『福沢諭吉の「科学のススメ」』桜井邦明著 祥伝社刊に収録)などをご覧になるとよく分かります。

ウエブスターさて、英語ですが、表題の3つの一つ目はウエブスターの辞書の購入。

その時に私と通弁(つうべん)の中浜万次郎と云う人と両人がウエブストルの字引を一冊ずつ買って来た。これが日本にウエブストルと云う字引の輸入の第一番、それを買てモウほかには何も残ることなく、首尾克よく出帆して来た。

当時、日本人の些細な行動も新聞ねたになったいたので、この購買行動も記録に残っています。万次郎が流暢な英語を話せたという記事でした。ところで、「第一番」と諭吉は言っていますが、ワシントンに向かった本使節の一行も数冊ウエブスターを買ったそうです。 

二つ目は、『華英通語』という支那語の英単語集を購入したこと。これにカタカナの発音と和訳をつけて帰朝後、出版しました。これが諭吉の最初の出版物です。後半には簡単な会話英文集もあります。諭吉がどんな訳をつけたか少し見てみましょう。

Is breakfast ready?

イズ、ブレッキフハースト、レヂ   ハとトはッ同様小さい字。

「アサメシハデケタカ。」

Will you ake tiffin with us to day?

ウ井ル、ユー、テーキ、チョッフヌ、ウ井ヅ、ヲス、ツー、デー  井は小さな字

「アナタハ コンニチ ワタシドモト チヤヲ ヲアガリナサレヌカ。」

Thank you, sir, with much  pleasure.

センキ ユー シャル ウ井ジ モッチュ プレジャール。

「アリガタフゾンジマス。」

英語のカタカナ表記では昔も今もムリがあります。このカタカナを参考に話しても皆目通じないでしょう。それにしても、古風な日本語が今見ると可笑しいですね。諭吉自身の英語力もまだまだのようで、帰国後、塾ではオランダ語を排して英語を専らにしますが、苦労しているようすです。

所がマダなかなか英書がむずかしくて自由自在に読めない。読めないからたよる所は英蘭対訳の字書のみ。教授とはいながら、実は教うるがごとく学ぶがごとく、共に勉強して居る中に、私は幕府の外国方に雇われた。

ペリー以降、外交文書は、英語、オランダ語、日本語併記が基本だったので、それらの文献に日々接するうちに少なくとも英語を読む力はついたに違いありません。それが、さっそく1862年、幕府に雇われ、赴いた1年間の欧州旅行につながります。(ちなみに、ようやく生活も安定し結婚することになりました。諭吉、数えで28歳。)

話を咸臨丸に戻します。往路は沈むのではないかという難航海、37日の航海のあとサンフランシスコでは3人の水夫が病死するという始末でしたが、復路は南より、ハワイにもたちより、日本人士官の操船技術も上達し楽な航海でした。今回の巻、3つめの土産は少々長いですが、『福翁自伝』をそのまま写しておきましょう。

諭吉 少女それからハワイで石炭を積込んで出帆した。その時にちょいした事だが奇談がある。私はかねて申す通り一体の性質が花柳に戯れるなどゝ云うことはかりそめにも身に犯した事のないのみならず、口でもそんないかがわしい話をした事もない。ソレゆえ同行の人は妙な男だと云うくらいには思うて居たろう。それからハワイを出帆したその日に、船中の人に写真を出して見せた。これはどうだ。その写真と云うのはこの通りの写真だろう。ソコでこの少女が芸者か女郎か娘かはもちろんその時に見さかいのあるわけはない――お前達はサンフランシスコに長く逗留して居たが、婦人と親しく相並んで写真を撮るなぞと云うことは出末なかったろう、サアどうだ、朝夕口でばかりくだらない事を云って居るが、実行しなければ話にならないじゃないかと、大いに冷やかしてやった。これは写真屋の娘で、歳は十五とか云た。その写真屋には前にも行ったことがあるが、ちょうど雨の降る日だ、その時私独りで行た所が娘が居たから、お前さん一緒に取ろうではないかと云うと、アメリカの娘だから何とも思いはしない、取りましょうと云うて一緒に取ったのである。この写真を見せた所が、船中の若い士官達は大に驚いたけれども、くやしくも出来なかろう、と云うのはサンフランシスコでこの事を云出だすとぐに真似をする者があるから黙って隠しておいて、いよいよハワイを雛れてもうアメリカにもどこにも縁のないと云う時に見せてやって、一時の戯れに人を冷かしたことがある。

