外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

渡辺昇一、ピーター・ミルワード両氏を悼む

2017年08月21日 | 先人の教えから

渡部昇一、ピーター・ミルワード両氏を悼む

第3パラグラフ(「田舎者「渡部さん」」で始まる)を書き加えました。2017/09/15

渡部昇一葬儀去る4月17日に渡部昇一さんが亡くなり、葬儀で司祭を務めた上智大学名誉教授、ピーター・ミルワードさんも、8月16日に亡くなりました。ミルワード神父は、渡部さんの葬儀で、「渡部先生は田舎者でした。いい人はみんな田舎者。シェイクスピアも、イエスも。心の田舎者。幸いなるかな、田舎者」との言葉を残された由(産経)。ミルワードさんの言う「田舎者」はcountry bumpkinだそうです(ソフィア会報)。知の巨人、保守思想の大家という言葉が渡部さんの逝去に際して雑誌の見出しによく見られましたが、どうもピンときませんでした。しかし、ミルワードさんの愛情のこもった言い方には膝を打ちました。77歳で億を越える額の書庫を増築したと聞きましたが、どういうんでしょう、書に囲まれた生活というものに青年同様のあこがれを抱き続けたのでしょうか。借金はどうするのだろうかと余計な心配をしてしまいます。「教養というものは万巻の書物を読み、内容はすっかり忘れても残っているもののことを言う」と言ったオルテガ・イ・ガセットの方が都会的、洗練されているように思います。その意味で渡部さんは「田舎者」だったのでしょう。しかし、愛すべき、がつく田舎者でした。

ミルワード田舎者は騙されやすい。渡部さんも被害者でした。某大新聞の記者に騙されて、捻じ曲げられた記事のなかで、ナチスばりの優生思想の持主にされてしまいました。渡部さんは単なる取材だと思ったそうですが、奥さんは気味の悪い人ね、と言ったそうです。果たせるかな、札付きの記者だったそうです。原発事故の当事者のことを書き立てて自殺に追い込んだこともあるとか。渡部さんはカトリックです。「私が自殺しないですんだのはよき先輩に恵まれたからだ」と言っているそうですが、その先輩のなかにミルワードさんも含まれていたのでしょう。  

「田舎者」渡部さんの面目躍如たるのは、1970年代におこなわれた、ある政治家との英語教育論争だったかもしれません。その政治家は、現在の英語教育は、国家的観点から効果が上がっておらず、大学入試の英語などは廃止すべきで、一部の人に効果的な英語教育を施すべきだという議論でした。それに対し、渡部さんは、すぐ効果はでなくても英語教育を通して涵養される国民の潜在能力を無視すべきではないという反論を行いました。「現実論」に対する渡部さんの「教養主義的英語教育論」は、蟷螂の斧で、当初から負ける運命だったのでしょう。この論争に対する意見もその政治家よりのものが目立ちます。しかし、渡部さんの議論の底には、田舎での貧しい青年が外の世界を知り、学問に目覚める糸口を奪わないでくれ、という東大出の元官僚の政治家に対する反発があったと思います。「教養を身につける、と言っても渡部さんのような優秀な人だけで、あとは無駄でしょう」という反論もされそうです。しかし、自分自身の経験のなかに普遍的なものを見出し確信をもって主張したのが渡部さんでした。この種の議論には「統計」は人を欺くものだといいう直観が渡部さんにはあったのでしょう。都会的なさかしらからはかけ離れた議論です。その政治家が日仏学院で滔々とフランス語で講演するのを聞いたことがありますが、黒塗りの車をエントランスの正面に待たせていたその政治家と、四ツ谷駅のホームを、たぶん書物の入ったカバンをがらがら引きずりながら、とぼとぼ歩く小柄な渡部さんの記憶は私の判断に影響しているかもしれませんが...。

