外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉の愉快な英語修行 7 五里霧中、英語に夢中の巻

2018年12月24日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

 

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福沢諭吉の愉快な英語修行  7 五里霧中、英語に夢中の巻

横浜開港地図1859年半ば以降のことですが、開港したての横浜でオランダ語が通じないことにショックを受け、改めて世が英語になったことを認識します。さて、英語学習を始めたいのですが、まったく方途が分からない。長崎から来た森山という通詞のところへ行っても安請け合いはするものの、忙しいからと言って毎回、鉄砲洲から小石川への人寂しい道のりを行ったり来たりしてもいっこうに教えてくれない。難しい手続きを済ませて、裃を着て幕府の蛮書調所という役所に行っても辞書を貸し出すことは相ならぬという始末。同じ英語を志す人を求めて、適塾の同窓生を誘っても、前回触れた村田蔵六などは「イヤ読まぬ、僕は(英語は)一切読まぬ」というような次第。神田孝平、原田敬作という蘭学者からようやくポジティヴな反応を得ます。ちなみに、原田は数年後村田が暗殺される直前に村田と大阪で鍋料理を共にしています。当時の蘭学社会はかくも小さく、お互いどこかでつながっていたようです。

英蘭辞書なんとか高価な蘭英辞書を中津藩の奥平に買ってもらって、さきに横浜で購入した「蘭英会話書」を頼りに自学自習がはじまります。諭吉の文にあたってみましょう。

(-----) サアもうこれでよろしい、この字引さえあればもう先生はいらないと、自力研究の念を固くして、ただその字引と首引(くびっぴき)で、毎日毎夜ひとり勉強、又あるいは英文の書を蘭語に飜訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました。(-----)

(-----) 始めはまず英文を蘭文に飜訳することを試み、一字々々字を引いてソレを蘭文に書直せば、ちゃんと蘭文になって文章の意味を取ることに苦労はない。 (-----)

よく、「英語学習は○○に学べ」として過去の有名人の英語学習「法」を取り上げる場合があって福沢の場合も挙げられることがありますが、このようなゼロからの学習を真似することは意味がありません。「○○に学べ」というのは何かの権威付けと新味欲しさのために、考えもなく言っている場合が多いのでご注意。

ただ、この「ゼロ」ということはいろいろなことを考えさせてくれます。現代ではあらゆる種類の教科書、参考書、番組がそろっているので、それに頼っていると何のために外国語を習得するのかを忘れてしまう、ということに気が付かせてくれます。現代では、英語学習が試験のためにだったり、ま、一番多いのは周りがやっているからというのが多いでしょう。しかし、ちょっと考えれば分かることですが、外国語学習は私たちと異なる言語を使っている人を理解するため、理解させるためです。向こうの人の考えを知るという動機なくして語学だけを切り離すのはもともと無理なことなのです。『福翁自伝』中、英語学習開始の直前には次のような記述があります。

(------) その時に主人(島村鼎甫、緒方門下の医者)は生理書の飜訳最中、その原書を持出して云うには、この文の一節がどうしても分らないと云う。それから私がこれを見た所が、なるほど解(げ)にくい所だ。よって主人に向って、れはほかの朋友にも相談して見たかとえば、イヤもう親友誰々四、五人にも相談をして見たがどうしてもらぬと云うから、面白い、ソレじゃ僕がこれして見せようと云って、本当に見ろうそくた所が中々むずかしい。およそ半時間ばかりも無言で考えた所で、チャント分った。一体れはう云う意味であるがどうだ、物事は分って見ると造作(ぞうさ)のないものだと云て、主客共に喜びました。何でもその一節は光線と視力との関係を論じ、ろうそくを二本けてその灯光(あかり)をどうかすると影法師がどうとかなると云う随分むかしい処で、島村の飜訳した生理発蒙と云う訳書中にあるはずです。