続く(福沢諭吉10へ)

 

 

 

 

 


福沢諭吉の愉快な英語修行 8 咸臨丸船上、諭吉の誤認の巻

2019年01月01日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行  8 咸臨丸船上、諭吉の誤認の巻

前回

江戸 英会話開港直後の横浜で英語が通じないことを痛感した諭吉は、簡単な蘭英会話集と辞書で、英語をオランダ語に訳して意味が通るかどうかを確かめるという方法で英語入門をします。音声言語ではむつかしいですが、未知の言語の書き言葉に入門する際、この方法は有効です。トロイの遺跡を発見したとして知られるシュリーマンの場合は、ドイツ訳があるフランス語の短い小説を比較して読み、ついで現代ギリシャ語シュリーマン訳を読むという段取りをとりました。とても頭を使いますが、法則性を見つけながらこうして未知の言語の文法を身につけるのです。なにより大切なのは読むものが面白く、意味の深いものであることです。単に語学のための語学で動機を維持するのはむつかしい。文字の向こうにある作者に近づこうという意思がないと面白くありません。私の場合、昔のことですが、トマス・マンの『ベニスに死す』で仏語からドイツ語に移る手立てとしました。

さて、早くても1859年の半ば以降、横浜で最初に開店した商店、キニッフルで会話書を買ってから、つてを頼って、長くても6か月ほどで、咸臨丸での米国行きが叶います。木村提督の家来という資格です。遣米使節の本隊は米艦、ポーハッタン号で向かうので、咸臨丸は護衛という名目があるとはいえ、日本人でも太平洋横断ができるということを示し、かつ米国の航海、造船技術を知るための派遣だったようです。冒険と言ってもいい航海のため、二の足を踏む家来もいたらしく、そんなこんなで米国行きが叶ったと諭吉は書いています。

咸臨丸往路、英語の学習に精を出したかというと、そういうことは自伝に書いてありません。なにしろ嵐につぐ嵐、はしけを2艘波にさらわれ(福沢の記述による)、船腹が37~38度傾くというありさま。45度を超えると沈むそうです。37日の航海のうち30日以上は荒天でした。しかし、本人はいたって意気高く下のごとし。

航海中私はからだが丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「これは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋にはいって毎日毎夜大地震にあって居ると思えばいいじゃないかと笑って居るくらいな事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるの念が骨に徹して居たものと見えて、ちょいとも怖いと思ったことがない。

咸臨丸首脳若いころというのはこんなもので、あとで考えるとぞっとすることもあります。問題は、違うところにありました。諭吉は以下のように述べています。

しかしこの航海については大いに日本のために誇ることがある、と云うのはそもそも日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎においてオランダ人から伝習したのがそもそも事の始まりで、その業(ぎょう)成って外国に船を乗出そうと云うことを決したのは安政六年の冬、すなわち目に蒸気船を見てから足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、それで万延元年の正月に出帆しようと云う咸臨丸 福沢その時、少しも他人の手をからずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆と云い、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。

ところが実際はどうか。実は咸臨丸には、難破して帰国を待っていた米国人、キャピテン・ブルックという人とその部下が「便乗」していたのです。当初日本人士官は「日本人だけでやるんだ」と力んでいましたが、木村提督、幕府の意向で同乗するすることになりました。諭吉は晩年の自伝では5名ほどと言っていますが、じっさいは11人。この辺から諭吉の当時の判断が怪しくなります。(註1)