渡部さんの逝去に際しての記事には、政治、社会評論方面のものはありますが、専門の「英語学」関連のものは見つけられませんでした。ましてや、英語学と社会評論を結びつけるものはありませんでした。前から、渡部さんの評論の根底には、欧州のアカデミズムのなかで養った方法論があるのではいかとみていたのですが、今となっては確かめるすべはありません。生前にも、東大、外語大などの官学系の人たちの間では渡部さんは無視されていた気配がありました。日本では、アカデミズムの伝統は官学を通じて伝えられ、早稲田、慶応など、その他の私学などには欧州からの伝統の影響はきわめて限定的なものでした。そのなかで、上智大学では、イエズス会の優れた人士を擁し、欧州直伝のアカデミズムの方法論が、渡部さんのようなごく少数の人に伝授されたのではないかとみています。ちなみに渡辺さんの博士号はドイツ、ミュンスター大学から与えられています。

欧州伝来のアカデミズムとは何か。この辺も推測ですが、学問が文系、理系に分かれる前からの伝統ではないか。渡部さんの専門は「英語学」ということになっていますが、彼の『秘術としての英文法』などを垣間見ると、むしろ、philologyと呼ぶべきではないかと思います。「文献学」と訳されますが、日本語では十分理解されていない概念です。文系、理系に分かれる前からの西洋の学問の伝統は、大きくphilosophyとphilologyに分かれていると言われています。philosophyは現象についての研究、philologyは書かれたものの研究です。昔書かれたものを研究する過程で「文法」というものが分岐してきたわけです。かのニーチェも「文献学者」ということになっていますが、日本ではそれがどういうものであったかあまり考えないようです。「英語学」というとずいぶん狭い、しかも実際的な分野と思われがちですが、「英語学」、「英文法」、あるいはphilologyのを支えているのは、がんらい、古代の知恵に近づきたいという志だったと思います。いにしえの人を理解したいという意思は、過去、現在を問わず、人間の間に生じることを研究する可能にしたのではないでしょうか。

「アカデミズム」という言葉が否定的な文脈でしか語られなくなってから久しいです。大学教授は、競争原理のなかで自分の論文書きに忙しく、大学とは何かを考える余裕を失っています。雑用に捕らわれて、という言葉も聞こえてきます。しかし、大学外の社会の原理とは違う大学の存在理由をしっかり説明できなければ、大学自体の存立も危ういということに気が付くべきでしょう。文系学部など、文部省から見れば吹けば飛ぶようなものです...。

話が、広がってしまいました。官学以外で、たった一人でアカデミズムを背負ったような渡部さんの跡を担う人がいるのだろうかといぶかしく思います。






山田太一『岸辺のアルバム』に見る40年前の英語学習観は変わったかな?

2017年08月17日 | シリーズ:日本人の英語

山田太一『岸辺のアルバム』に見る40年前の英語学習観は変わったかな?

今回のエッセイは,引用が多く、少々長いです。

今年、2017年は、山田太一作のテレビドラマ『岸辺のアルバム』が放送されてから40年になります。早稲田大学演劇博物館では山田太一展が開かれ、私も病気を押して数十年ぶり(?)に大学に行ってまいりました。

岸辺のアルバム ポスター今回のエッセイでは、『岸辺のアルバム』の最初のあたりで、中田喜子が演じる長女、田島律子に語らせる、40年前の英語学習観を垣間見てみましょう。40年前の英語観が今どう変わったでしょうか。または、変わっていない点は?。

律子は、当時「女東大」と呼ばれていた四谷にあるJ大学の一年生。この大学は秀才が集まっていることで知られているだけではなく、女子学生が都会的であか抜けている点でも定評がありました。「できる」+「美女」というセットで、他の女子大などの追従を許さず、今風に言えば「輝いて」いたのです。当時、飯田橋の日仏学院に行っていた私は、特待生の身分でJ大学から来ていたAさんを思い出します。映画にでるような「美人」ではないのですが、家柄がよく、身のこなしが洗練されていて、周りに女子学生が自ずと集まり、女王様のような「オーラ」を放っていました。その後、現閣僚の一人である政治家と結婚したところまで覚えています。ところで、ちょっと関係ないようですが、「J大学の学食ではソフトクリームを売っているんだって」、「へえ~!。違うね。」というような会話が、当時、私が通っていた大学で交わされていたものです。

個人的な話で失礼しました。しかし、以下のせりふを理解するための参考になるでしょう。ある日、田島律子は国電のなかで、山口いづみ演じる丘という、J大学の仏文科の女子学生に声をかけられます。この役柄は、じつは邪悪の権化のような抽象的な存在なのですが(ねたばれ)、この時点では律子にも、ドラマを見ている人にもわかりません。山田太一のシナリオでは、テレビドラマであるにも拘らず、身近にいるなあと思わせる人物とはまったく異質なキャラクターが折々登場します。たしかに「身近」にはいないのですが、誰の心の中にも潜んでいる存在としてです。私小説好みの日本的ドラマと決定的に異なっている所以です。

