外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

英語教育と国語教育:木下是雄さんを悼む 国語教育と英語教育の架け橋

2014年07月30日 | 木下是雄:国語教育と英語教育の架け橋

英語教育と国語教育:木下是雄さんを悼む 国語教育と英語教育の架け橋

理科系の作文技術今年の5月、たしか読売の夕刊の書評欄に、木下是雄著の『理科系の作文技術』(中公新書)について、「大変意味のある本であるが、「論文盗用」などをしないようにするには、この本以前の心構えが必要だ」、というようなことが書いてありましたが、見当違いだなあと思った記憶があります。

1981年に発行されて以来、物理学者が書いたこの書は、いわゆる文系に属する、井上ひさしや、丸谷才一が評価したこともあって、その後毎年、4月には大学の近くの書店では平積されるロングセラーとなっています。単なる理系の人のためのハウツーものではなく、一つの日本語論になっているということ、国語教育に一石を投じたという点で、根強い評価が継続しています。

しかし、この書の、どの類書とも異なっている点は、文章は読み手のために書くものだという姿勢が終始貫かれ、この書のどこを紐解いても、著者のその主張が強く感じられる点です。これは、「うまく文章を書きたい」などと思って、この書を手にする人の頭をコチンと叩いてくれるものです。或る意味で、それは倫理的態度というもので、「作文技術」という書名で、ハウツーものの外見を装いながらも、この書をそれとはまったく違うものにしています。冒頭の読売の書評者はそのことに気がついてのではないかと思うのです。

リポートの組み立て方もっとも、この書の持つ本質は、この書評を書いた人だけでなく、他の多くの人にも十分意識されていないと思います。たしかに、単なるハウツーものでないというということをぼんやりと理解している人は多いようです。ですから、この本を読んで或る種の感情的効果が心に生まれ、個人的に人に、「良い本だ」と薦めるということはよくあるようです。

しかし、木下さんの提起した国語教育論が、議論を呼び、教育の実践において改革をもたらすという動きは、初版がでてから33年もたつのに、目だっていません。その理由は、文章を書くことが他者との関わりであるというこの書の趣旨が十分意識化されてからではないかと、私はにらんでいます。書くということは、読み手の時間をもらい、読んでいただく、ということの切実さがまだ日本人にはないからかもしれません。「読ませる文を書くために!」などという、取りようによってはかなり傲慢なキャッチフレーズを出版社が用いても、傲慢だと感じる人はほとんどいません。

と、こんなことを考えていたら、上の書評が書かれた5月19日の一週間前の5月12日に木下さんが亡くなられたということを偶然に知りました。享年94歳でした。その書評には木下さんの逝去はまったく触れられていません。私が知ったのは英語教室の生徒さんに、『理科系の作文技術』と、木下さんが書かれたもう一冊の書、『リポートの組み立て方』(1990)の重要性を、ウイキペディアで検索して説明していたときのことです。

谷崎、木下今、英語での発信ということが急に言われて、あたふたしている人が多いようですが、そういう人には、まず、この本を読むことを薦めたいと思います。英語で発信するということは、日本語を母国語としている我々にとっては、英語という他者を相手にするということです。その点で、日本語で文章を書くという行為と英語で書く、話すという行為は連続しているのです。それとも、日本語で書くことは内輪のつきあいで、英語だけが他者とでもいうのですか...。英語を書く際の難しさの何割かは日本語で文章を書く際の困難と共通しているということは、語学で格闘してる人ならみな知っていることです。じっさい、木下さんがこの本を書くきっかけになったのは、日本人の英語論文を添削していて、問題は狭義の英語ができる、できないということではなく、日本語能力に問題があるからだと気がついたからだそうです。

英語教室でも、大学の社会人講座、それに一度依頼された「高校、大学連携授業」の場でも感じたことは、まだまだ道は遠いということです。「発信」などという言葉に振り回されるまえに、木下書発刊以来、33年もたっているということを深甚に考えてみる必要があるのではないでしょうか。

