外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

英語教育: 英語教室で、小学生を教える際、思うこと

2014年10月18日 | 小学生を教えて考えたこと

英語教育: 英語教室で、小学生を教える際、思うこと

 

141017小学生レッスン

小学生英語レッスンについての、付加的な二点

★ この記事は、英語スクールの案内の代わりに書いたエッセイです。私の授業料が大人と同じなので、高いという指摘があったので、それをきっかけに書いたものです。教育についての基本的考えに触れているので、転載することにしました。

男の子 学習前半と後半に分かれています。

前半は、教育は最初ほど費用がかかるという点、後半は、中学の段階が知的な成長過程で、危機的な時期だ、ということについてです。

 

子供を対象とする場合は、教育費は「安くてよい」のではないかと思われる方がおられるでしょう。いや、世間の通念はそうなのです。では、なぜそのように思われているか言うと、「単純労働ほど賃金は安く、複雑な労働ほど賃金高い」という経済学的考えを教育に当てはめているからだろうと思います。プラス、「学割思想」というべきものが、その理由も考えず、ぼんやりと人々の考えに染み込み、子供の教育は安いのがあたりまえだという考えが定着しているのです。
しかし、実際は、小学校の教育が一番、注意と手間とお金がかかり、高等教育になればなるほどお金がかからないものです(職業教育の実験費用などは除外して考えます)。子供のころ、ちょっとした先生の言葉によって生徒は伸びたり、場合によっては地獄に落とされることもあるのです。3ヶ月ぐらい学校を休んだ場合を考えてください。その子は一生立ち直れない場合だってあるのです。大学では1年ぐらい留年しても取り戻しは十分効きます。たしかに、さすがに、そのことは周りの人間が自覚しますから補習や、再履修をします。しかし補習をしなかった場合を考えてください。

たいへん、おおざっぱに言えば、年を取るに従い、かけるべき労力、注意、費用が減る様子はつぎのように表わされでしょう。10歳ときにかかる労力、注意、費用をを10とします。

年齢: 10歳  15歳、 20歳、 25歳、    30歳
費用  10   6    3  マイナス3   マイナス10

男の子 学習②こんな感じで、高学年の教育になるほど費用、手間、労力が減るという形が考えられるのではないでしょうか。25歳で、マイナスと書いている部分に注意してください。最初はお金がかかるのですが、それがだんだん減っていって、25歳(仮に、ですよ)で逆転して収入をもたらすわけです。高等教育で大変お金がかかり、卒業したら突然高収入が得られるという形より、人間の一生にとって自然な感じがしないでしょうか。大変抽象的な言い方ですが、具体的なイメージを思い浮かべていただけたら幸いです。
もちろん、一般的に言って、子供が幼い頃は親の収入が少ないという問題がありますが、上の観点からは、それは「好ましくないこと」だと言えるわけです。もし親の収入が少なければ、祖父母、あるいは政府が助けるとういう必要があるという、マクロ的な視点も得られると思います。

ところで、小学校時代の塾にお金がかかるということがよく言われますが、私がここで述べているのは、それとは違う点にご注意ください。誰でも日本人ならうっすらと理解していることですが、小学校で塾へ行くのは、安定して、尊敬される職を保障する大学に合格するという、ただその一点のための必要条件だと人々が感じるからでしょう。いくらその社会学的条件が崩れてきたとはいえ、こういう習慣はそう簡単にはなくなりません(外国の教育と比べるとこのことはいっそうはっきり分かります)。

女の子 ①私は、若い人に、これからの人は、お金の儲かる仕事(社会が必要とする仕事)、自分のしたい仕事、教育(自分の子であれ、人の子であれ)の三つをしなければいけないよ、とよく申します。私のこの見通しはミクロ、マクロ、双方から見てそれほど的外れでないと思います。その理由はここで詳述できませんが、人口減少という一点から見ても、歴史の流れのなかで日本は社会が大きく変わっていくことは予想できます。そのため、終身雇用、年金制度が可能だった高度成長時代の習慣を捨てて、大学入試に教育の全目標をおいていた頃の考えをそろそろ卒業しないといけないと思います。たしかに、大学入試一発に成功し、あとは社会的高位に居続けるという人がなくなりはしないでしょう。ですから、「二番手ぐらいなら行けるかな」などと思い、狙い続ける人は残りますが、そういう人たちの層はますます薄くなっていくことでしょう。そういうわけですから、先ほど私が述べた、より人間の成長にとってより自然な「投資」というものの比重が増してくると思います。

