外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

言葉は正確に:日米戦争の終結に際してのコミュニケーション・ギャップ

2015年03月22日 | 言葉は正確に:

言葉は正確に:日米戦争の終結に際してのコミュニケーション・ギャップ

ヤルタ会談前回、及び3回前ののブログで、「日本人は他者の存在に対して鈍感なのではないか」という考えを述べました。そのきっかけとなったのは、ピーターセンの新著でした。そこでは、英語の教科書で日本人が勝手に「作文」している例がいくつも挙げられていました。英語学習の初期に覚えるべき文章が誤っていると、その後の英語学習に影響しますから事態は重大ですが、そのことはさておいて、人様の言語を勝手に変えていい道理があるわけがありません。(左上の写真は1945年のヤルタ会談)

言語は相手が「分かってなんぼ」。「相手に合わす」という言い方をすると、付和雷同のように聞こえるかもしれませんが、自分の意見を通すためにも、まずは相手に合わせて言葉を使わなければことは叶いません。「意、自ずと通ず」などと言っていないで、冷静に、かつ熱意を込めて相手に理解させる努力がなければ、国家間の外交というものも危ういものです。

ポツダム宣言日本の新聞1945年、日米戦争末期、1945年7月26日にポツダム宣言が連合国軍によって発表されました。内容は、「全日本軍の無条件降伏」を求めるものでした。それに対し、鈴木貫太郎総理大臣は、記者会見で、「共同聲明はカイロ会談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」(『鈴木貫太郎伝』同編纂委員会編 昭和35年)と述べたとされます。実際に、「黙殺」と言ったのか、「ノーコメント」と言ったのを新聞が「黙殺」と書いたのか、議論があるようですが、「黙殺」ではなく、「黙殺する」という表現が、翻訳される過程で、igonreとなり、時を経ずして、reject、turn downという語で、欧米のメディアに伝えられていったのは確かです。

「黙殺する」ことと「黙殺すると言う」ことは意味が違います。終戦前の交渉の場面では、以下の三つの言語しか可能ではありませんでした。

①拒絶する

②ノーコメントと言う

③受諾する

それ以外の表現は日本と連合国との交渉の場面では通用しません。敵は「拒絶したらもっと痛い目に合わす」という姿勢でいるはずです。②と解釈してくれるだろうなという希望的観測(wishful thinking)で「黙殺」する」と言ったら、①と取られる場面です。

「黙殺する」は、普通の日本語では「無視する」。それの辞書的な訳はignoreです。ignoreは、①、②、③しか解釈の余地のない状況では、①と解釈されてしまいます。

責任は鈴木首相にあったのか、迫水書記官長にあったのか、日本の新聞社か通信社にあったか分かりません。しかし、この危機的な場面で、日本人は言語の使用について甘かったという点は否定できないと思います。

この発言の直後、何が起きたか。原爆投下です。この発言自体が原爆投下の引き金となったのかどうか確かなことは分かりませんが、ことの重要性を際立たせる事態です。

ポツダム宣言黙殺①

 

 左の写真は、映画『日本の一番長い日』からコピーしたものです。見出しは、Japan Ignores Surrender Bid; Plane Plants go Underground
(日本は降伏の申し出を無視。飛行機工場は、地下に)と読めます。

 

 

 

ポツダム宣言②

 

 

右の新聞は、私の持っているもっと大きな画像によると、Japan Officially Turns down alliied Surrender Ultimatum (日本は連合軍の降伏するようにとの最後通牒を断った)と書いてあります。


言葉は正確に:「実践的英語力」、「地方主権」、「真理」

2015年03月17日 | 言葉は正確に:

言葉は正確に:「実践的英語力」、「地方主権」、「真理」

 

今日は、三つの、日本語の表現の曖昧さについて取り上げましょう。ここで言う曖昧さとは、英語のambiguity、つまり「2つ以上の意味の取れる」という意味です。なんだかぼおっとしているとういう意味の"vague"とは少し違います。