電車内。

丘:英語がお上手だと聞いて憧れていたんです。

田島:やだわ。上手ではないわ。

丘:どんなふうにお勉強なさっているのかなって。

田島:困るわ。

岸辺のアルバム 中田、山口1四谷の土手の上。丸ノ内線と迎賓館を見晴るかす。二人は歩きながら。

田島:どんなふうに、って言われても。ただ毎日暇さえあれば英語を読んだり聴いたりしているのよ。聴くって言っても、FENを聴くの。分かっても分からなくても。正直言うと私もよく分からないのだけれど。とにかくラジオは必ず聴くようにしているの。それから小説ね。英語の小説のわりに易しいのがあるでしょう。たとえば、ああ、ヘミングウェイとか。新しがっちゃだめだと思うの。粋がって、カート・ヴォネガット・ジュニアって思っている人がいるけれど、高卒程度でそういうのはよくないと思うの。もっともあなたはフランス語でしょ。

丘:いえ。英語でいいんです。

田島:フランス語も今はカセットテープなどがあるんじゃないかしら。

丘:ええ。あると思いますけれど。

田島:そういうのをお聴きになったらいいんじゃないかしら。

岸辺のアルバム 中田、山口2丘:ありがとうございます。

場所が変わって、山手線脇の小公園。丘はベンチを自分のハンカチで拭く。

丘:どうぞ。

田島:よして。そんなことしないで。

丘:卑屈かしら。

田島:そっ。もっと胸を張っていていいと思うわ。

丘:でもあなたの評判、とってもすごいんですもの。

田島:すごいって?。

丘:仏文でも話題になっているんです。秀才で、英語が抜群で、綺麗で、議論するとものすごく回転が速いって。

岸辺のアルバム 中田、山口3田島:困るわ。

丘:よくわからないのに、ラジオのFENを一生懸命聴くなんていうのも、えらいわ。

田島:急にわかる時が来るって言った人がいるの。がまんして聴いていると急に聴き取れるようになるって。

丘:そうですか?。

田島:結局、語学って根気だと思うの。毎日やるかやらないかだと思うの。

岸辺のアルバム アップダイク丘:そのご本、なんですか。

田島:『ラビット、ラン』、アップダイク。翻訳と英語と両方並べて読んでいるの。

丘:すごいわあ。

田島:べつにすごくなんかないけれど。英語が好きなことは事実ね。でもそれ以上に現実が嫌いなのかもしれない。なんでもいいから、目の前の世界から逃げるものがほしいのかもしれない。

岸辺のアルバム 中田、山越t4









画像が不鮮明で失礼しました。セリフの途中で註を入れようと思ったのですが、そんなに長くないので、このあとに、まとめておきます。どうです?。今の英語学習観と変わっていると思いますか。

英語の話に移る前に、ドラマについて少々触れておきましょう。じっさいの番組を、DVDをショップなどで借りて見ていただけると、お二人の演技がシナリオをどう解釈しているかよくわかります。渋谷のツタヤには置いてありました。

丘のせりふは、すみずみまで田島の虚栄心を引き出すことを意図しています。「すごいわ」などと言いながらサディスティックな快感を味わっています。とりわけ、ハンカチの場面などは内心とろけるような快感を味わっているはずです。視聴者はなんだか居心地が悪い感じがするのですが、理由はわからない。山口はうまく演じていると思います。もう少しあとで、律子はすべてを暴露され、辱めの儀式を被ることになり、見ている人にも直前の場面の意味が霧が晴れるように明らかになります。みなさんも、相手が下出、あるいは卑屈になると、自分が気づかないうちに、上から目線、または高飛車になっているという経験はありませんか。

さて、英語。

①FENを聴いているとある日突然わかるようになる...、と、信じている人はたしかにいました。山田太一はよく取材していますね。じっさい、そんなことはあり得ません。田島さんのように朝から晩まで英語ばかりやっている人ならそんな感じになることもあるかもしれませんが。原因はFENだけではないでしょう。リスニング能力というのが単一の「能力」であるという誤解がありますが、ちょっと考えてみても、単語を知らなければわかるわけがないのです。リスニング能力は複合的です。