工場最後に、木下さんの『リポートの組み立て方』の、パラグラフ内の「中心文」、つまり「トピック・センテンス」を論じた章から三つの「例文」を見ていただきましょう。大学の社会講座などで、皆さんにどれが好きですかといつも問いかける文章です。どれが正しいというのではありません。書く側が同じことを考えていても、書き方によっては、読み手に異なる効果を与える、ということを考えていただくための例文です。みなさん、どう思われますか。私は多くの皆さんのさまざまな反応を経験して来ました。選んだ理由もいろいろ聞いています。ここでそれを述べると先入観を与えてしまうことになりますから、書きません。皆さんの意見を聞きかせてください。ちなみに、1990年の頃に書かれた内容と日本の現状を比べると、予想が当たっているところとあたっていないところがあって面白いですよ。

 


日本は工業化社会から情報化社会に移り変わりつつある。かつて日本製が世界を席巻したカメラやテレビは、韓国・台湾などが主生産国になりつつある。自動車も同じ道をたどりかけている。やがて日本は、製品ではなく技術(すなわち情報!)を生み出し、輸出することによって経済力を維持することになるだろう。


かつて日本製が世界を席巻したカメラやテレビは、韓国・台湾などが主生産国になりつつある。自動車も同じ道をたどりかけている。やがて日本は、製品ではなく技術(すなわち情報!)を生み出し、輸出することによって経済力を維持することになるだろう。日本は工業化社会から情報化社会に移り変わりつつある。


かつて日本製が世界を席巻したカメラやテレビは、韓国・台湾などが主生産国になりつつある。日本は工業化社会から情報化社会に移り変わりつつある。自動車も同じ道をたどりかけている。やがて日本は、製品ではなく技術(すなわち情報!)を生み出し、輸出することによって経済力を維持することになるだろう。

木下是雄:『リポートの組み立て方』(1990)より

★上から3つめの写真は、谷崎潤一郎と木下是雄

 

 

 

 


英語で理科、数学:「実験教育」はうまく行っているのでしょうか?

2014年07月25日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

英語で理科、数学: 「実験教育」はうまく行っているのでしょうか?

この記事の内容は、シリーズ・タイトル「英語で理科、数学」から少々逸脱します。「英語で~」の部分ですが、抜けています。しかし、現在担当してる小学校6年生には、「英語で理科、算数」を教えているので、タイトルどおりのエッセイもこれから書くと思います。

今回は、「理科」の部分のみの話題です。

ちょっと細かく、長い内容です。理科教育へ関心のない方は飛ばしてください...、と書こう思ったのですが、理科教育の意義について、皆さん考えていただくきかっけになると思いますので、国語や、英語の先生にも、読んでいただきたいと思います。

もみじ坂青少年センター神奈川県の公立中学では、昔、横浜市の、もみじ坂にある青少年センターというところで、全県の中学生が一度実験授業に参加するという慣わしがありました。ひょっとしたら今でも行われているかもしれません。学校の理科室ではふだんできない実験を生徒に体験させるためです。私はそこで銀メッキの実験を体験しました。しかし、その実験がどういう意味を持っているのか、じつは、皆目分かりませんでした。今でもその実験を覚えているのは、その意味が分からなかったからです。(記憶している理由には、もみじ坂には、前川國男の名建築が打ち並んでいることに感動したこともあるかもしれません。)

ところで、現在、子供の科学リテラシーを高める、という目的でしょうか、理科の理科の実験実験を薦める書籍、講演会などが大変目に付きます。しかし、中学生のときの体験を思い起こすと、ほんとうにこうした実験教育が機能しているのかどうか、どうしても疑いの目をもって見てしまいます。

なんのために実験をするかとういことが横に追いやられて、光ったり、色が変わったりということで子供を驚かしているだけではないか、という疑いです。実験はある仮説を確かめるために行うわけですが、その仮説の方は忘れられて、耳目を驚かすようなことだけが行われているとしたら、それは「実験教育」と言えるのでしょうか。

そういう実験教育の現場を見学に行っているわけではないので、確かなことは言えませんが、最近、科学技術の専門家、2名の方に伺ったことから、私の疑いは、より濃厚になりました。

