外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

「エンジョイ イングリッシュ」に対する疑問

2017年01月28日 | 英語学習、教授法 新...

「エンジョイ イングリッシュ」に対する疑問

前回、次回は「他者の意識の薄さ」が、日本人が語学ベタである基本的原因であることに触れる予定であると書きましたが、それは次回に回し、それと同じように基本的で、重要なことを先にします。同じように抽象的ではありますが、少し外国語学習をしたことがある方のなかには、同じように感じる方がおられるかもしれません。

プレキソ A Z「レッツ エンジョイ イングリッシュ」とは英語教材の帯などによくみかける文字です。だれも、とくに意味がある表現だとは思わず、また、とくに変な表現だとも感じずに見過ごしているでしょう。この表現はおかしいということを指摘したのは、NHKの小学生向け英語番組『プレキソ』の最初の監修者である小泉清裕さんという方でした。

言語は、何であれ言語の外側にあるものを理解し、伝えるためにあるものだから、言語で何かを理解し、伝え、嬉しかったり、悲しかったりすることはあっても、言葉自体を愉しむ、ということは変ではないかとういう趣旨でした。

小泉さん編集の<旧>プレキソは、この考えに貫かれており、毎回テーマは、一見、語学の学習のテーマとはかけ離れているものが選ばれます。例えば色。たんに赤はred、青はblueというところに留まらず。アメリカのブルージーンズの工場で、「青」がどのように生まれるか、日本の伝統的な工房で「藍」色はどプレキソ ポストう染められるかを追っていきます。その過程で、たんに青=blueというだけで終わらない、言葉の裏に潜んでいるさまざまなことに興味を向けるのがねらいです。そのため、初心者レベルの英語以上の表現も学習者は耳にすることになりますが、対象に興味を持つことで、今は分からない英語も分かるようにしたいという気持ちが生まれることを監修者は期待しているのでしょう。必要最小限の英語表現だけで構成されるふつうの初級講座とこの点が違います。もしかして、1年だけで<旧>プレキソが終わってしまったのは、「分かり易い英語だけにしてほしい」という視聴者の声に負けてしまったのだったとしたら残念なことです。

語学学習が、言語の外側にあるもの、それは科学でも美的なものでも、政治でも、なんでもいいのですが、それらに導かれていないと、だんだんおかしなことになってしまいます。ただひたすら「語学のための語学」を勉強していると、無TOEIC up意識にそのむなしさが分かってきますから、「人よりTOEICなどの点数を上げよう」という競争心(程度問題です)の方が勝ってしまって、950点をとったとたんに、英語の勉強をしなくなってしまう、ということにもなりかねません。「英会話」というのも盲点です。相手に伝える、相手を理解するという言語の目的を忘れて、「英会話を楽しむ」、つまり「エンジョイ・イングリッシュ」が目的になってしまっている風景はよく見られます。外人講師もそのへんの事情は分かっていますから、おかしな馴れ合いのような空気が流れがちです。馴れ合い、つまり、お互い判った気になるのは、言語学習の趣旨とは逆の方向を向いた態度です。

そうならないようにするために、語学の先生や教材、カリキュラムの作成者が、<旧>プレキソ監修者のように、つねに、学習者の関心を「外」に向けるようにしくんでおくべきです。少なくとも、点数競争や、「英会話」をしていることの自己満足に陥らないように気をつけておかなければなりません。客観的な点数評価は社会が必要とするものなので、そのことだけに注意がいってしまいがちです。が、それだけに、点数に学習者が捉われないような工夫を講じるのは、緊喫の課題ではないとしても、いつまでの放置しておいてよい問題ではないと思います。

エンジョイ イングリッシュさて、習う側はどうすればよいか。登山中の人が、自分の位置や進むべき方向が分からないように、習っている人は、なかなか方法が分からないものです。何度も試行錯誤を重ねるしかないのかもしれません。「愉しみながら力がつけばいいではないか」くらいにしか考えていない人もいるでしょう。しかし、そのうちに詐欺まがいの教材販売にひっかかってたくさんお金を使ってしまう例はたくさん見てきました(できないのは習う側の問題だ、と言えばいいので、詐欺罪にはならないのですね)。そこで、教える側のアドヴァイスがやはり必要だと思います。近日中にアップロウドするコラム、『40年前の英語学習』でその問題に再び触れましょう。

 



英語教育は国語教育に基づくべし

2017年01月09日 | 英語学習、教授法 新...