②易しい小説を読む。いいでしょう。けれど小説は長いので持続できるか、です。内容を理解し、関心を持てればいいのですが。むしろ英字新聞の第一面、比較的知っている内容のものを習慣的に読むこと(TOEIC750以上ぐらいの人には苦ではない)をお勧めしたいです。

③「カセットテープをお聴きになったらいいんじゃないかしら。」J大学ではこんな敬語を学生同士で使っていたのでしょうかね。カセットテープとはなつかしい。短く区切って繰り返し聴き、声に出してみる、これは決定的に重要です。今では、VLCのようなmp3、mp4向けソフトがありますから、音声だけでなく、動画も、小さな単位で繰り返し見て、聴いたり、それに、スピードを落として学習することもできます。

④アップダイクを英日比較して読む。そうとう大脳を使いますが、教材がない希少言語などを本格的に習得する人には今も昔も必要。トロイの遺跡発掘で有名なドイツ人、シュリーマンは、古代ギリシャ語が読めるようになるために、まず、」フランスの小説を仏独対訳で読み、そのあと仏希対訳、さらに現代ギリシャ語から古代ギリシャ語へ進んだそうです。たしか一編を暗記したとか。これまた作品を好きでないととても持つものではありません。田島さんはアップダイクはお好きなのですか。いや、当時流行っていたからでしょうね。カート・ヴォネガットを粋がって読むより学習効果はありそうですが。

⑤いろいろ細かい点に触れましたが、この会話が示唆する語学学習観には、ある欠落があります。それは今もそれほど変わっていないかもしれません。それは何か。外国語というものが、理解し、理解させるための手段ではなく、日本社会での競争の道具、または虚栄心の満足のための道具になっているという点です。しかも、苦行の一種と見做されているのです。「えらいわあ」というセリフがありましたね。苦労したからえらいということでしょう。英語がコミュニケーションという現実の問題を解決する手段ではない、なにか非現実的な存在になっているのです。最後のせりふで律子がうっすらとそれに気がついていることが暗示されます。丘の「いじめ」もそれを知り尽くした上でのことです。日本国内でしか通じない外国語学習観、この虚構は『岸辺のアルバム』を通じて肥大化する「うそっぽい世界」に巻き込まれ、最終回のギリシャ悲劇的な結幕に統合されることになります。

●ここまで書いたら、山田太一さんが病気だというニュースが伝わってきました。脳出血でリハビリ中だそうです。元気になってほしいと願いながらも、昨年まで作品を書き続けてきたことを考えると少しお休みくださいとも言いたくなります。気になるのは、山田さんを継いで、テレビというメディアで「文学」(山田さんがよく使う語彙)と言えるようなドラマ書く人がいるのでしょうか、という疑問です。商業主義と言ってしまえばそれまでですが、最近のシナリオライターには、そもそも最初から表現するものを持った人がいないのではないかという疑いを持っています。

 


日本人にとって外国語は存在しない...?

2017年08月15日 | 言葉について:英語から国語へ

日本人にとって外国語は存在しない...?

 『日本人の英語』(岩波新書)で有名なピーターセンさんが著した『日本人の英語はなぜ間違うのか?』(2014)は、日本人の英語コンプレックスを書名で刺激し売る類書とは違って、内容のある本です。

日本人の英語はなぜ間違うのか第五章は「仮定法の基本を理解する」と題して、大学生の和文英訳、英作文で仮定法が無視される例が縷々挙げられます。なぜかくも仮定法、つまり、現実性がない、乏しい、またはぼかしたいときに英語では過去形を用いるということをおざなりにするのか、著者は疑問に思い、中学、高校の教科書を調べてみました。すると、以下のような文が見つかりました。

ストリート・チルドレンの女の子が「私が金持ちだったら、ストリート・チルドレンのみんなに食べ物と衣服と愛を与えてあげる」という場面です。

If I'm rich, I'll give all the street children food, cothes, and love.(p.80)

この文の意味を、ピーターセンさんは苦労して日本語にしてみました。以下のとおりです。

- 「私が(金持ちであろうかどうかわからない[=金持ちである可能性もある]が)もし金持ちであれば、ストリート・チルドレンにみんなに食べ物と衣服と愛を与えてあげる」

この女の子も路上生活者なので、このような発言をするはずがありません。ピーターセンさんによると、「読み手をびっくりさせていしまう内容になりかねない」ということになります。以下のように書かないと上記の内容を表すことはできません。

- If I were rich, I'd (=I would) give all the street children food, cothes, and love.