それは、こういうことです。


シェーレ冒頭に書いたように、小学校6年生の子、一人に「英語で理科」を行っているのですが、そこで、「空気は元素か」という問題が生じました。その昔、西洋では、多くの人が、この世のあらゆるものは、空気、火、土、水という4元素から成り立っていると考えている時代がありました。しかし、18世紀に、スウエーデンのシェーレという学者が、<空気が、常に同じ割合で、性質の異なる二種類の「空気」に分かれる>ことを示しました。片方の「空気」のなかでは燃焼が起きませんでしたが、もう一方の「空気」のなかでは激しい燃焼が起きたのです。つまり、空気が元素でないことを証明し、四元素説を否定したのです。今では、燃焼が起きない方の「空気」はほぼすべて窒素、激しい燃焼が起きる方の「空気」は酸素として知られています。現在の元素説は、この実験から開かれたので、これはとても重要な実験です。

シェーレは硫肝水という液体に、空気の一部を吸収させるという方法をとりました。残った「空気」を入れたフラスコを逆さにして水面につけると約1/3ほど水がフラスコの中に上がってきたというのです。消えた1/3は硫肝水のなかに入ってしまったのです(実際は1/5のはず)。燃焼が起こらなかのは、この残った空気(窒素)です。一方、硫肝水に吸収された方の空気(酸素)の中では激しい燃焼が起きることも確かめました。

ロウソクの燃焼実験さて、シェーレの実験を再現しようとしたのですが、硫肝水は手に入らないので、脱酸素剤という薬品で実験を試みました。しかし、どうも、うまく行きません。そのことを、その二人の、世間で理系とみなされている方に伝えたら、コップを逆にして中でロウソクを燃やす実験をしてみたら、と言われました。水面につけておくと、しばらくすると火が消え、その後、水が上がって来るということです。それは燃焼によって、酸素のみが空気中からなくなったからなので、これで、空気が二つに分かれる、つまり元素でないことがわかる、ということでしょう。

皆さん、そう思われますか...。

 

どうも怪しい。ろうそくは酸素がゼロになるまで燃え続けるのでしょうか。少し酸素が減ったら消えると考えた方がよいのでは。私たち人間も、空気中の酸素が減っただけで苦しくなって死んでしまうのですから。

二つ目に、ロウソクが燃えた後、酸素は炭素と結びついて、空気中で、二酸化炭素として存在するはずです。

二つ目の疑いに対しては、二酸化炭素は水に溶けるのでやはり空気は減るのだという説明をうけました。大気圧に反して急に水に吸収されるのでしょうか。

どうも、怪しい...。実は、火を消した後、水面が上がることは確かめたのですが、これを小学生に、酸素と窒素が分離するからだと説明することにはためらいを覚えていました。ネットにもこの実験はいくつか出ているのですが、何故そうなるかということについては明快な説明がない。(だったら、なぜアップロウドしているのでしょうか。)

もやもやした状態で、紀伊国屋書店で立ち読みしてた時、左巻健男さんという方の書かれた本に、「ロウソクの火が消えると酸素はどうなる」という章があったので、さっそく読んでみました。そこには、ロウソクが消えたとき、酸素がもとの20%ほどから、16~17%になるだけなので、水面が上がる主な理由にはならない、と書いてありました。水面が上がる理由は点火後、膨張した空気が火が消えた後収縮したためだそうです。(その本は買いました。)

そうか!。左巻さんの言うことを信じれば、先の二人の説明は、やはり間違っていることになります。j左巻さんによると、この実験には間違った説明が多いということです。でも、左巻さんの意見を確かめるにはどうしたらよいのでしょう。

う~ん。そうですね。密閉したビン内で点火してみたらどうでしょう。

アイアン ウール 酸素そんなことを考えていながら、インタネットで、今度は英語で探してみました。おお、すると日本語の何倍もの化学教育関連のサイト、動画があるではありませんか。そのなかに、Percent Oxygen in Airという動画があり、そこには、試験管に、お酢に浸したスティール・ウールを押しこんで、水面上に立てておくと、20%だけ水面が上がる実験が映し出されていました。そうか、もう一度、スティール・ウールを使うか、東急ハンズに行って脱酸素剤を購入して試みて見ましょう。一週間かかる実験だそうです。

しかし、これで空気が元素でない証明が「証明終わり」になったわけではありません。水面上に残った「空気」と、酸化鉄の酸化を解き、つまり還元して、そこから出た「空気」(重さはさびで増えた分と同じはず)の性質が違うことを示す必要があります。水面上に残った「空気」(主に窒素)の中で燃焼は起きません。かたや、さびを還元した時でた「空気」(酸素)の中では激しい燃焼が起きるはずです。やはりシェーレさんと同じ水準の実験は無理でしょう。ラヴォアジエはもちろんのこと、18世紀の人は偉かったとつくづく思います。

