外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

政治家の言葉 大阪市長の発言を巡り --- 綸言汗の如し

2015年05月08日 | 言葉は正確に:

政治家の言葉 大阪市長の発言を巡り --- 綸言汗の如し

オバマオバマ大統領が、最近、「アメリカは世界の警察官」でない、という旨の発言をしたことは世界中に知られています。たぶん、「アメリカは、民主主義面をしていながら、えらそうにしていて、まるで警察官だ」と否定的に言われることに対する反発を、国力の低下に対する言い訳に取り混ぜて発言したものだと思われます。発言に2つの意味を持たせる点など、いつもながら巧妙な発言だと思いますが、どうも、その発言がどう受け止められるか、という点に関する想像力が欠けているように思います。明日何が起きるか分からないということに対するリアリズムが欠けている、いわゆる米国リベラルのイデオロギーが根底にあるのかもしれません。

その結果、何が生じたか...。国際社会では、自然科学のような実験はできませんが、歴史の教えるところによると、支配の意志が消極的と受け止められたとたんに、悪意を持った勢力の台頭が始まります。なめられる、わけです。今回も、実際そうなったように思われるのです。

グロチウス欧米では、300年間における欧州の平和の構築の歴史があるので、お互い自己抑制が働くようになっていますが、そんな先入観で、欧米諸国以外の国際関係を見るととんでもないことになりかねません。オバマ大統領や、「リベラル」の人たちは、20世紀初頭の不戦条約や、国際連合の設立以降、本気で、「戦争は不法行為」であると、世界中の人が信じていると思っているのでしょうか。なんとなくそう思っているような気配を感じます。

じっさい、ウクライナや、南支那海で、「国際法」をみんなが守るだろうと思っている楽観的な人々が予想しなかった事態が生じています。繰り返します、国際関係では、自然科学のような実験はできません。しかし、このような力任せの領土拡大が、歴史が教えることに従えば、不思議なことではない、と、言うことはできるでしょう。このような事態が、「世界の警察官ではない」という米国大統領の一言から引き起こされたと言ったら言いすぎでしょうか。

かくのごとく政治家の発言は、口からでたとたんに、とどまることを知らず、元へ戻れない結果を招来します。東アジアのことわざで、皇帝の言葉は汗のようなものだ、と述べられているのはこのことを指します。

綸言汗如先日、大阪市で住民投票(レファレンダム)が僅差で否決されましたが、その直後の大阪市長の会見で少し気になる言葉使いがありました。

「民意は、市と府の統合を否定した、ということになるのでしょうね。」

という言い回しだったと思います。

「---、ということになるのでしょうね。」とは、何を意味するのでしょうか。まず、不承不承。

つぎに、あっさり負けを認めた、ということ。ということは、日本で間接民主制の文化が慣習として定着しているのだなということ。日本以外のアジアや中東の国では、こうは行かないでしょう。

三つ目には、とはいえ、市長は間接民主制を十分理解していないのではないか、という疑いです。公職に或る人は、自分の党派に忠実である以前に、国家を支える制度に対しても積極的に忠誠を誓う存在です。自己の政治的見解を実現しくれるのもこの制度だからです。

もしこの制度がなかったらどうなるでしょう。それは「血で血を洗う闘争」です。そんな、とか、まさかという声が聞こえてきそうです。それは日本ではその制度が第二の自然のように守られてきたからです。しかし、時系列ではなく、ちょっと外の世界を見渡してみれば、それほど自然なことではないことが分かります。隣国では、辞めて、権力の座を降りた大統領はほとんどの場合、平和な余生を送れません。それは平和な政権交代ができるほど文明が定着していないからでしょう。選挙結果が僅差だと、暴動になることも世界ではまれなことではありません。いや、我が国でもそんなにいばれるものではありません。経済的僥倖と米国が我が国を必要としたという理由で、たまたま、「文明的」政治が行われたからでしょう。

橋下さんは、僅差でも負けは負けと認め座を降りることを、誇りを持って受け入れるべきです。「私は、私の政治的意見に拘わらず、制度を守るために敗北jを受け入れるのだ。」と。