教科書におけるこのような例をいくつも挙げながら、著者は以下のような結論に至ります。

- こういう例を書こうとしたのがそもそも無理な話だったのです。教科書を作るときに、最初からそんな文を入れないように考慮するのは当然なのではないでしょうか。

さらに、

- 重要性の度合いから判断すれば、仮定法は遅くても中学2年までに紹介されるべきだと私は考えます。

ピーターセンピーターセンさんは、教科書、カリキュラムへと議論を導いています。そうであるとすれば、ピーターセンさんの次の課題は中等教育の教科書の作成、カリキュラムの再編成へと展開するのが望ましいのですが、じっさいは、どうなっているのでしょう。

さて、ここでは、ピーターセンさんが直接触れていない、もっと深刻な問題が示唆されている点に触れないわけにはいきません。

外国語で書かれた、あるいは言われた表現を日本人の都合で勝手に変えていいのでしょうか、という問いです。

「それはダメ!」と言下に言えることです。ご賛同くださいますか。よそさまの使っている言語をこちらの都合で勝手に変えることなど、できるはずがありません。もしそんなことが許されたら、内容がいくらでも変わってしまう道を開いてしまうことになります。そうならないためには、「教科書を作るときに、最初からそんな文を入れないように考慮する」しかありません。どうも、江戸時代の漢文の書き下し文の影響が現代にも及んでいるのではないかと考えてしまいます(書き下し文の歴史的意義には肯定的側面がありますが)。

このことは、事実を捩じ曲げるという非学問的態度を容認するというだけではなく、日本語以外の言語を用いている人の存在を否定してもよい、というメッセージを生徒に伝えることになります。ほんとうなら、その逆に、外国語が日本語といかに違っているかということに気づかせ、その上で、それでも通じるということの驚きと喜びに導いて行くべきではないかと私は思うのですが…。ところが、多くの現行の教科書(ピーターセンさんは註で名前を挙げています)で、このようなことが行われていることから類推すると、この記事のタイトルどおり、日本人にとって外国語は存在しない、という極論に導かれるわけです。さらに言えば、日本人にとって他者は存在しない、ということにも…。



 




沖ノ島、世界遺産登録はロビー活動の勝利にあらず。言葉の勝利。

2017年08月14日 | 言葉は正確に:

沖ノ島、世界遺産登録は「ロビー活動」の勝利にあらず。言葉の勝利。

もう一ヶ月以上前になりますが、九州本土側の神社などを除外するよう求めた諮問機関、イコモスの当初の勧告がくつがえり、沖ノ島関連の史跡が一括して世界文化遺産に登録されることが決まりました(2017年7月10日)。

ニュースでは、ロビー活動が奏功したと報じられましたが、通常のロビー活動の意味が、圧力団体が、資金力、影響力を屈指して議員をなびかせることだとしたら、今回の日本側関係者の活動はこの意味のロビー活動とは言えないでしょう。

日本側は、島を信仰の対象とする伝統が受け継がれている世界でもまれな例として推薦書を提出しましたが、5月の段階で、イコモスは、沖ノ島の考古学的な価値を認めたものの、九州側の神社に古代の信仰が継承されていることは確認できないとしていました。

たしかに、出土した膨大な数の考古学的な資料は、物質なので、誰が見てもその存在価値がわかります。ですから、沖ノ島が認められたのは予想通りでしたが、それを祈願の対象としているという慣習は、目に見えないものですから、外国人にはわかりにくいものです。日本人が他国の習慣に接した場合にも同じ問題が生じるでしょう。こういう場合、言葉による説得が必要になります。今回、日本側は、どのように沖ノ島信仰が継承されているかを、誰が聞いても分かるように説得し、納得してもらえたのです。こうした成功例は、外交べたと言われる日本にとって注目すべきものではないでしょうか。