ブルックは詳細な航海日誌を残しましたが、自分の死後50年は開封を禁じていました。ブルックは1906年に逝去。その後50年の間に何が起きたかはここに記すまでもありません。1960年以降公開された日誌を少し引用しましょう。このブログ、英語学習を目的としています...。(註2)

以下、『福翁自伝』以外はキャプテン・ブルックの航海日誌と、諭吉同様、木村の家来、長尾幸作の『鴻目魁耳』を主要史料とした『咸臨丸海を渡る』(1992 未来社)に基づきます。著者、土居良三は長尾のひ孫。

ブルック5日目 2月14日(陽暦)

I can not put sail on the vessel as the Japanese are not competent to manage it.  The offifers are very ignorant indeed, have had probably no experience in heavy weather. All the orders are given in Dutch. I think it absoslutely necessary that the Japanese should have a marine language of their own.

The helsmen do not know how to steer by he wind. Weather braces & bowline they don't attend to. The weather is exessively disagreeable. No chance of an observation.

 私は帆を船に張ることができない。日本人の対処能力がないからである。加えて、士官たちは、まったく無知である。おそらく、悪天候の経験が全然ないのだろう。命令は、すべてオランダ語で下される。私は、日本人が、彼ら自身の航海用語を持つべきだと強く思う。

舵手は風を見て舵をとることが出来ない。操桁索や、はらみ索に全く気を配らない。あまりに不愉快な天気だ。天測の機会なし。

かくのごとく、5日目にブルックは事態の深刻さを悟ったようです。今から見れば諭吉の認識はとんでもない誤認です。なぜ諭吉は気が付かなかったのか。あるいは敢えて知っていて述べなかったのか。96人の乗組員のなかで、木村提督の世話にかかりっきり、米国人乗組員の人数の間違いからも情報ギャップは推察できます。英語力も米国の水夫に親しく話しかけることができるほどでなかったのでしょう。ところで、ただ一人だけ、ブルックが信頼を寄せる日本人がいました。

ジョン万次郎Old Manjiro was up nearly all night. He enjoys the life, it reminds him of old times. I was amused last night, heard him telling a story to old Smith, which he followed with a song.

わが万次郎は、ほとんど一晩中起きていた。彼はこの生活を楽しんでいる。昔を想い出しているのだ。昨晩、私は、万次郎が年取った方のスミスに物語りをしているのを聞いて面白かった。スミス(万次郎?)はそれに歌で答えた。

福沢は航海中の万次郎の役割にも気がつかなかったようです。ジョン・万次郎は米国で航海士になる教育を受け、21歳で副船長になり、3年以上、捕鯨船で世界を回っていた人です。気が付かなった理由は、万次郎の実務家はだの人柄、日本における元漂流民の地位の危うさからくる慎重な態度に加え、「言葉の人」、つまり漢学者であった諭吉から見ると、英語の発音を訊くインストラクターに過ぎなかったからかもしれません。

航海を困難にしたのは、三点です。上記の荒天、日本人乗組員の無能に加え、もう一つめは人間関係です。

6日目 2月15日

Manjiro tells me that the Japanese sailors threatened to hang him at the yard arm last night when he insisted upon their going aloft. I told him [that] in case of any atempt to put that threat into execution to call upon me, (and) that in case of mutiny upon the part of the Japanese sailors if the Capt. would give authority I would hang them immediately.