英語教育は国語教育に基づくべし

(2018年10月 小見出しをつけました)

英語教育は国語教育に基づくべし、とは私の語学教育論の根幹をなす考えなので、これからも、形を変え、対象を変え、さまざまに論じたいと思います。ここでは、これからもしばしば戻ってくる基本的な考えを祖述しておきたいと思います。

英語 高校

英語の先生は国語を破壊する...

以前、私の英語スクールに高校の英語の先生に成り立ての方が「教え方」を学びに通ってこられていました。その先生の言われることには、「学校では、国語の先生と英語の先生は概して仲が悪い」そうです。国語の先生は、英語の先生について、「生徒の日本語を破壊している」と言うとか。なるほど、「英文和訳」の時間に、関係詞(relatives)が出てくると、「~ところの」を使って「訳し上がる」というようなことを模範訳として聞かされていると、生徒の頭には相当なストレスが蓄積されるはずです。「~ところの」が耳について、作者が何を言おうとしてるかには、意識しないうちに関心を薄れさせると思います。「その知らせが彼女を悲しくさせた」というのも、日本語でしょうかね、との疑いから免れません。だいいち、「彼」とか「彼女」というのは何でしょう。英語を訳す時以外は、ちょっと変わった意味でしか使わないでしょう。そう聞いて、「あ、そうか」と、ここで気がつく人もいるかと思います。それほどまでに、英語の時間の日本語というものが独特なものになってしまっているのです。国語の先生の指摘はおおいに当たっています。

国語 教室

英語も国語も言語

しかし、考えてみれば、いや、考えなくても、国語も英語も言語であるという点で共通しています。教科として、英語と数学の距離と、英語と国語の距離を比べてみれば、英語と国語の距離の方がずっと近い。化学と物理の距離のように近いところにあるのです。化学の先生と物理の先生はたぶんそんなに仲が悪くはないです。先生が足りない時は、ときどき交代して教えることもあるでしょう。国語と英語の関係ではありえないことです。

たしかに、ありえないことではあります。その理由はあたりまえなので、述べませんが、ときどき、同じ「言語」を教えているのに、仲が悪いとういのは問題だな、という考えが脳裏をかすめることはないでしょうか。

日本語から英語に「移る」

英語を学習するという行為はどいういうことか。それは言い換えると、「日本語から英語に移る」ということです。だとしたら、英語を教える場合、日本語、つまり国語についての理解を伴うのが当然です。しかし、母国語であるという気安さで、英語の先生は日本語に対するセンスが乏しくなっている、とういことはないでしょうか。教える際、英語の概念、構造を、日本語との関連を考えつつ教えるとういことが少ないのではないか。

英語 日本語 母音そうですね。いろいろな分野で例示することでできますが、母音だけで、日本語は5つ、英語では13(16)あるという違い。単数と複数の峻別が英語では基本であること、英語の疑問文では、日本語には見られない語順の移動があること、いつくかの面で語順が英語と日本語では逆になること、動詞の形が時と現実性の有無で変わること、などなど。

このように、一般的に、外国語学習において重点を置くべきは、母国語に対応する表現がないところですが、教える側、あるいは教科書やカリキュラムを組む側が、それを十分理解し、「理論化」して教える必要があります。それは、直接、生徒に「英語の複数形には語尾にSをつけます」と言うことでなく、適切な間隔をおいて、くり返し、しかもしだいに、複雑で、間違いやすい文脈で扱うように「仕組む」ということです。「日本語にない点」は、くり返し間違え続けます。

このような「理論化」を行うためには、英語の教師は、「英語に堪能である」ということだけではなく、日本語と英語の双方の相違点、そして、同じ点について、かなり意識的である必要があります。「日本語から英語に移る」というのはこういうことを指します。慧眼な読者は、native speakerのインストラクターだけでは不十分というのは、こういう点だなとお気づきになったことでしょう。

通じない

言語は伝えるため

さて、さきほど、「英語も国語も同じく言語だ」と述べましたが、どういう意味で同じと言えるのでしょう。言語は、他者の言うことを理解するため、他者に自分の言いたいことを伝えるために、用いられるということです(言語の本質については別の議論もありますが)。それは国語でも英語でも同じことです。