その小学生には、残念ながら、実験の一部しか見せることはできないでしょう。あとはインタネットにたよるしかありません。あまり教育上好ましいことではありませんが...。

ラヴォアジエさて、今回の件では、何が問題だったのしょうか。科学、技術の専門家は必ずしも原理的に考えていないのではないか、と疑われることです。加えて、実験の意味が学校教育で十分生徒に伝わっているか、という点に関しての疑いも、前より強まったということです。

自然科学にしろ、自然科学と見なされない分野にしろ、疑うこと、確かめることはとても大切なことです。理科教育はそういう態度を養うのに役に立つではないかと思います。もう少し詳しく言うと、理科教育の目的は、主に三つあるのではないかと思っています。今回の件で、その考えが強まり、ブログに書くことにしたのです。その三つとは以下のとおりです。

① 第一に、仮説と実験を通して、疑う、確かめるという態度を養うこと。

② 疑いながらも粘り強く調べるということ。

③ 第三には、確かめたことを自信を持って言うということで、明朗な自我を形成すること。

より詳しくはまたあとで論じたいと思っています。理科の先生だけでなく、理科以外の先生の意見を伺いたいと思います。

●一番下のイラストは、ラヴォアジエ翁、実験の図

 

 


言葉は正確に: B社の個人情報漏洩は「性善説」だったからか?

2014年07月24日 | 言葉は正確に:

言葉は正確に: B社の個人情報漏洩は「性善説」だったからか?

 

孟子ことわざや言い回しは便利なもので、何か事件があった時、それらの表現を当てはめて説明すれば、「そうだ、もっともだ」と頷いてくれることも多いでしょう。「性善説」、「性悪説」という言葉もその例であると言えます。

いわく、「国際関係は性善説では理解できない」、「性悪説では相手のかたくなな態度をほぐすことはできない。」

どちらの表現に接しても、たいていの人はもっともだと思います。、「なんだこりゃ」というような「違和感を覚える」人はほとんどいないでしょう。しかし、よく考えてみると、「性悪説」と「性善説」は矛盾概念です。こちらを立てれば、あちらがたたずという概念です。「大」と「小」なら、「中」がありますが、性善説と性悪説の中間というものはありません。「人間、いい面も悪い面もあるよね」というのだったら、性善説、性悪説という言葉を使う理由がありません。

性善説、性悪説そのとき分かった気持ちにしてくれるのがことわざ、言い回しというものでしょう。「渡る世間に鬼はなし」と言われれば、「そうですよね」と言う人が別の機会に、「人を見たら泥棒と思え」と言われて、「そのとおり、世間はそういうものだ」と納得することはそんな不自然なことではありません。

しかし、なんとなく納得してしまって、問題を解決することを忘れていしまうこともあるのではないでしょうか。今世間を騒がせているB社の個人情報漏洩事件でも、「性善説の限界」という新聞の見出しがありました。実際は、もしその社の人に「お宅は、性善説だったのがいけなかったのではないですか」と問えば、たしかに「いや悪意を持って情報を持ち出す人には厳しい姿勢を取っています」と答えるかもしれません。もっとも、世間の声を気にするので、そんな答えは返ってはこないでしょう。でも内心ではね...。

この問題の本質は、アウトソーシングではないでしょうか。性善説、性悪説とは関係ないところに問題の本質があるように思います。秘密というものは漏れるものです。どうしても秘密を守らせたかったら、限られた人をとても大切にしつつ、できたら、血判を押させるぐらいのことをしなければならないと思います。しかし、現今の自由競争のもとでは、「秘密保持」と「経費削減」という対立が生じた場合、後者の方に非常に傾きやすい。ですから、この事件はそれほど特殊なものではなく、これからも起きるでしょう。しかし、アウトソーシングの基本的な方向を封じるような方向は是が非でも避けたいでしょうから、防ぐことは難しいことです。

