東京裁判レーリング判事と竹山道雄の英語での会話
前回、袴田茂樹さんの引用で、外国人とのコミュニケーションの一面について触れました。前々回はホンダジェットの社長さんの英語を取り上げましたが、袴田さんのケースは、「では文系の人はどうなの」という問に対する一つの事例でした。しっかりしたコミュニケーション能力を持つ鍵は、理系の場合は、モノ、事実との格闘を通しての相互理解、文系の場合は共通の教養、つまり歴史と文学だというのがヒントでした。「異文化コミュニケーション」という言葉はよく聞きますが、これらの点について触れているものはなさそうです。もちろん、これは「エリート」の話で庶民は違う、という反論が予想できます。しかし、英語初級者にとってもこれらが必要だというのが私の考えです。事実を知りたいという欲求、同じ人間としての共有意識が先立たなければどうして英語を学習する動機が生まれるでしょう。
袴田さんの引用を導くために森鴎外、白洲次郎、戦後の知識人たちを否定的な意味で引き合いにだしましたが、では、大戦後、日本の知識人は全滅だったのでしょうか。いやそうではありません。竹山道雄(1903 - 1984)をご存知ですか。『ビルマの竪琴』の著者として有名です。ここでも、少し長い引用をします。雑誌『心』に1955年に書かれた連載をまとめた『昭和の精神史』からです。
竹山は旧制第一高等学校のドイツ語の先生。戦前、戦中の政治にはまったく関与しない立場でした。東京裁判が進行中のある日、鎌倉の海岸で、オランダ人の判事、レーリング(1906 – 1985)に出会います(記述からはそれ以前にも逢ったことがあるようにみられます)。お互い40歳前後、会話は英語で行われたようです。以下の引用ではレーリングはローリングと表記されます。(引用文は新仮名、新字)
*レーリングについては9月4日の産経新聞に三井美奈記者の記事がありました。
文庫本4ページの長い引用です。この記事は以下の引用で終わります。
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極東裁判のオランダの判事のローリング氏は、あの極東裁判の判決に反対した少数の一人だった。そして私は、あの人があの反対意見をもつにいたったすくなくとも最初の動機は自分だったのだろうと思っている。
ふとしたことからローリング氏と知りあったが、裁判が進行している夏の日、氏が鎌倉の海岸の砂丘に座っているのにあった。(氏はしづかに自然の中で瞑想にふけるのがすきで、一度中秋の名月に瑞泉寺に案内したら、大よろこびだった)。それから氏は私の家に来、おりから降りだしたはげしい夕立の飛沫がふきこむ廊下で、長話をした、まだガラスは壊れていて、すぐ外に南瓜の葉が風にひるがえっていた。夜は停電だったから蝋燭を灯した。
はじめのうちは裁判の問題にはふれなかったが、ついその話となった。
「いま法廷に座っている人々の中には、代罪羊がいると思います」
私がこういうと、ローリング氏はいかにも意外そうに驚いて私を見た。たしかに判事はそれまでそういう見方をしていなかった。
それから私は、もちろん自分にもはっきり分かっているのではなかったが、いろいろと疑問に思うことをのべた。その眼目は、「圧倒的に強い勢力が国をひきずっているときに、それに対して反抗したり傍観したりしても、それによっては何事もなされなかった。あの条件の下で残された唯一の可能な道は、その勢力と協力して内からはたらくことによって、全体を救うことだった。広田氏はそれをした人だと思う」というのだった。
これは、自分の勤先の学校という小さな世界で痛感したことを、拡大した判断だった。
これをローリング氏はたいへん注意深くきいてくれた。そして、その場では何の意見ものべなかったけれども、オランダがナチスに占領された当時のことを話して、「そのように考えて行動した者がオランダ人にもいた」といった。
その次の会ったとき、氏は握手もすむかすまないかのうちに、いきなり私にこうたづねた。
「東郷をどう思うか?」
東郷外相が活躍した開戦のころには、詳しいことは何も報道されなかったのだから、私は、「何も分からない」と答えた。
このときの話はそれきりになったが、あのときの氏の特別な身ごなしがまだ私の目に残っている。それは、困難な問題の解決の端緒をつかんだという意気込みだった、と思われる。
何分にも判事が関係外の者の意見をたづねるということはないであろうから、私は遠慮してはいたが、しかし何かと話はでた。私は昭和十年前後の日本の世の中の移り変わりのことを、幾度も話した。これが全体の謎を解く一つの鍵だ、と思ったからである。そして、判事はよくあの歴史のむつかしさを嘆じていた。
こんな問答もあった。
私 - Among the accused who impress you?
氏 - All.
氏は被告の中の二人は小人物だといったが、他の人々については、その個人的能力を高く評価していた。そのある人々を、ほとんど舌を巻いてほめていた。あの当時にこういうことをきくのは、異様だった。
判決が決定する前の判事たちの会議で、ローリング氏がひとりで六時間も頑張った、という噂をきいた。判決の後に、氏は沈痛な面持ちで「グルーが広田のために最高司令官に電報をうってきた」と話してくれ、「自分はできるだけのことをしたが・・・・・・」といっていた。帰国の前に、氏はその少数意見を私にも一部くれた。この意見書の中には、私が氏にむかっていった言葉が二つ入っている。それは、「彼は魔法使いの弟子であった。自分が呼び出した霊共の力を抑えることができなくなったのである」また「もし外交官が戦時内閣に入ればそれは戦犯の連塁であるという原則がうちたてられるなら、今後おこりうる戦争の際に、戦争終結のためにはたらく外交官はいなくなるだろう」というのである。
判決は私にははなはだしい不当と感ぜられた。しかし、何分にも歴史の真相を知っているという自信はないのだから、黙っているほかなかった。
あの裁判が文明と人道の名において行われ、しかもあれだけの組織と費用をつかって、わづか数年前のことをあれほど貧弱にしか再構成できないとすれば、われわれが幾百年も前のことを数冊の本を読んで分かるわけがない。歴史というものは知りがたいものだ。 ----
こういう感にたえかねた。そしていった。
「私は法廷を誹謗するつもりはありません。しかし、私はこの十年 ---- 十五年のあいだに、じつに多くの痴愚を経験した。そして、この判決はその絶頂だという気がする」
判事は答えた。「いまは人々が感情的になっているが、やがて冷静にかえったら、より正しく判断することができるようになるだろう」
ローリング判事の漏らした言葉から察すると、氏はあの裁判の偏向を政治的意図からではなくて敵愾心の感情からであると考えていた。
判決の後に判事は帰国することになったが、そのあわただしいときに判決はアメリカの大審院に提訴されることとなった。判事は「もしこれが受理されたら自分はまた日本にくるが、おそらく受理はされまい」といっていた。そして、事はそうなったので、以後氏には会わない。
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新潮文庫版 1958年発行 p.142 - p.146
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