ここで言われている「難しい」というのは、語学上の問題でしょうか、内容上の問題でしょうか。その区別はつきません。たしかなのは、原文を書いた人間がある意図で書いたということです。その意図に近づくために学問的知識、普遍的論理、常識が必要、それに加えてオランダ語の知識が加わります。肝心なのは書いた人に迫ろうという意思がなければ、オランダ語も分からないということ。同じ人間が考えたのだからオランダ語の文法もこうなるはずだという見込みがあってはじめてオランダ語学習がなりたつのです。オランダ語だけを切り離してオランダ語ができるということは少し無理があります。諭吉が解読できたのは、せまい意味でのオランダ語ができたからではないでしょう。

このように考えてくると、純粋に英語能力だけを切り離して英語という科目を大学作成の入試科目からはずすということへの疑問がわいてきます。大学で何を読み、何を英語で伝えるかという目的がなくては「どういう面」を英語の試験で問うのか迷うはずです。じっさい、現行の大学入試の英語でも、で慶応き不できは、せまい意味での英語力ではなく、内容の理解力…、よく国語力と言われる能力ですね、これにかかっているのは、ある程度難しい大学入試を経験した人ならみな知っていることです。この間の報道では慶應義塾大学では、英語の入試のアウトソーシングはしないことに決めたとか。福沢さん以来の熟慮の伝統がそうさせたのか。興味のあるところです。

諭吉のゼロからの英語学習は、いつの世でも変わらない外国語学習の基本を考えさせてくれるという意味で、「福沢に学べ」ということもなりたつのかもしれませんね。

ところで、福沢が一番難渋したのが、英語の発音。

長崎から来て居た小供があって、その小供が英語を知って居ると云うので、そんな小供を呼んで来て発音を習うたり、又あるいは漂流人でおりふし帰るものがある、長くあっちへ漂流して居た者が、開国になって船の便があるものだから、折節帰る者があるから、そんな漂流人が着くとその宿屋に訪ねて行って聞いたこともある。その時に英学で一番むずかしいと云うのは発音で、私共は何もその意味を学ぼうと云うのではない、ただスペルリングを学ぶのであるから、小供でもよければ漂流人でも構わぬ、そう云う者を捜しまわっては学んで居ました。

ここではたんに漂流民となっていますが、時事新報史:第8回:政党機関紙の盛衰と福地桜痴(戸倉武之)によると、その一人はジョン・万次郎のことだそうです。漢学者、蘭学者である福沢諭吉にとって、日本語もろくに書けない漂流漁民である万次郎のことは目に入らない存在だったのかもしれません。しかし、数か月後、諭吉の命は万次郎にかかっていたかもしれない。終生諭吉はそれに気が付かなかったようです。次回は、万延元年、1860年、1月、諭吉の出世の鍵となる渡米について。咸臨丸です。

次回へ(福沢諭吉8へ)

 


福沢諭吉の愉快な英語修行 6 英語ことはじめの巻

2018年12月09日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 6 英語ことはじめの巻

前回

安政5年(西暦1855年)満21歳で適塾に入門してから諭吉の生活はあわただしく移り変わっていきます。それは、1853年にペリーが米国から来日してから急に日本中があわただしくなったのと並行に進みます。

福沢記念館1856年には、兄、三之助をリューマチで亡くし、いったんは緒方の塾での学業を諦めなければならないという事態に追い込まれますが、親戚、近所の反対にも拘らず母のとりなしで、再度大阪に戻ることがかないます。福翁自伝によると、諭吉の懇願に対し母はこう答えたそうです。

「ウムよろしい。「アナタさえそう云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前もまたよそに出て死ぬかも知れぬが、死生(しにいき)の事は一切言うことなし。どこへでも出て行きなさい」。

この母も並みの人ではなかった。『福翁自伝』に、何か所かで触れていますのでお読みください。一人の偉人が生まれるのは、偶然ではなく、この母だけでなく、亡き父の遺訓、兄、漢学塾の白石先生、緒方洪庵、こうした人たちによって育てられてきたことがわかります。