そのため、習う側に理解したい、伝えたいという意欲がないかぎり、英語学習も国語学習も、とてもうすっぺらなものになります。そこで、理解する、伝えることの切実さを体得する、ある段階に導くことが、英語でも国語でも、重要な課題となります。しかし、そこまで考えて英語教育が行われているかというと、まだまだ不十分ではないでしょうか。英語や、国語の教科書を最初に目にした時、これが、他者を理解するため、他者に伝えるためのガイドだと思う人はまずいないでしょう。試験を突破する関門だと考える程度です。

しかし、うっすらとでも、他者との意思疎通が言語学習の意味だという直観をある段階で感じ取っていたとしたら、大学入試に合格したり、TOEICで900点を取って、学習をストップさせたとき、何かおかしいという意識に苛まれる場合は案外多いのではないかと思います。じつは、私どもの英語スクールにお出でになる方にはそういう意識をお持ちの方が多いです。

(さて、ここで、原稿がインタネット接続が悪く消えてしまいました。結論を急ぎます)

理解する、してもらう嬉しさ

他者を理解すること、他者に理解させること、これが、英語、国語を通じて語学の勉強の柱です。それは並大抵のことではありません。しかし、「分かった」、「通じた」という嬉しさを経験する段階(あとで間違っていたということが分かったにしても)は、英語学習においても国語の学習においても決定的に重要です。その段階に導くという点において、英語の先生と国語の先生の違いはまったくありません。ここで、英語の先生と国語の先生は、志を同じくすることができるのではないでしょうか。

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藤原 桜井以上、後半、インタネット接続が悪く不十分な記述になってしまいましたが、それはおいておいて、説明がかなり抽象的になりました。ある程度、私と同じような経験をしていない方には分かりにくいと承知しております。徐々に具体的に論じたいと思います。体系性を持たせて、英語教育方法論を提案する方向に向かうつもりです。

次回、「他者の意識が乏しい」ということが、語学学習の最大障害ではないかという仮説につじて述べます。未定

● 一番下の写真は、櫻井よしこさんと、小学校英語教育反対諭の論客、御茶ノ水大学教授、藤原正彦さん。

 



 

 


危機的に重要な教育評論:石井昌浩さんの「アクティブ・ラーニング」論

2017年01月07日 | 英語学習、教授法 新...

危機的に重要な教育評論:石井昌浩さんの「アクティブ・ラーニング」論

産経新聞の『解答乱麻』欄に、10月26日、1月4日(水)と連続して、石井昌浩さんによる、学校教育界で今話題の「アクティブ・ラーニング」論が掲載されています。そして、今日、1月7日(土)には、同じく産経新聞の3ページ目に、「子供のうちにプレゼン磨け、ユニーク塾が大人気: 対話型授業で活発議論、発言力伸ばす」という、篠原那美記者の記事が掲載されていました。

2016. 10.26

アクティブ・ラーニングって? 「新学力観」の騒ぎと二重写し 教育評論家・石井昌浩

http://www.sankei.com/life/news/161026/lif1610260013-n1.html

- 017.1.4 13:30

身近な「差し迫った難問」に対処すべきでは 新しい学習指導要領の課題 教育評論家・石井昌浩

http://www.sankei.com/smp/life/news/170104/lif1701040008-s2.html

- 2017.1.7 13:22

子供のうちにプレゼン磨け ユニーク塾が大人気 対話型授業で活発議論、発言力伸ばす

http://www.sankei.com/life/news/170107/lif1701070028-n3.html

 

石井昌浩石井さんの評論は、「アクティヴ・ラーニング」に懐疑的、いや、もっと危険なものを嗅ぎ取った警告的な評論である一方、1月7日の篠原記者の記事は、「アクティブ・ラーニング」に対し肯定的ニュアンスの記事、少なくとも懐疑的な記述は一切ないものでした。

1月4日の評論を読んだ段階で、石井さんのこの評論は決定的な重要性を持つな、と思い、近いうちにこのブログでも扱うつもりでした。しかし、今日、1月7日の記事を読んで、緊急性はより高いと思い、まだ十分考えが練られていないのですが、このブログで触れることにしました。

