翻訳語、外来語の検討 「権利」から「労働」」へ
rightsについてもすこし。
前回は、権利という翻訳語が、債権の正当性から政治的な意味に広がった過程を述べました。権=力(power)をもつ正当性、つまり、「理=ことわり」がrightsなのですから、権利より福沢が一時用いた権理の方がよいのではという問いかけでした。 福沢は、『西洋事情二編』ではライトの意味を5つに分け、「譬えば訳書中に往々自由(原語「リベルチ」)、通義(原語「ライト」)の字を用ひたること多しと雖も、実は是等の訳字を以て原意を尽くすに足らず」とも述べています。ここでは、rightsの訳としては「通義」が用いられています。
5つとは、
⓵「ライト」とは元来正直の義なり。漢人の訳にも正の字を用ひ、或は非の字に反して是と対用せしもあり、正理に従て人間の職分を勤め邪曲なきの趣意なり。
⓶又此字義より転じて、求む可い理と云う義に用ることもまり。漢訳に達義、通義等の字を用ひたれども、詳(つまびらか)に解し難し。元来求む可き理とは、催促する筈、またはまたは求めても当然のことを云う義なり。譬(たと)へば至当(しとう)の職分なくして求むべきの通義なし云う語あり。即ち己が身に為す可き事をば為さずして他人へ向ひ、求め催促する筈はなしと云う義なり。
⓷又事をなす可き権と云ふ義あり。即ち罪人を取押るは市民廻り方の権なり。
⓸又当然に所持する筈のことと云う義あり。即ち私有の通義と云へば、私有の物を所持する筈の通義と云ふことなり。理外の物に対しては我通義なしとは、道理に叶はぬものを取る筈はなしと云う義なり。
⓹人生の自由は其の通義なりとは、人は生(うまれ)ながら独立不羈にして、束縛を被(こうむ)るの由縁(ゆえん)なく、自由自在なる可き筈の道理を持つと云ふことなり。
⓵は、形容詞としてのrightでしょう。⓶が前回述べた「債権」、⓷は権利でなく、権力=power、⓸が現在使われる普通の意味の権利。つまり「正当性」のある「力」。所有権が典型です。⓹が人権。神が与えたもので奪えない権利です。
これは、実は、前回引用した『翻訳語成立事情』にも引用されている部分です。著者は上のように一つ一つ分析せず、漠然と福沢は「思想の道具としてのことばに対する感覚の鋭さは群を抜いていた」と述べていますが。どうも、著者は日本では力としての「権」が⓸、⓹の権利と区別されないで今に影響しているということを全体で言いたいのでしょう。rightの意味をpowerに対立させたい立場です。ちなみに、福沢が用いた権<理>についての言及はありません。
今に影響しているというのは、じつは、結論ではなく実情で、ここからスタートして明治に至るというのが正攻法だと思うのですが...。現代の用語で「権」のみ用いた場合、「三権分立」は⓷のpower、「生存権」と言った場合⓹= 人権、human rightsですネ。「捜査権」となると、⓷の意味なのか、⓸や⓹のような権利、つまり正当性の意味が入るのか、たしかにあいまいです。
「権利」の項、最後に、福沢らが翻訳に苦労し、問題を引き起こした⓹のhuman rightsがはらむ課題を二点挙げましょう。以前にも触れた気がしますし、翻訳語の課題から外れますから、またどこかほかのところで見てみたいと思います。
一つ目は、市民権を与えることでいままで〇〇で貶められていた人が、「尊厳」(dignity)を持って、大手を振って歩けること。いままでは同情を買うか、礼儀をもって接するのを期待するかだったのが、大っぴらに「権を張る」(明治の民権運動家の用語)ことができるようになったということ。
二つ目は、人権といえども、背景に権力があることです。生存権を主張しても、それだけでは生命は保証されません。主張する人は社会の容認、そして裁判所の判断を期待して主張するのです。
この二つが合わさるとどういう社会現象を生み出すか。現在起きていることの原因として論じることができるか。これは難しいですね。これは回を改めて。
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