いや、もっと本質的な問題が潜んでいるかもしれません。法人というのは、個人では担えきらない責任を引き受ける虚構として大変よくできた制度(個人としての人は死にますので)ですが、匿名性という欠点を本質的に持っています。ですから、近代の本質に根ざす法人ということの限界を深く考えなければ秘密漏洩を防ぐことはできません。

アウトソーシング具体的には、どうするのか。たとえば、秘密保護責任者、数人にのみアクセス権を限って、その人の名前を公表する、などの方法をとるしかないでしょう。そうすると、会社組織の一体性が崩れますね。でも...、それでも完全に秘密を保持することなどできないのではないでしょうか。

今回の事件は、それでも、個人の預金がなくなるとか、人死にがでるとか、そいういった実害が少ないので、まあ、それほど深刻に考える必要はないのかもしれません。ある編集者いわく、テレビを見ていたら、「今回の個人情報漏洩は恐ろしいことです」とインタビューを受けている人が、顔をテレビの画面にさらして、名前も出していたと指摘していました。まあ、ですから、感情を昂ぶらせて語ることではないのかもしれませんが、それだけに、これを機会に、冷静に問題を深く考えてみてもよいのではないでしょうか。

おっと、ことわざ、言い回しで問題の本質が見えなくなる、という本稿のテーマから逸脱したようです。いつものことですが、ひらにお許しを。


 


K記者の英語嫌いの理由は...。

2014年07月11日 | シリーズ:日本人の英語

K記者の英語嫌いの理由は...。

ドンキホーテ


新聞記者は公人なので、固有名詞を出していいかなと、とも思いましたが、直接面識がないので、K記者としておきましょう。

ドンキホーテを語りながら、自由闊達に現代と思想を語る連載エッセイの最近回の末尾に、このような一節がありました。

こんな私が平成日本でもっとも哀れに思うのは、「世界市民」でありたいと口にする人々である。そして、英会話学校の広告を目にするたびにこうつぶやく。「英語は金もうけしたいやつらにまかせておけ。オレは魂の問題を考えているのだ」

そして、その末尾の文章の直前には、このような一節。

 近代とは抽象の時代と言い換えてよいだろう。現実に生起する複雑な事象を抽象化し、合理的・効率的に判断する。それが科学技術の猛烈な発展を促した。それは慶賀すべきことではあるが、「肉と骨の人間」までも抽象化され、観念的な存在として捉えられるようになった。マルクスの階級理論などはその典型ではないか。こうした近代化の流れに強い危機感を抱いたからこそ、ウナムーノは《発明は彼ら(英米人)にまかせておけ》と言い放った、と私は思っている。

なるほど。「英語」は、血肉を伴わない抽象的な近代の象徴なのです。血肉を伴わないから、「金儲け」があからさまに感じられる、品のない「英会話学校」の広告に嫌悪を覚えるということでしょう。まことに健全な感覚だと思います。ちなみに、ウナムーノとは、スペイン人であることを深く考えた哲学者。『ドン・キホーテとサンチョの生涯』(1904)で著名です。

ところが、このコラムの二回後には、Kさんは同じシリーズ、インド映画「マダム・イン・ニューヨーク」についてこんな感想を述べています。

マダム イン ニューヨーク(英語ができない主人公の)目に飛び込んできたのが、「4週間で英語が話せる」という英会話学校の広告だった。各国からやってきたクラスの仲間とともに英会話を学びながら、彼女はひとりの人間として自信を取り戻していく…。

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日本の英会話学校の広告を見て、拒絶反応を起こす自分が、どうしてこの映画を素直に受け入れることができたか。それは彼女の動機に金もうけをしたいとか、知的アクセサリーを増やしたいといった物質主義の匂いがなかったからかもしれない。

元来、他国語の学習は、理解できない、伝えられないという大きな壁を越えようとする崇高は人間の試みなのです。キリスト教徒であれば、バベルの塔が崩壊したと神が人間に課した試練というでしょう。どの学問分野を極めるのにも劣らない努力です。それは、他者を理解し、理解してもらうという人間が生まれてから背負っている課題と連続しています。その点で、いつも述べているように、国語の学習と英語の学習は連続してるのです。「英会話」なるものが日本社会で帯びたヴェールを取り去って、言葉の本質に気がつかせてくれたのが、この映画なのでしょう。私も見てみようと思います。