万次郎が言うには、昨夜、日本人の水夫らにマストに上ってくれるようにと言ったとき、「お前を帆桁に吊すぞ」と脅されたそうだ。「彼らが、もし、その脅しを実行に移そうとしたら、私にまかせなさい、日本人側に反乱があれば、勝艦長が私に権限を与えてくれ次第、すぐ吊してやるつもりだ」と万次郎に言っておいた。

いわゆる「おもしろくない」という心理が閉鎖空間に蔓延したようです。一方、ハワイで給水せずサンフランシスコに直行を決めたため、水の節約が必須課題になってから後、米国の水夫が水を使いすぎることがあり、これについては諭吉が(直接か?)ブルックに言います。

甲比丹(カピテン)ブルックに、どうも水夫が水を使うて困ると云ったら甲比丹の云うには、水を使うたらすぐに鉄砲で撃殺してくれ、これは共同の敵じゃから説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云う。

艦内、なんとか秩序を保ちえたのは艦長の勝海舟がいたからではなく、ブルックのリーダーシップがあったからだということがこの二つのエピソードから読み取れます。勝は、諭吉によれば、船酔いで自室に閉じこもったままだったそうですが、他の史料などから見ると、出帆前のごたごたでへとへとになり、重い伝染病で倒れたというのがほんとうのように思えます。また、ブルックは万次郎から、木村への不満でふてくされていたためだ、と聞いています。

さて、事態は好転しません。艦内の無秩序とだらだらした態度は米国海軍にはありえないとブルックは慨嘆します。

7日目 2月16日

There does not appear to be any such thing as order or discipline onboard. In fact the habits of the Japanese do not admit of such discipline and order as we have on our men of war. The Japanese silors must have their little charcoal fire below, their hot tea and pipes of tobacco.

船上、秩序とか規律と云うようなものは見当たらない。のみならず、我が兵士に対する規律と秩序は、日本人の習慣に入りこむ余地がないのだ。日本人の水夫は船室で火鉢を囲み、熱いお茶を飲み、キセルをふかしているに違いない。

士官がオランダ語を使うので、水夫は自分の仕事の意味を理解しないのもボイコットの原因だとブルックは考えます。

ブルックは万次郎に尋ねます。

11日目 2月20日 

I asked him (=Manjiro) what the Commo would do if I took my men off watch and refused to work the vessel. "(He'll) let her go  to the bottom" he replied. He said [that] for his part he had some regard for life.

もし私が部下を当直から外し、操船を拒否したら木村提督はどうするだろうと万次郎に尋ねたら、「船を海の藻屑にしてしまうでしょう」、と答えた。まだ死ぬのは惜しいとも言った。

7日目 2月16日

Manjiro is the only Japanese onboard who has any idea of what reforms the Japanese Navy requires.

万次郎は、この船の中で、日本海軍がどのような改革を必要としているかについての考えを持っている唯一人の日本人である。

I shall endeavor to improve the Japanese navy and will aid Manjiro in his efforts.

私は日本海軍の改革に努める。そして万次郎の仕事を助けよう。

ついにブルックは強硬手段にでます。

勝海舟23日目 3月3日

The wind being ahead I proposed to show the officers how to track ship. They were too lazy to come on deck, made various excuses etc. I therfore called all my men and sent them below with orders to do do nothing without my consent. I then informed the Cap. that I should not continue to take care of the vessel unless his officers would assist. He gave them a lecture [and] put them under my orders, and I sent my watch on deck.

向い風になった時、私は士官たちに針路変更の技術を教えようと申し出た。彼らは、非常に物ぐさで、あれこれと言い訳をしてデッキに出て来ない。そこで私は、米国人部下全員を集め、私の承諾なしには何もするなと言い渡し、彼らを船室に入らせた。そして、勝艦長に、士官たちが協力しないかぎり、私はこれ以上この船の面倒をみない方がよいと伝えた。勝艦長は士官たちに訓辞して、士官たちに私の指図に従うよう命じたので、私も当直をデッキに送った。