石井さんの言葉を借りて、「アクティブ・ラーニング」の説明といたします。

(-----) ところで、「アクティブ・ラーニング」とは、「課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び」と定義されている。改訂される学習指導要領の目標の概要は次の通りである。(1)一方通行の知識伝授ではなく、討論や体験学習を通して「主体的・対話的で深い学び」を実現する。(2)教師が「何を教えるか」ではなく、子供の側に視点を移し「何を学ぶか」を示す。(3)それにより「何ができるようになるか」を問い、さらに「どのように学ぶか」を明らかにする。

石井さんは、この「アクティブ・ラーニング」に対し、二重の疑いを提示します。一つは、このような新機軸というものが、過去からの教育の積み重ねを軽視するとう点です。

アクティブ・ラーニングは、能動的な学習、課題解決型学習として、これまでも実践されている。ことさら外国語に言い換えて、従来行われてきた授業を意図的に「受動的な学習」と印象づけるようなやり方を、私は疑問に思う。

石井さんのこの認識は、現場での過去の体験から得られたものです。

 平成30年度以降の学習指導要領改訂で、アクティブ・ラーニングが導入される流れに乗った動きだと思うが、私には二十数年前に嵐のように吹き荒れた「新学力観」の騒ぎと二重写しになってしまう。二十数年前に感じた同調圧力のような空気が広がりそうなのが気になる。

アクティブ ラーニング合理的な改革案ではなく、ムードに流された思いつきでないかという疑いです。「同調圧力のような空気」という現場で受けた感じは、主観的なものとはいえ、貴重な問いかけになります。じっさい、この新学力観なるものは、「3、4年たった頃には色あせてしまい話題に上ることもなかった。」と石井さんは述べます。

もう一つの指摘は、「アクティブ・ラーニング」は、じっさいの教育での差し迫った問題からかけ離れた空論である点であるだけでなく、現実に起きていることに目を向けない態度は、危険であるということです。

 そもそも長時間過密労働にクタクタになり、自己研鑽(けんさん)どころか授業研究や授業準備に充てる時間すら確保できず、教師自身が「深い学び」ができていないのに、どうして子供に対してのみ「深い学び」の指導ができるのだろうか。それは、ないものねだりの注文というものではないだろうか。

1月4日の評論は、下の言葉で結ばれています。

子供たちの主体的学びは、教師の事前の周到な準備に裏打ちされて初めて成立するものだ。理念先行気味の「アクティブ・ラーニング」という流行言葉に浮足立ってはならない。

1月7日の記事の以下の記述は石井さんはどう読むか…。

「子供の発言力を伸ばす試みは、学校教育でも取り入れられている。現行の学習指導要領には「言語活動の充実」が盛り込まれており、国語を中心に討論などの機会も増えた。平成32年度から実施される次期学習指導要領では、さらにアクティブ・ラーニングが導入され、子供同士の話し合いの機会が増える。」

私が、冒頭で「決定的な重要性を持つ」と述べたのは、石井さんの評論をきっかけに、議論が正面からぶつかる、ということです。今後、石井さんの評論を無視して勝手なことは言えないとさえ言ってもよいでしょう。例えば、「保守派の人が相変わらず同じことを言っている」という位の論評で、石井さんの評論を無視しようとしても、それはできません。自己の経験と、戦後教育界における「何度も受け入れる傾向」に対する洞察にもとづく石井さんの意見に反論するには、それだけの論理が必要です。近いうちに、新聞紙上などで「アクティブ・ラーニング」推進派の人の反論を期待します。

戦前の女学校もう一つ、そもそも、国家、教育委員会レベルの方針と、学校、教室レベル、そして、個々の生徒を教えることは、質が違うということを述べておきたいと思います。じっさいは、この3段階だけではなく、もっと細分化されるかもしれませんが、人間の認識の限界ああるので、3段階に限った方がよいでしょう。これは、教育に限らず、大組織であることを本質とするあらゆる現代的組織に言えることです。トップができることは、方向付けと、規則作り。学校、教室レベルでは、具体的は方策。そして、けっきょく、生徒との人間対人間のかかわりが教育の本質です。トップが、自分の指示を、教室や、個々の教育活動と混同したり、あるいは、自己の願望を投影したりしても無駄であるだけでなく、有害であることが多いです。「アクティブ・ラーニング」推進派の人は、十分トップの自覚があって発言したのか、これから厳しい問いかけが行われなければなりません。


 



中学英語がマスターできない「構造的」理由

2017年01月07日 | 英語学習、教授法 新...