沖ノ島写真最初、日本側の説明では、考古学的な価値が強調されていました。また、神話なども説明しましたが、古代の神話を強調すればするほど、信仰が途絶えているという印象を与えたのではないかと、述べる考古学者もいます。「神社建築は建て替えが行われるため直接の証拠が残らない。日本人には当然のことでも十分な説明が行われず、イコモスの認識不足を招いた」という、という当事者の反省も新聞紙上にありました。

沖ノ島海の道今回の説得では、九州側の宗像神社や中津宮のある大島でも、沖ノ島で500年続いた祭祀の最終段階の遺跡が見つかったこと、航海技術の観点から、宗像神社、沖ノ島、対馬、朝鮮半島を結ぶ海の道が一体的なものだといことなども主張され、一括登録につながったようです。

一度失敗し、そのあと成功に漕ぎ着けた経験は、考古学関係者だけでなく、日本人のこれからの言語活動を考える上で大きなヒントを与えてくれると思います。


 

 


画期的英文法書『マーフィー英文法』に不足していること

2017年08月12日 | 英語学習、教授法 新...

画期的英文法書『マーフィー英文法』に不足していること


今2017年8月、療養のためお休みしていたブログ、および、スクールの広告サイトを再開します。

マーフィー英文法英国"Grammar in Use" by Raymond Murphy (Cambridge)、通称、『マーフィーの英文法』という本をご存知ですか。英語で書かれた本ですが、邦訳も出版されています。日本の本屋に並んでいる「英文法書」のなかで、革命的と呼んでもよい優れた本です。

何が革命的か。英語学習者が困難を覚える点に焦点を合わせて記述、編集されている点です。今までの典型的な文法書は、たとえば、名詞、動詞、文型、などのの章が、相互の関係なく、並んでいて、各章には、それぞれ細分化された分類が行われます。なんとなくそれでいいような気になるのは、他の教科、そうですね、地理などと同じようなものだと心のどこかで感じているからでしょうか。北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカとならび、さらに、北アメリカの章であれば、ワシントン、ニューヨーク、ハワイの産物などの説明が並びまず。北アメリカとヨーロッパの関係は如何に、ましてや、北アメリカとアフリカの関係は如何に、ということが書いてあることは、だれも教科書に期待しません。

しかし、ちょっと考えれば、名詞と動詞の違いは、北アメリカとアフリカの違いとは違う点に気がつくでしょう。名詞の意味は、動詞との違いが分からなければ分かりません。動詞の意味も名詞との違いが分からないと分かりません。つまり、文法の各項目は、各項目内の説明だけではなく、相互に関係している点に本質的な重要性があるのです。もっと言えば、言語という元来分けられていない現象を、習うために人為的に、あるいは人工的に分けたのが文法項目なのです。ですから、「私はアメリカの地理には詳しいよ」ということには意味がありますが、「私は英語の名詞の精通している」というのはナンセンスに過ぎません。

ラテン文法ところが、伝統的な英文法というものは、ヨーロッパ人がラテン語の文章を読むときの格(case)変化の変化表などから類推したもので、「正しい英語」を書くための規範という側面が強かったのではないかと思います。品詞の分類なども決して、外国人が英語を学ぶ助けとして作られたものではないのです。しかし、日本では、いや、他の国でも、なんとなく「英語を学ぶ助け」になるだろうとして疑うこともなく伝統文法を教科書に取り入れ、ときどき「規範」的な面が出て来たとき、「これは教科書に書いていないから、正しくない英語だ」などと言っても不思議に思わなくなりました。

その点、マーフィーの文法書は、英語を母国語としない人が英語を学ぶ際、一番重視する必要がある点、躓き易い点を中心に編集されています。伝統的な文法書のように、「名詞」、「動詞」、「文型」のような章分けを取らず、全145章(英国版:3rd Edition)中、最初に時の表現だけで25章を費やしています。その後、助動詞と仮定法が10章です。それだけ動詞部分の形が重要だということです。受験のための英語はリーディングと訳が中心なので、受験のための英語だけしか勉強していないと、時や助動詞の微妙な使い分けがいかに大切、かつ難しいかということに気がつかない人も多いでしょう。「なんでこんなに時の説明が多いの」と書店で不思議に思い、買うのを思いとどまる人がいるのが目に見えます。たしかに、