この経緯についてはもちろん諭吉はまったく知らずにいた気配です(または知らないふりをしていた)。万次郎のシーマンシップとブルックのリーダーシップが咸臨丸を沈没から免れさせたといってもよいでしょう。この間、ブルックは日本人船員を教育したのでした。帰路は往路より日にちがかかったものの、ブルックなし、主に日本人の力で(+米国人の水夫5名)太平洋を横断できました。直後、南北戦争が始まり、ブルックは南軍に身を投じ大砲の開発などに携わりましたが、戦後は大学で教鞭をとりました。1868年に諭吉が再び渡米した際、ブルックは再び日本人の船員教育に意欲を示したという話も伝わっています。

今回は、諭吉の英語学習から少し離れて、異文化間の組織論に話が及びました。

咸臨丸航路ところで、咸臨丸は3月17日(陽暦)にサンフランシスコに到着。37日間の旅でした。堀江青年のヨット、マーメイド号による太平洋単独無寄港横断(1962)は3か月でしたから、ずいぶん速いです。

註2:ブルックが航海日誌を死後50年間は公開しないように遺言した理由としては、外交上の理由と万次郎の立場への考慮の二つが推測できる。50年という長期を考えると前者の外交上の理由が常識的に考えられる。ブルックはサンフランシスコ到着後のインタビューでも、日本人の技量を高く評価している。一方では政府への報告書では援助した旨も記している。サンフランシスコ到着後、勝が全員を集めて緘口令を敷いたということも想像できるだろう。

註1:諭吉が分かっていながら真相を述べていない、という見方は、いつもの「からくち」の諭吉の言動を考えると諭吉らしくないようだが、終生、大恩を忘れなかった木村提督の名誉を慮ったことも考えられる。一方、他の乗組員については、『咸臨丸、大海を行く』(橋本進:海文堂 2010)に、以下のような記述がある。

これらの航海日記のうち、日本人士官の書いた日記類は体面を重んずる武士らしく、ブルック大尉の『咸臨丸日記』にあるような船内のトラブルなどについては一切触れていない。ましてや、ブルックらの献身的な努力についてはほとんど記録していない。ところが、木村奉行の従者であった長尾幸作や斎藤留藏は日記のなかで、ブルックらのことや咸臨丸乗組員のことを率直に書き遺している。
 文倉平次郎は『幕末軍艦咸臨丸』(昭和13年刊行)のなかで、長尾幸作の『鴻目魁耳』から「衆人皆死色、唯亜人之輩、言笑する」を引用し、この航海がいかに難航海であったかを紹介するにとどめている。(------)

続く

 

 

 

 

 

 

 

 


福沢諭吉の愉快な英語修行 7 五里霧中、英語に夢中の巻

2018年12月24日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

 

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福沢諭吉の愉快な英語修行  7 五里霧中、英語に夢中の巻

横浜開港地図1859年半ば以降のことですが、開港したての横浜でオランダ語が通じないことにショックを受け、改めて世が英語になったことを認識します。さて、英語学習を始めたいのですが、まったく方途が分からない。長崎から来た森山という通詞のところへ行っても安請け合いはするものの、忙しいからと言って毎回、鉄砲洲から小石川への人寂しい道のりを行ったり来たりしてもいっこうに教えてくれない。難しい手続きを済ませて、裃を着て幕府の蛮書調所という役所に行っても辞書を貸し出すことは相ならぬという始末。同じ英語を志す人を求めて、適塾の同窓生を誘っても、前回触れた村田蔵六などは「イヤ読まぬ、僕は(英語は)一切読まぬ」というような次第。神田孝平、原田敬作という蘭学者からようやくポジティヴな反応を得ます。ちなみに、原田は数年後村田が暗殺される直前に村田と大阪で鍋料理を共にしています。当時の蘭学社会はかくも小さく、お互いどこかでつながっていたようです。

英蘭辞書なんとか高価な蘭英辞書を中津藩の奥平に買ってもらって、さきに横浜で購入した「蘭英会話書」を頼りに自学自習がはじまります。諭吉の文にあたってみましょう。

(-----) サアもうこれでよろしい、この字引さえあればもう先生はいらないと、自力研究の念を固くして、ただその字引と首引(くびっぴき)で、毎日毎夜ひとり勉強、又あるいは英文の書を蘭語に飜訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました。(-----)