中学英語がマスターできない「構造的」理由

apple 1このようなタイトルをつけると、怪しげな英会話教材の宣伝文句に聞えます。なぜか。多くの人が中学英語とされるものを習得しきれていない、という思っているという事実につけこんで、「救いの手」を差し伸べようとしているように聞えるからです。

このような商法は、「コンプレックス商法」とでも言うべきでしょうか。「紅茶茸を食べたらガンがミルミル消えた」など、昔から枚挙はいとまががありません。しかし、火のないところには、の譬えどおり、「中学英語がマスターされていない」ということはある程度、根拠があると思います。


科目によって、①先へ行くほど難しくなるものと、②最初の段階が一番習得しづらく、あとになるほど容易にになるものがあります。後で習得することは以前の習得事項を前提するので、ほとんどの科目は①であることは、「直感的」に理解できます。とりわけ、抽象に抽象を重ねる数学はその典型です。掛け算が足し算の抽象化であることなど、忘れている人が多いですが、それを忘れると思わぬ障害に出くわします(2×3は、2+2+2を抽象化したものです)。その先のことはもう言わなくてもよいでしょう。

apple 2ところが、世の中には、「最初の段階が一番習得しづらく、あとになるほど容易になるもの」があるのです。これが語学です。「英語では複数名詞の語尾にsをつける」ということは、中学1年で習うことになっています。しかし、語学において、この規則を習得するということは、2×3=6ということを知るのとは全く意味が違います。話す時、書くとき、無意識にその規則にしたがって表現ができるということ、また、聴いたり、読んだりするときに、その規則に反することがあったら、とっさにおかしいと気づくことができる、ということです。


中学1年の段階で、そこまでしっかりとこの規則を身につけることはできません。しかし、毎学期、毎年、そして、進学ごとに試験を受けて合格点が取れれば、なんとなく、マスターした気になってしまうものです。2×3=6と同じように理解した気になるものです。ところが、社会にでて、英語を話したり、書いたりする段階で、間違えまくる、またハタと筆が止まってしまう経験をして、「ああ、中学1年の英語をマスターしていないのだ!」と「気がつく」わけです。

掛け算 括弧なぜ、マスターしてから先へ進むという段取りを取れないか。それは、時間が足りなくなるからです。ほんとうであれば、毎年週6時間英語を学習する代わりに、たとえば、1年は9時間、2年は6時間、3年は3時間とした方が、語学の習得にはずっと効率的です。聞いた話では、東大でロシア語を専攻する学生にはそのような時間配分をするとか。某予備校が開設した中学、高校一貫校では、そのような時間割を組んでいると聞いたこともあります。しかし、多くの学科を並行して学ぶ中等教育では、このようなカリキュラムを組むことは基本的に不可能です。

中学という段階は、社会が必要とするあらゆる学科が、基礎を教え込もうと、せめぎあう場でもあります。英語がそんな自由な時間割をとれるなら、我々の学科も考慮して欲しいという声が生まれることでしょう。私は英語のことは分かりますが、他の学科の構造についてはそれほど詳しくはありません。議論となったら、勝てる自信はありません。

お分かりでしょうか。語学学習には不適切な方法を前提としているので、それほど英語が好きでない子たちのモティヴェイションを下げる効果を、中学教育が内在していると考えることができるのです。それだけに、中学の英語の先生の苦労が思いやられます。そして、「コンプレックス商法」が栄える素地を用意しているのです。



アカデミズム、健在なり。木村汎さんの「受賞の言葉」から

2017年01月03日 | 先人の教えから

アカデミズム、健在なり。木村汎さんの「受賞の言葉」から

木村汎

木村さんは去る2019年11月14日にお亡くなりになりました。Rest In Peace

去る12月に、ロシア政治研究家の木村汎さんが産経新聞の『正論大賞』を受賞されて、「喜びの言葉」を産経新聞に寄せられていました。受賞の言葉というと、「過分のお褒めの言葉をいただいて」とか、「身が引き締まる思いで」などの決まりきった表現を連ねるのがふつうですが、木村さんの受賞の言葉には、そのような常套句は一切ありません。かといって、専門分野のロシア政治に関することもまったく述べられていません。そこには、専門分野を横断する学問の基本的技量、つまり、言葉を探求する人の述懐があったのです。