諭吉はめきめきとオランダ語の実力をつけてきますが、忘れてならないのは、13歳から5年間、みっちり漢学を学んだことが無関係ではないことです(それ以前は勉強というほどのことはしていなかったようですヨ)。孟子、孔子などの経書をはじめ、史記などの歴史書も繰り返し読みました。つまり西洋におけるフィロロジー(philology)の素養が出来ていたのです。フィロロジーという概念はいまだ日本語には定着していませんが、何語であれ古代の人の書いたものを解読することを意味し、西洋の人文学問の柱です。シナの文書であれ、オランダ語、英語であれ、人が書いたものであれば何か共通するものがあるはすだという見込みで、書いた人の精神に近づく知的営みです。諭吉にとって古代中国語であれ、オランダ語であれ、理解の骨組みは同じだったに違いありません。こうして1857年にはすでに塾頭になります。(フィロロジーは文献学と訳すこともあります。)

1858年、24歳、江戸の中津藩屋敷で蘭学を教えるよう藩命を受けます。ペリー来航から5年、九州の片田舎の藩にも「砲学」ブームが押し寄せて来た結果、漸く諭吉のような蘭学者にも日が差してきました。幕府もあわててお台場を建設した時代です。築地、中津藩の中屋敷で諭吉は蘭学塾を開くととになったのです。これが今に続く慶應義塾の最初の年とされます。

1859年、7月以降になりますが、開国したばかりの横浜に出かけます。大河ドラマなどでも扱われた場面を福沢自身に語らせましょう。

註:今回の挿絵の3つの錦絵のうち一番下のものが1859年頃の様子に一番近いそうです。

横浜居留地その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居るだけで、堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人がそこに住んで店を出して居る。そこへ行て見た所がちょいとも言葉が通じない。こっちの云うことも分わからなければ、あっちの云うことももちろん分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分らぬ。何を見ても私の知って居る文字(もんじ)と云うものはない。英語だか仏語だか一向計(わか)らない。居留地をブラ/\歩くうちにドイツ人でキニツフルと云う商人の店にぶちあたった。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。こっちの言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、ちょいと買物をしたりして江戸に帰って来た。御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、ちょうど一昼夜歩いて居たわけだ。

註:キニツフル商会はこの年陽暦で7月15日、他の外国商社に先駆けて開業。通常クニフラーと表記され、商会名をイリスと変えて2018年にても盛業中。

横浜から帰って、私は足の疲れではない、実に落胆してしまった。これは/\どうも仕方がない、今まで数年(すねん)の間、死物狂いになってオランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、さりとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。

ペリーが来て5年も経っているのですから少々脚色気味に語っているのではないかと思う方もおられるでしょうが、オランダ語に死にもの狂いになっていた日々を送っていたわけですから、気持ちがそれについていけなかったということを伝えたいのでしょう。このことは特殊語学をやった身になれば分からないでもありません。ところが諭吉の変身の速さにも注目すべきものがあります。

邂逅横浜2けれども決して落胆して居られる場合でない。あすこに行われて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居ると云うことはかねて知って居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかゝって居る、さすればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければとても何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むよりほかに仕方がないと、横浜から帰た翌日だ、ひとたびは落胆したが同時に又あらたに志を発して、それから以来は一切万事英語と覚悟をきめて、さてその英語を学ぶと云うことについてどうしていいか取付端(とりつきは)がない。

この部分を読むと英語を始めるのは至極当然のようにみえますが。当時かならずしもそうではなかったようです。英語を学習しようと呼びかけても、自分はオランダ語でいくという朋友も多かったそうです。長州出身の村田蔵六、のちの大村益次郎(靖国神社の入り口に銅像がそびえたっています)など、「イヤ読まぬ。僕は一切(英語は)読まぬ」と威張るほどでした。ここでは、習慣というものの力がいかに大きいかということが分かります。私たちの日常生活でも、りくつではわかっていてもどうしてもやめられない、ということが多いです。甘いもの、たばこぐらいならいいのですが、自動車の検査の規則に反していることは分かっていても、長年の慣行を変えられないとしたら恐ろしいことです。