(-----) 始めはまず英文を蘭文に飜訳することを試み、一字々々字を引いてソレを蘭文に書直せば、ちゃんと蘭文になって文章の意味を取ることに苦労はない。 (-----)

よく、「英語学習は○○に学べ」として過去の有名人の英語学習「法」を取り上げる場合があって福沢の場合も挙げられることがありますが、このようなゼロからの学習を真似することは意味がありません。「○○に学べ」というのは何かの権威付けと新味欲しさのために、考えもなく言っている場合が多いのでご注意。

ただ、この「ゼロ」ということはいろいろなことを考えさせてくれます。現代ではあらゆる種類の教科書、参考書、番組がそろっているので、それに頼っていると何のために外国語を習得するのかを忘れてしまう、ということに気が付かせてくれます。現代では、英語学習が試験のためにだったり、ま、一番多いのは周りがやっているからというのが多いでしょう。しかし、ちょっと考えれば分かることですが、外国語学習は私たちと異なる言語を使っている人を理解するため、理解させるためです。向こうの人の考えを知るという動機なくして語学だけを切り離すのはもともと無理なことなのです。『福翁自伝』中、英語学習開始の直前には次のような記述があります。

(------) その時に主人(島村鼎甫、緒方門下の医者)は生理書の飜訳最中、その原書を持出して云うには、この文の一節がどうしても分らないと云う。それから私がこれを見た所が、なるほど解(げ)にくい所だ。よって主人に向って、れはほかの朋友にも相談して見たかとえば、イヤもう親友誰々四、五人にも相談をして見たがどうしてもらぬと云うから、面白い、ソレじゃ僕がこれして見せようと云って、本当に見ろうそくた所が中々むずかしい。およそ半時間ばかりも無言で考えた所で、チャント分った。一体れはう云う意味であるがどうだ、物事は分って見ると造作(ぞうさ)のないものだと云て、主客共に喜びました。何でもその一節は光線と視力との関係を論じ、ろうそくを二本けてその灯光(あかり)をどうかすると影法師がどうとかなると云う随分むかしい処で、島村の飜訳した生理発蒙と云う訳書中にあるはずです。

ここで言われている「難しい」というのは、語学上の問題でしょうか、内容上の問題でしょうか。その区別はつきません。たしかなのは、原文を書いた人間がある意図で書いたということです。その意図に近づくために学問的知識、普遍的論理、常識が必要、それに加えてオランダ語の知識が加わります。肝心なのは書いた人に迫ろうという意思がなければ、オランダ語も分からないということ。同じ人間が考えたのだからオランダ語の文法もこうなるはずだという見込みがあってはじめてオランダ語学習がなりたつのです。オランダ語だけを切り離してオランダ語ができるということは少し無理があります。諭吉が解読できたのは、せまい意味でのオランダ語ができたからではないでしょう。

このように考えてくると、純粋に英語能力だけを切り離して英語という科目を大学作成の入試科目からはずすということへの疑問がわいてきます。大学で何を読み、何を英語で伝えるかという目的がなくては「どういう面」を英語の試験で問うのか迷うはずです。じっさい、現行の大学入試の英語でも、で慶応き不できは、せまい意味での英語力ではなく、内容の理解力…、よく国語力と言われる能力ですね、これにかかっているのは、ある程度難しい大学入試を経験した人ならみな知っていることです。この間の報道では慶應義塾大学では、英語の入試のアウトソーシングはしないことに決めたとか。福沢さん以来の熟慮の伝統がそうさせたのか。興味のあるところです。

