外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

西尾幹ニさんの新評論『言語を磨く文学部を重視せよ』で思うこと

2015年09月08日 | 言葉は正確に:

西尾幹ニさんの新評論『言語を磨く文学部を重視せよ』で思うこと

以下は、映画『チップス先生、さようなら』からの引用です。

チップス ポスター新任の校長がこう言います。

- There we are. I'm trying to make Brookfield an up-to-date school. . .. . .and you insist on clinging to the past. The world's changing, Mr. Chippping..

そこです。私はブルックフィールド校を時代にあった学校にしたいのです。なのに、あなたは過去にしがみつくことに拘泥している。世界は変化しているのですよ、チッピング先生。

それに対し、老教師、チッピングは、反駁します。

-I know the world's changing, Dr. Ralston. I've seen the old traditions dying one by one. Grace, dignity, feeling for the past.

「世界が変わりつつあるのは承知しています。ラルストン博士。私は古い伝統が一つ一つ死に絶えて行くのを見てきました、品格、尊厳、過去に対する感性...。」

最期にこのように啖呵を切って、チッピングは席を立ちます。

Give a boy a sense of humor and a sense of proportion, and he'll stand up to anything. I'm not going to retire. You can do what you like about it.

「少年にユーモアのセンスとバランスの感覚をあたえればよいのです。そうすれば、その少年は何ものにも立ち向かって行けます。私は辞職しませんよ。好きなようになさったらいい。」

この映画は、1939年。映画のこの場面は第一次世界大戦前のことです。まるで、今年行われている議論のようではありませんか。このせりふそのままでテレビドラマにしても、100年前の英国のことだとはだれも気がつかないでしょう。

リベラルアーツ文部科学省が6月に出した人文系の再編を促す通知に対し、ウォールストリート・ジャーナルアジア版が、「日本の大学が教養教育を放棄へ」と報じたことで(産経9月7日)、何時の時代ににも現れる、実用と教養の対立が議論の的になっています。文部省は、文系軽視ではないと、否定に躍起になっているようですが、通知には、どう見ても「実用」という視点しか書かれていないので、反発は止むことはないでしょう。

かと言って、反論する側の意見というのも、強く響くものとは言えません。野田元首相は、ブログに、「即戦力の人材養成も必要でしょうが、長い時間を経て役に立つ人文社会の知見も軽視してはなりません。実学と教養を二者択一で迫るのではなく、そのバランスをとる教育が必要です。」と述べていますが、敢えて言わせていただくと、誰でもいつでもこのような意見は言えるものです。そして無力なのです。じっさいに、文部省の通達が出る前から、京都大学では哲学科の名称が無くなるなど、「実用主義」への流れが止むことはありません。

「教養」の語の意味を問い詰め、なぜ「実用」だけではだめか、を具体的に論じることができなけれが、「ご説ごもっとも」と言いながら、きれいごととして無視されてしまうのが関の山でしょう。「文系」の学者が「知の~」などと言い出した頃から、彼らの意見は軽視され始めたように思います。その件は、ここでは置いておくとして、先ほどのチップス先生のせりふの中の、二点に注目したいと思います。

パブリックスクール 戦争一つは、feeling for the past、「過去への感性」。もう一つは、Give a boy a sense of humor and a sense of proportion, and he'll stand up to anything.「少年にユーモアのセンスとバランスの感覚をあたえればよいのです。そうすれば、その少年は何ものにも立ち向かって行けます。」という部分です。

「過去への感性」、これは歴史感覚と言いうこともできます。現在、私たちがあるのが過去のおかげであると言う謙虚さを養い、「実用」という現在の価値を相対化するする力です。もう一つの文は、第一次世界大戦で、チップス先生の教えている学校に通ってくるような、恵まれた階層の子供たちが同年齢の英国人兵士のなかで一番死亡率が高かったということを知った上で味わえば、一味違って感じられます。先ほどテレビドラマのせりふになるということを言いましたが、実際放映した場合、この映画ほどの重みが伝わるかどうか分かりません。

さて、ここで漸く、題で扱った、西尾さんの評論ですが、文部省の通知に対する単なる反発ということではなく、なぜ、それがいけないかを、短いながらも的確に論じています。まず、問題の重要性を言い切る姿勢がはっきりしています。(産経新聞:正論欄:平成27年9月10日)

「先に教養課程の一般教育を廃止し、今度リベラルアートの中心である人文社会科学系の学問を縮小する文科省の方針は、人間を平板化し、一国の未来を危うくする由々しき事態として座視しがたい。」

本居宣長切手過去、つまり歴史については以下のように述べています。

「学者の概説を通じて間接に自国の歴史を知ってはいるが、国民の多くがもっと原典に容易に近づける教育がなされていたなら、現在のような「国難」に歴史は黙って的確な答えを与えてくれる。」

急に映画の話になりますが、チップス先生はラテン語教師です。ドイツ軍による爆撃の最中にゲルマン民族の襲来の様子をラテン語で生徒に読ませ、「死んだ言語も時は役に立つだろう」と言って生徒の笑いをとる場面があります。ちなみに、英国では今でも小学校課程からラテン語を教えている学校が多く在るようです。

西尾さんの論点は、さらに深く展開します。

「言語は教養の鍵である。何かの情報を伝達すればそれでよいというものではない。言語教育を実用面でのみ考えることは、人間を次第に間化し、野蛮に近づけることである。言語は人間存在そのものなのである。言語教育を少なくして、理工系の能力を開発すべきだというのは「大学とは何か?」を考えていないに等しい。言葉の能力と科学の能力は排斥し合うものではない。」

「言語」という点にまで問題が深まりました。これからテレビの討論番組などで、文科省の通知についての討論が行われるかもしれませんが、どうか、反論する立場の人も「言語」という地点に足を踏まえて論じていただきたいと思います。このエッセイを「言語は正確に」に項目に入れた所以です。


 

 

 

 


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