横浜開港3さきほど、「福沢の変身の速さ」ということを云いましたが、正確には、福沢の場合、気持ちと理解の両方を矛盾しながらも並行して持てた、という方がよいでしょう。うすうす気が付いていたからこそ、横浜ショックをきっかけにすぐに行動に移せたのではないかと思います。矛盾する二つの面があると、ふつう人間は、都合のいい時、都合のいい面を選んで見て、他方を忘れる傾向があります。現代の防衛論論議などその典型と言えるでしょう。ところが、福沢には、両面の対立、矛盾自体が、考えと行動を先に進める力になっていると言える場合がしばしばみられます。漢学の素養と腐儒への反発、文明開化論者の面と洋学者への非難。有名な「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」という一節も、封建的な言葉で封建制度を批判しているおかしみ、があります。

さて、英語発心は1859年半ば過ぎのことながら、まことに運のよいことに、翌年早々、1860年、万延元年、1月なんと米国へ行くチャンスに恵まれます。その時までの半年に満たない期間の英語修行は、死にもの狂い...といえるかどうか、むしろ暗中模索と言った方がよいでしょう。あらゆる教材と制度がそろった現代と正反対の状況ですが、言語習得に今と違いはありません。逆に整った制度の裏に見えなくなったなにかを垣間見させてくれるかもしれません。

続く(福沢諭吉7へ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


福沢諭吉の愉快な英語修行 5 諭吉版、適塾の社会学、教育論の巻

2018年12月04日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 5 諭吉版、適塾の社会学、教育論の巻

 前回

緒方洪庵洋書突然に話が真面目になります。まず、いままで見て来た適塾の特徴をおさらいしてみましょう。

⓵ 学力の現実を見つめる

⓶ フィードバックできる

⓷ ⓵と②を踏まえてインセンティヴが生まれる

④ 写本のところでは、「欠如の補充」本能についてもふれました。

⑤ このシリーズではなく、『福沢諭吉の翻訳法」で触れたことですが、緒方先生から「読者のために訳す」ということを教わった点も忘れられません。

少ない引用でしたが、注目点が多いと思います。ところで、次の福沢の言葉は、みなさん、どう受け止めますか。

兎に角に当時緒方の書生は、十中七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのがかえって仕合(しあわせ)で、江戸の書生よりも能(よ)く勉強が出来たのであろう。(『福翁自伝』岩波文庫版 p.94)

目的がないのが勉強がよくできる理由だ、というのはどういうことでしょう。私なども、言葉の学習は他者を理解、伝達するのが目的であるとよく言っています。おかしいじゃないか、と思う人もいるでしょう。福沢が「大阪書生の特色」という小見出しで述べていることに耳を傾けてみましょう。

適塾イラストされば大阪に限って日本国中粒選りのエライ書生の居よう訳わけはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。しかるに何故ソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。もちろんその時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、それは人物の相違ではない

ではどういうわけか。先生が偉いのか。何か得になる事があるのか。どうもそうではなさそうです。以下の福沢の分析は社会学的分析と言えます。

江戸と大阪とおのずから事情が違って居る。江戸の方では開国のはじめとは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広くかつ急である。従ていささかでも洋書を解(げ)すことの出来る者を雇うとか、あるいは飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩がおのずから生計の道に近い。ごく都合のいい者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百石(こく)の侍いになったと云うこともまれにはあった。それに引換えて大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術をやろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。それゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程エライ学者になっても、とんと実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、しからば何のために苦学するかと云えば一寸ちょいと説明はない。前途自分の身体(からだ)はどうなるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、既(すで)に已(すで)に焼けに成って居る。ただ昼夜苦しんでむずかしい原書を読んで面白がって居るようなもので実にわけの分らぬ身の有様ありさまとは申しながら、... 