諭吉のゼロからの英語学習は、いつの世でも変わらない外国語学習の基本を考えさせてくれるという意味で、「福沢に学べ」ということもなりたつのかもしれませんね。

ところで、福沢が一番難渋したのが、英語の発音。

長崎から来て居た小供があって、その小供が英語を知って居ると云うので、そんな小供を呼んで来て発音を習うたり、又あるいは漂流人でおりふし帰るものがある、長くあっちへ漂流して居た者が、開国になって船の便があるものだから、折節帰る者があるから、そんな漂流人が着くとその宿屋に訪ねて行って聞いたこともある。その時に英学で一番むずかしいと云うのは発音で、私共は何もその意味を学ぼうと云うのではない、ただスペルリングを学ぶのであるから、小供でもよければ漂流人でも構わぬ、そう云う者を捜しまわっては学んで居ました。

ここではたんに漂流民となっていますが、時事新報史:第8回:政党機関紙の盛衰と福地桜痴(戸倉武之)によると、その一人はジョン・万次郎のことだそうです。漢学者、蘭学者である福沢諭吉にとって、日本語もろくに書けない漂流漁民である万次郎のことは目に入らない存在だったのかもしれません。しかし、数か月後、諭吉の命は万次郎にかかっていたかもしれない。終生諭吉はそれに気が付かなかったようです。次回は、万延元年、1860年、1月、諭吉の出世の鍵となる渡米について。咸臨丸です。

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福沢諭吉の愉快な英語修行 6 英語ことはじめの巻

2018年12月09日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 6 英語ことはじめの巻

前回

安政5年(西暦1855年)満21歳で適塾に入門してから諭吉の生活はあわただしく移り変わっていきます。それは、1853年にペリーが米国から来日してから急に日本中があわただしくなったのと並行に進みます。

福沢記念館1856年には、兄、三之助をリューマチで亡くし、いったんは緒方の塾での学業を諦めなければならないという事態に追い込まれますが、親戚、近所の反対にも拘らず母のとりなしで、再度大阪に戻ることがかないます。福翁自伝によると、諭吉の懇願に対し母はこう答えたそうです。

「ウムよろしい。「アナタさえそう云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前もまたよそに出て死ぬかも知れぬが、死生(しにいき)の事は一切言うことなし。どこへでも出て行きなさい」。

この母も並みの人ではなかった。『福翁自伝』に、何か所かで触れていますのでお読みください。一人の偉人が生まれるのは、偶然ではなく、この母だけでなく、亡き父の遺訓、兄、漢学塾の白石先生、緒方洪庵、こうした人たちによって育てられてきたことがわかります。

諭吉はめきめきとオランダ語の実力をつけてきますが、忘れてならないのは、13歳から5年間、みっちり漢学を学んだことが無関係ではないことです(それ以前は勉強というほどのことはしていなかったようですヨ)。孟子、孔子などの経書をはじめ、史記などの歴史書も繰り返し読みました。つまり西洋におけるフィロロジー(philology)の素養が出来ていたのです。フィロロジーという概念はいまだ日本語には定着していませんが、何語であれ古代の人の書いたものを解読することを意味し、西洋の人文学問の柱です。シナの文書であれ、オランダ語、英語であれ、人が書いたものであれば何か共通するものがあるはすだという見込みで、書いた人の精神に近づく知的営みです。諭吉にとって古代中国語であれ、オランダ語であれ、理解の骨組みは同じだったに違いありません。こうして1857年にはすでに塾頭になります。(フィロロジーは文献学と訳すこともあります。)

1858年、24歳、江戸の中津藩屋敷で蘭学を教えるよう藩命を受けます。ペリー来航から5年、九州の片田舎の藩にも「砲学」ブームが押し寄せて来た結果、漸く諭吉のような蘭学者にも日が差してきました。幕府もあわててお台場を建設した時代です。築地、中津藩の中屋敷で諭吉は蘭学塾を開くととになったのです。これが今に続く慶應義塾の最初の年とされます。