高校生の英語グラフ先ほどラジオのニュースで、高校3年生の「実践的英語力」を調べる全国規模の学力検査が、文部省の手によって行われて、高校生の「実践的英語」が思いのほか低かった(あるいは、「予想通りに」か...)ということを述べていました。

そのことを聞いて、「ああ、思ったとおりだ」という感想を持つ人が多いと思います。いや、「ああ、思ったとおりだ」という感想を聞き手が持つだろうと予想して、そういう表現を使ったに違いありません。

しかし、「実践的英語力」とは何のことなんでしょう。 また、「実践的でない英語力」とは何を意味しているのでしょう。「実践的英語力」というからには「非実践的な英語力」というものがどういうものか分かっているはずです。原稿を書いた人に尋ねたいですが、聞いたとしたら、何度聞いても、たぶん、「受験英語」であるとか「文法中心」であるとか、世間で言われていることが、鸚鵡のように返ってくるのではないかと私は推測します。

では、「受験英語」というわれるものが非実践的なのですか、と訊いたらなんと応えるでしょうか。当然だ、と言うのでしょうか。言葉につまるのでしょうか。受験で英語の成績がそこそこによい人に訊いて意見を集約しているのでか、世間には大学受験レベルの英語でも不得意な人が大多数なのですが、そういう人の意見が影響していないですか、と問い詰めることもできるでしょう。

おそらく、「実践的英語力」という言葉の意味を考えずに記者は原稿を書いているのでしょう。大学受験で問われる、文献を読むため英語力=非実践的、そして「英会話」=実践的という漠然とした(vague)な通念によっかかって言っているのではないか、と私は推測するのです。

(通念といものは広告にとってはとても大切ですから、上記の通念に基づいて大きなお金が動いていることも知っている人もかなりおられるでしょう。)

世間には、このように、意味を考えずに、周りに受け入れられるだろうと思い、あるいは、周りに拒否されて村八分にされたくない、という不安に駆られてでしょうか、あまり意味を考えずに言葉が使われることが多いようです。そういう表現を使うと、そのとき、発言した人は周りに人に好かれるかもしれませんが、その言葉を基にして行動する第三者が迷惑を被ります。そこまで考えて言葉を使うべきでしょう。

たしかに、言葉には仲間内であることを確認するという大きな機能の一つがあります。しかし、まだ見ぬ、仲間ではない第3者にも言葉は届くのです。政治や科学のように、その第三者へ届く範囲が広い言葉においては、とくに注意したいことです。ところが、曖昧な言葉が案外流布していることがあるものです。そのことがひどくなると人々が言葉に次第に鈍感、あるいは麻痺するようになるのではないかと恐れます。

地方主権「地方主権」という言葉もその一つです。主権という、sovereignityの訳語は法律が成立する一番の根拠となる存在のことを意味します。つまり、「地方主権」と言ったら、その地方は日本国と合い並ぶ独立国ということになってしまいます。たぶんこの言葉を作った方は、「地方分権」ではイメージが弱いから、もっと周りに人に受ける言葉を作ろうということで、こう言ったに違いありません。しかし、高校の社会科で習うような基本的で、しかも重要な概念を、たんに周りに受けるからという理由で違う意味で使ってよいものでしょうか。作った人の言語感覚が麻痺しているのではないかと疑われます。

数日前の新聞には、もっとひどい例がありました。ある犯罪団体が、「真理」という言葉を、小学生への布教活動で使っていたそうです。ランドセルを背負った、にこやかな、いかにも無害そうな小学生のイラストとともに、教祖が、「君たちは、真理という言葉を知っているかい」などと、優しげな言葉で語りかける音声教材があるそうです。小学生は、言葉の形成が大人とは比較にならない速さで行われる年代です。しかし、最初は、周りはこういうからそうだと、疑いもなく言葉を受け入れることからスタートします。それに対する疑いもまた徐々に芽生えて来るでしょうが、その過程は、具体から抽象のはしごを一歩一歩踏まえていくことで行われます。その過程を無視して、「ハンバーガー」や「遠足」という概念と並んで、「真理」というきわめて抽象性が高い概念を押し付けられたら疑う術がありません。