 


<中学生時代が教育課程で最大の危機、かもしれない、ということ>

2点目です。
理科小学生を教えていて、一番心配するのは、中学に入って今までの学習を生かして英語、数学、理科の力を伸ばしてくれるかな、という点です。何人もの大人の生徒さんに、小学校の時は英語が好きだったが、中学に入って嫌いになったと聞いているのが、そうした判断の下敷きにあります。そのことは英語に限らず全教科に言えることです。理科の先生の間では、「七・五・三問題」というのがあるそうで、理科に関心を持つ生徒が、小学5年生で70%、中学2年生で50%、高校2年生で30%と減っていく、と言われています。

その理由は小学校の時は遊びの機会が多かったからと、ぼんやりと思っている人が多いと思いますが、私はもっと本質的な問題が隠れていると思います。小学校では、いわば「下からの教育」で、子供の発達にしたがって教科とは拘わりなしに、知的欲求を育てていく(NHKプレ基礎プレネットの考え方)ことができるのですが、中等教育以降の教育は、いわば「上からの教育」と呼びましょうか、社会が必要とすることを大人の段階から下にだんだん降りて中学生にまで当てはめるという形になっているからです。化学なら化学の第一線の知識が博士課程で扱うとしたら、それに必要な知識は修士課程に、そして、修士課程に必要な知識は学部、学部で必要な知識は高校、そして、中学まで降ろされてくるという形になっていると思います。その「上からの教育」と「下からの教育」がぶつかるのが中学生の時代ではないでしょうか。

AとZ プレキソところが、この二つの「接合」は必ずしもうまくいっていないようです。急に意味の分からない、例えば「因数分解」などをやらされて、試験でどしどし差をつけられ、まあ、高校ともなると、下から数えて70%ぐらいの生徒(30%ではない!)は、習ったことなどすっかり忘れて大人になります。しかも、さらによくないのは、敗北感が残るということです(近代以前にはなかったことです)。辛うじて敗北感まで行かなかった人たちの間で、とりわけ「団塊の世代」の人たちの間で、今、「大人の数学、英語、その他諸々」が大流行なのは、紀伊国屋などの書棚を見れば分かることです。

それを避けるためには、小学校の時の教育から、将来の学習を見据えて計画を立てる必要があります。英語についても、「英語に親しませる」という世間を納得させる標語を掲げて、そのじつ何も考えずにネイティヴ・スピーカーと遊ばせておくだけでは時間の無駄です。子供の知的発展を、英語を通して促すということが必要です。そのような芽を芽生えさせておけば、中学以降に体系的に文法などを習った時、腑に落ち、そして、身につくのです。私も常にそう心がけ、子供の好奇心の芽を摘み取らず、それをさらに力強い知的関心に発展させるように心がけています。「英語で算数」などその方向にあるものです。

私が望むのは、中学での学習がうまく導かれ、つまり勉強嫌いにならず、中学卒業までにいちおう大人になってほしい、ということです。人間の発達という面から見れば、中学を出たら一回、世の中に出るべきでなないかと思うのです。それは社会構造によって、つまり「上からの教育」と同じ論理によって、「できるはずはないではないか」ということになっています。それがあまりに当たり前のことになって、そんなこと誰も考えなくなっているのです。それでいて、高校の教科をほとんど忘れてしまうというのはどういうことでしょう...。

私は、気の利いた子なら、16歳ぐらいまでに大学へ入る位の学力はつくと思っています。ただ、2つの条件付で。1つは優れた先生と学校に恵まれること。二つ目は、このことが言えるのは、英語、数学、理科についてであって、国語、歴史は16歳から20歳の間にしか身につきません。英国の有名大学には、15、16歳のインド人の子などが入学してくるそうです。もし生徒が来たら、大学にすぐには入れさせず職を紹介し、しばらく世の中で働いてもらうこともあると読んだことがあります。今の日本の「常識」からすると、「へえ~」てなもんですが、人間の成長ということを考えるとそんなに不思議なことではないと、私には思えるのです。いかがでしょう。
魔女 キキ先日、今の子に、「魔女は何歳で自立するのでしたっけ」と訊いたら、漫画映画はちゃんと見ているようで、「キキは13歳。あと1年だあ。」などと言っておりました。さあ、どうなることやら。