1859年、7月以降になりますが、開国したばかりの横浜に出かけます。大河ドラマなどでも扱われた場面を福沢自身に語らせましょう。

註:今回の挿絵の3つの錦絵のうち一番下のものが1859年頃の様子に一番近いそうです。

横浜居留地その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居るだけで、堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人がそこに住んで店を出して居る。そこへ行て見た所がちょいとも言葉が通じない。こっちの云うことも分わからなければ、あっちの云うことももちろん分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分らぬ。何を見ても私の知って居る文字(もんじ)と云うものはない。英語だか仏語だか一向計(わか)らない。居留地をブラ/\歩くうちにドイツ人でキニツフルと云う商人の店にぶちあたった。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。こっちの言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、ちょいと買物をしたりして江戸に帰って来た。御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、ちょうど一昼夜歩いて居たわけだ。

註:キニツフル商会はこの年陽暦で7月15日、他の外国商社に先駆けて開業。通常クニフラーと表記され、商会名をイリスと変えて2018年にても盛業中。

横浜から帰って、私は足の疲れではない、実に落胆してしまった。これは/\どうも仕方がない、今まで数年(すねん)の間、死物狂いになってオランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、さりとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。

ペリーが来て5年も経っているのですから少々脚色気味に語っているのではないかと思う方もおられるでしょうが、オランダ語に死にもの狂いになっていた日々を送っていたわけですから、気持ちがそれについていけなかったということを伝えたいのでしょう。このことは特殊語学をやった身になれば分からないでもありません。ところが諭吉の変身の速さにも注目すべきものがあります。

邂逅横浜2けれども決して落胆して居られる場合でない。あすこに行われて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居ると云うことはかねて知って居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかゝって居る、さすればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければとても何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むよりほかに仕方がないと、横浜から帰た翌日だ、ひとたびは落胆したが同時に又あらたに志を発して、それから以来は一切万事英語と覚悟をきめて、さてその英語を学ぶと云うことについてどうしていいか取付端(とりつきは)がない。

この部分を読むと英語を始めるのは至極当然のようにみえますが。当時かならずしもそうではなかったようです。英語を学習しようと呼びかけても、自分はオランダ語でいくという朋友も多かったそうです。長州出身の村田蔵六、のちの大村益次郎(靖国神社の入り口に銅像がそびえたっています)など、「イヤ読まぬ。僕は一切(英語は)読まぬ」と威張るほどでした。ここでは、習慣というものの力がいかに大きいかということが分かります。私たちの日常生活でも、りくつではわかっていてもどうしてもやめられない、ということが多いです。甘いもの、たばこぐらいならいいのですが、自動車の検査の規則に反していることは分かっていても、長年の慣行を変えられないとしたら恐ろしいことです。

横浜開港3さきほど、「福沢の変身の速さ」ということを云いましたが、正確には、福沢の場合、気持ちと理解の両方を矛盾しながらも並行して持てた、という方がよいでしょう。うすうす気が付いていたからこそ、横浜ショックをきっかけにすぐに行動に移せたのではないかと思います。矛盾する二つの面があると、ふつう人間は、都合のいい時、都合のいい面を選んで見て、他方を忘れる傾向があります。現代の防衛論論議などその典型と言えるでしょう。ところが、福沢には、両面の対立、矛盾自体が、考えと行動を先に進める力になっていると言える場合がしばしばみられます。漢学の素養と腐儒への反発、文明開化論者の面と洋学者への非難。有名な「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」という一節も、封建的な言葉で封建制度を批判しているおかしみ、があります。

さて、英語発心は1859年半ば過ぎのことながら、まことに運のよいことに、翌年早々、1860年、万延元年、1月なんと米国へ行くチャンスに恵まれます。その時までの半年に満たない期間の英語修行は、死にもの狂い...といえるかどうか、むしろ暗中模索と言った方がよいでしょう。あらゆる教材と制度がそろった現代と正反対の状況ですが、言語習得に今と違いはありません。逆に整った制度の裏に見えなくなったなにかを垣間見させてくれるかもしれません。

続く(福沢諭吉7へ)