リポートの組み立て方木下是雄さんは、真理概念の数歩手前にある「事実」の概念についてこんなことを述べています。

「事実の記述と意見とを異質のものとして感じ分ける感覚をこどもの時から心の奥底に培っておくことが何より大切である。この感覚が抜けている人は、科学、あるいはひろく言って学問の道に進むことはむずかしい。またこの感覚がにぶい人はたやすくデマにまどわされる。」(『リポートの組み立て方』筑摩文庫版p.42)

こうしたステップを踏まえながら、だんだんと抽象的な概念を人間は使えるようになるのでしょうが、「実践的英語力」、「地方主権」、それに「真理」などという言葉を無神経に使う人は「こどもの時」にこうしたステップを踏まなかったのではないかと思います。

 


再び、ピーターセンの新著から:現行の中学の英語教科書の問題

2015年03月14日 | シリーズ:日本人の英語

再び、ピーターセンの新著から:現行の中学の英語教科書の問題

 

教材作りで忙しくしばらくブログを放置しておいたら、「広告」が入れられてしまいました。その広告は、私と意見と相容れないものなので、これはいかんということで、これから毎週末には書き換えるようにします。

ピーターセン なぜ間違うのか玉大の冬学期に、ピーターセンの新著、『日本人の英語はなぜまちがうのか?』を取り上げて、この書に書かれていることの重要性を強調しました。

前回に触れたように、中学の教科書が間違っているということは由々しいことです。毎年大学受験のシーズンになると入試問題の誤りを指摘する記事が新聞にでますが、ことの重大さにかんしては、ピーターセンが指摘する点の方が比較にならないほど大きいと思います。大学入試で、出題の間違いによって被る被害は軽微なものです。出題の間違いが原因で試験のやり直しをするなど、無駄としか思えません。何人か被害を被った受験生がいたとしても、雪で転んで受験できなかったのと同じように、運が悪かったとして諦めていただいた方がよいでしょう。

ところが、語学学習の特異性から考えて、最初に触れる教科書の文が誤っているとその先ずっと学習者に悪影響を与えることになります。しかも全国規模で。数学など、他の教科と英語が違うのはその点です。他の教科では、なんらかの間違いがあっても、他の部分、後の学習で修正されやすいものですが、英語の教科書の最初の例文は、これからの学習の土台として、頭に定着するものです。学習者の「頭を修正する」ことはとても困難なことです。

ピーターセンは仮定法(subjunctive)を使うべきところで、仮定法を使わない例をいくつか挙げていました。ただでさえ、仮定法が、非欧米語である日本語を母国語とする人間にとって習得が難しいことを考慮すると、この問題がいかに大きいかが分かります。ピーターセンが挙げている教科書の文章の一つは以下の一節です。

Interviewer: ... Why did you stop singing?

Agnes: Because I wanted to study child psychology. It was very hard for me to be a singer and a student at the same time. So I decided to be a student.

まだ、歌手と学生を両立させることをしているわけではないので、仮の話として以下のように書く必要があります。

It would have been very hard for me to be a singer and a student at the same time. 

もし、学習指導要領に違反するということで、中学三年の教科書に仮定法を登場させることができないとしたら、仮定法が出ない話にすればよいと、常識は教えるわけですが、なぜ、こうした無理のある文を書くのか。日本人が英語をかってに変えていいのか。

どうも、日本人の発想の根底に「外国語は存在しない」という無意識的な前提があるのではないかと思いたくなります。「外国語は存在しない」ということは、「他者は存在しない」ということに通じてはいないでしょうか。そうだとすると、これからの日本人の外国語学習、また、もっとひろく外国人との付き合いにおいて、つまり外交において、いろいろな問題を引き起こすかもしれません。

いや、可能性の問題ではなく、実際、外国との言語のやりとりで日本人が外交上大きな失敗を犯した例があります。それは、次回に触れることにしましょう。

それから、もう一つ、先ほどのアグネスの一節の最後に、

So I decided to be a student.という文がありましたが、ピーターセンは冒頭のsoを取り除いています。これまた、大きな問題提起なので、追って、扱う予定です。

毎週末、更新をするよう努めましょう。