以下のサイトからはまもなく削除されてしまうので、要所、要所をコメント付でご紹介します。

http://www.sankei.com/column/news/161201/clm1612010006-n1.html

 “正論”同人になるまでの私は、専ら一部の研究者相手に学術論文を書いていた。ところが、「産経新聞」の読者向けとなると、基本は変わらないとはいえ、その表現法に若干の工夫を凝らす必要があることを悟った。

学者、とりわけ「文系」に区分される学者は、世間では言葉のプロと見なされているのでしょうが、思いのほか、言葉への関心は薄いものです。なぜなら、同じ専門の人たちの間で、内輪の言葉を使っていればよいからです。「基本は変わらないとはいえ」という小さい部分に注目したいです。木村さんはたぶん専門家どうしの論文でも、言葉への関心は篤いのでしょう。ところが、新聞紙上に書くとなると、書き方が異なるという点を強烈に意識します。

活字が氾濫する中で己の文章に注目し、且(か)つ最後まで読み通していただくのは、至難の業である。例えばタイトル、そして小見出しの付け方が大きく作用する。「最近のロシアを巡る国際情勢」といった漠然かつ悠長な題の付け方では、多忙な現代人は洟(はな)もひっかけてくれない。

新聞に書くことの難しさと楽しさは、こんなふうに語られます。

司馬遼太郎文章の書き出しも、同様に重要。私は、司馬遼太郎氏の所謂(いわゆる)「自転車漕ぎ操法」を念頭におくことにした。書き出しは短く、だが滑らかに始める。次は、やや長い文章へと加速してゆく。もとより、いったん食いついた読者を途中で手放すのは、愚の骨頂。こう教えた米国のミリオンセラー作家スティーブン・キング、故ヒチコック監督による、次から次への「巻き込み手法」も参考になる。

自らに制限を課すという課題を楽しげに追求します。

 現在、“正論”コラムは2千字という厳しい字数制限を敷いている。この字数では、学術論文とは異なり、先行研究や己の仮説を嫋嫋(じょうじょう)と説明する余裕などあるはずはない。

ここで、ハタと気がつきます。自己の自由にならない客体と格闘するというのは、学問そのものではないかと。専門に深入りすると、ややもすると「嫋嫋」たつ耽溺に気がつかないこともあります。木村さんは学問に対する基本的姿勢がしっかりしている人だな、と、言葉について述べているこの小論で分かりました。

上の引用に続いて、日々の心構えに触れます。

ヒッチコックそうすれば、忽(たちま)ち読者諸賢兄姉から「結局、お前は何が言いたいのだ?」とのお叱りを頂戴すること必定。そのために、専門論文ですら漫然と書きはじめる怠惰な私が、“正論”用には手許(てもと)のメモ用紙に3つばかりの要点を記してから原稿用紙に向かう習慣をいつしか身につけることになった。

拓殖大学の前学長の渡辺利夫さんは、お祝いの言葉で、「『青年の生気』立ちのぼる碩学の文章」と、木村さんの文章を評しています。私は新聞紙上での木村さんの評論しか読んだことがありませんが、「青年の」という言葉に頷きます。たんに「気持ちが若い」という意味ではなく、言葉を正確に相手に伝えるという姿勢があるということです。権威に持たれて、分からない方が悪いという姿勢で、どこにでも書いてあるようなことを言う老大家とういものが多いものです。

言葉に対する厳しい態度は、どうも日本の大学ではだいぶ薄れているように思います。かつての旧帝大などから引き継がれたと思われる、この姿勢も、大学紛争の時代を経て、それを維持するだけの精神の余裕がなくなったからでしょうか。木下是雄さんの『理科系の作文技術』、『リポートの組み立て方』の二著は、この伝統が消えかかったころに、なんとか食い止めようという気持ちで書かれたものだと思います。大学側の書店では4月にはこの二つの書が平積みされます。が、じっさいこれらの書を読んで真髄を理解する人が多いかとういと、懐疑的にならざるを得ません。

そんなことを考えているときに、木村さんの文を読み、なるほど、日本も捨てたものではないなと思いました。言葉に対する厳しい態度、これは、アカデミズムと呼ぶべきでしょう。その言葉の元来の意味で。