適塾図面と福沢は筆を進めます。ここまでの記述は、一人一人の利益ということではなく、大阪と江戸の社会構造が緒方の塾の書生気質を生み出したという推論です。社会構造とは不思議なもので、いや、人間とは不思議なもので、利益イコール、インセンティヴ(誘導)にはならないのですね。「自由」という概念を導入してもいいかもしれません。利益というものは人を誘導することもあれば、人の自由を奪うこともあるのです。しからば、その自由のもとで書生たちがどういう心持だったのでしょう。

(-----) 一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いて見れば、おのずから楽しみがある。これを一言(いちげん)すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に限ってこんな事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すと云う気位いで、ただむかしければ面白い、苦中有楽(くちゅううらく)、苦即楽(くそくらく)と云いう境遇であったと思われる。たとえばこの薬は何に利くか知らぬけれども、自分達よりほかにこんな苦い薬をよく呑む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと呑んでやると云うくらいの血気であったに違いはない。

「社会的条件」しだいで、人間、このような境地に至ることもあるのです。さらに、この「社会学」から、もっと普遍的と言える、諭吉の「哲学」、あるいは教育論が生まれます。先ほど引用した部分をもう一度ここで見てみましょう。

写本兎に角に当時緒方の書生は、十中七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのがかえって仕合(しあわせ)で、江戸の書生よりも能(よ)く勉強が出来たのであろう。

「かえって仕合で…」、つまり、ここでは目的がなかったこと自体が勉強が出来た原因だと推論、言い切っています。話を「一般化」しているのですね。つまり、このことは、単に当時の江戸、大阪の違いというにとどまらず、現代でも一考に値する発想だ、ということになります。なぜ目的がないことが勉強ができる理由になるのか。再度この問いに答えるために福沢の言葉に耳を傾けます。

ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先きばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。さればと云ってただ迂闊(うかつ)に本ばかり見て居るのは最もよろしくない。よろしくないとは云ながら、又始終今も云う通り自分の身の行末(ゆくすえ)のみ考えて、どうしたらば立身が出来るだろうか、どうしたらば金が手に入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、どうすれば旨い物を喰い、いい着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、あくせく勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中はみずから静かにして居らなければならぬと云う理屈がここに出て来ようと思う。

ところで、『学問のすすめ』にはつぎのように書いてあります。

学問のすすめ学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。(-----) されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。 岩波文庫p.12

ここを読む限り、学問には目的がなくてはならない、と読めますが、しかし、矛盾しているのではなく、こういう複雑な表現をとるところに福沢の特徴を見ることができます。自分を飾るだけでそれ以外の意味の分からない学問ではいけないという意味で、「目的がなければいけない」と言う一方で、探求心を失って処世術としての目的ばかり追いかける、という点については「目的がないのがよい」と述べているわけです。目前の外的目的に追われていれば、その目的が達成されたら学習動機がなくなります。学問は、何故?、何故?の連鎖という「内的」動機に導かれていなければ対象の理解はおぼつきません。後者の目的追及は「苦」によって彩られのは避けられないでしょう。いずれにせよ、一見矛盾しているように見えますが、福沢は、共通して、学問がリアリティを失ってはならないということを述べているのです。

あまり、「~に学べ」というのは避けたいのですが、今日本中で耳にする「学力向上」というのはこれだけのリアリティを備えているか、という反省に導かれざるをえません。個人の、学校の、あるいは、ある県の学力が上がったというとき、内心、どうしたらば立身が出来るだろうか、どうしたらば金が手に入るだろうかという以上のことが考えられているでしょうか。もちろん露骨にこのように訊けば色をなして否定するに決まっていますが...。よく東大に何人受かったかが基準になりますが、このことは何を意味するのでしょう。ここで言う「東大」とは安楽な暮らしへのゲートウエイという意味ではないですか。将来の「安楽」を代償とした「苦」を、全国一律、親は子に強いる時代です。現代における勉強の「目的」とはこんなところでしょうか。ずっと小さくなりますが、TOEICの点数を上げるために英語を「勉強」している様子を思い浮かべてしまいます。

どうも話が小さくなりました。次回、諭吉に江戸にある中津藩の蘭学塾で教えるように藩命が下ります。ペリーの来日以来、当時の日本は砲術ブームで諭吉のような蘭学者にもじわじわと日が当たってきたのです。しかし、横浜でオランダ語が通じないということを思い知らされます。