I have lost my wallet.も、

I lost my wallet.も

日本語にすると「財布を失くした」ですから、訳読だけを英語学習だと思い込むと、自ずと違いを学習する動機が薄れるというものです。マーフィーの文法書の右ページでは、上の各文の末尾にyesterdayがつけられるか、this morningならどうか、という練習問題がたくさん出てきます。それも、自習というより、教室で声を出して練習する形になっています。

ちなみに、各見開きごとに一章。左ページが解説、右が問題です。この構成は、有名な、I氏著の大学受験向け文法書の構成と同じですね。イラストも飾りではなく状況を判断して使い分ける問題に組み込まれています。

マーフィー 見開き例このように、構成だけ見ても今までの英文法書とはまったく違うのがマーフィーの文法書ですが、使っているうちにその限界にも気がつきます。しかし、限界があるからって、この書を貶めることにはなりません。マーフィー書を無視して英語を教えることは、今の日本では不可能ではないかとさえ思います。「独占」を恐れるほどです。それでも、マーフィーを知らない英語の先生が結構いるというというが不可解です。学生ではもっと多い。上の時の表現で述べたように、持っていてもこの本の意義を理解していない人にも多く出会います。

と、前提した上で、この本の限界をまず2点。

(1) 日本人向けに書かれたものではない。

(2) 紙に書かれたものである。

(1)について、マーフィーさんはロンドンで外国人に英語を教える経験からこの本を書いたと思われますが、そこではあらゆる母国語を持った人に共通する問題を扱っていたはずです。そのうち、中東、インド方面からの生徒が多かったと推察しますが、日本人は少数派であったにちがいありません。ですから、日本ごにはない、欧米語、とくに、英語に著しい疑問文の倒置構造についての練習はありません。最近、英語スクールで扱った「僕に何を手伝って欲しいの?」=What would you like me to help you with?など、なかなかすぐ言えませんが、マーフィーの本は練習の助けになりません。

英語スクール(2)は、なんだ?!、と思う人がいるでしょう。あまりに当たり前のことは頭に浮かばないものです。それは、言語は「音声」だということ。文字に書かれた言語は、それを写したものに過ぎません。人類始まって以来、音声だけの言語を持っている民族はいくらもいたでしょうが、文字言葉しかない民族はいなかったということは、確かめてみる必要はありません。さすがのマーフィーの本もここに大きな限界を持っています。上で、右ページの問題を声を出して練習する形になっている、それに、イラスト付だとも述べました。たしかにマーフィーさんも努力していますが、限界は否めません。やけに「限界」を強調するではないか、という声も聞えてきそうですが、じつは、現在、この限界を超えるのは不可能ではないからです。それは、インタネットを使うことです。カーンアカデミー(註)のような、マーフィーのネット版が出たら、そのサイトは大人気になることはまちがいないでしょう。

最期に、といいますか、じつは、これからが考察の課題になるのです。マーフィーの文法書は学習の手順が示されないという特徴があります。各章は、その時々、疑問に思ったり、間違いやすかったりするところを紐解いて見るという形が好ましく、通読するには適しません。I willとI am going toの違いは?、asの使い分けはどうするのだろう、couldとwas(were) able toの違いは、had betterとshouldの違いは?という疑問には、単に抽象的な説明だけでなく、直観的に間違わないようにするための適切な問題が右ページにあります。しかし、何をどういう手順で学習するか、何を優先し、何を後回しにするかは示されません。まあ、たしかに、時と動詞を優先すべきだというメッセージは強く伝わりますが、具体的にどうカリキュラムに組むかは分かりません。英語の先生でマーフィーを知らない人が意外に多いということの理由の一つはそれかも知れません。

さて、当ブログの「新英語学習、教授法」の章は、マーフィーの文法書を常に念頭に置きながら、何をどういう順序で、それに、もっと本質的なことですが、英語学習の中で英文法をどう具体的に関連させるか、さらに、もっともっと本質的なことですが、日々の学習活動、言語活動のなかで、「英文法」の位置づけるかを考えて行きたいと思います。

註:米国で、銀行員のカーンさんが始めた、電子黒板を使った数学、理科教室サイト。