つづく(福沢諭吉6へ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


福沢諭吉の愉快な英語修行 4 手塚治虫の先祖諭吉にしてやられる、の巻

2018年12月01日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 4 手塚治虫の先祖諭吉にしてやられる、の巻

緒方 写本前回は、「とんでも」との言葉が聞こえそうなpractical jokerぶりの一端を紹介しましたが、今回もここで何か教訓めいたことが書いてあるだろうと思う方には、残念ながら、何もありませんというしかありません。そうですね。あるとすれば「他山の石」でしょうか。みなさんも道頓堀などに投げ込まれないように切磋琢磨しましょう。今回は、前回につづき、適塾時代の諭吉の仕業をもう一つ紹介します。もっと引用したくなるのですが、英語学習サイトゆえ、ここで打ち切り。次回に適塾の特徴について福沢が触れている点に焦点をあて、そのあと英語へと移ります。

適塾に手塚良庵という若者が入塾してきます。なかなか見えもあって押だしがいい。だからといって「生意気だ」といじめる風は緒方の塾にはありません。しかし、手塚にはある欠点がありました。福沢から見れば、ですが。

以下、少し長いですが、途中の註なしに載せましょう。じつに念の入ったやりようです。昔の日本語になれていただくのもこのシリーズの目的の一つです。

手塚良庵(-----) それから塾中の奇談を云うと、そのときの塾生は大抵みな医者の子弟だから、頭は坊主か総髪で国から出て来るけれども、大阪の都会に居る間は半髪になって天下普通の武家の風(ふう)がして見たい。今の真宗坊主が毛を少し延ばして当前の断髪の真似をするような訳で、内実の医者坊主が半髪になって刀を挟さして威張るのを嬉しがって居る。その時、江戸から来て居る手塚と云う書生があって、この男はある徳川家の藩医の子であるから、親の拝領した葵(あおい)の紋付を着て、頭は塾中流行の半髪で太刀作りの刀を挟してると云う風だから、いかにも見栄があって立派な男であるが、どうも身持がよくない。

ソコデ私がある日、手塚に向かって、「君が本当に勉強すれば僕は毎日でも講釈をして聞かせるから、何はさておき北の新地(遊郭のあるところ)に行くことはよしなさいと云ったら、当人もその時は何か後悔した事があると見えて「アヽ新地か、今思出してもいやだ。決して行かない。「それならきっと君に教えてやるけれども、マダ疑わしい。行かないと云う証文を書け。「よろしいどんな事でも書くと云うから、うんぬん今後きっと勉強する、もし違約をすれば坊主にされても苦しからずと云う証文を書かせて私の手に取って置て、約束の通りに毎日別段に教えて居た所が、その後手塚が真実勉強するから面白くない。

手塚良庵遊女の手紙こう云いうのは全くこっちが悪い。人の勉強するのを面白くないとは怪しからぬ事だけれども、何分興(きょう)がないからそっと両三人に相談して、「あいつのなじみの遊女は何と云う奴か知ら。「それはすぐに分かる、何々という奴。「よし、それならば一つ手紙を遣(や)ろうと、それから私が遊女風の手紙を書く。かたことまじりに彼等の云いそうな事を並べ立て、何でもあの男は無心を云われて居るに相違ないその無心は、きっと麝香(じゃこう)をくれろとか何とか云われた事があるに違いないと推察して、文句の中に「ソレあのときやくそくのじゃこはどておますと云うような、判じて読まねば分らぬような事を書入れて、鉄川様何々よりと記して手紙は出来たが、しかし私の手蹟(て)じゃまずいから長州の松岡勇記と云う男が御家流(通俗的な書体)で女の手に紛らわしく書いて、ソレカラ玄関のとりつぎをする書生に云いふくめて、「これを新地から来たと云って持って行け。併し事実を云えばぶちなぐるぞ。よろしいかと脅迫して、それから取次が本人の処に持て行って、「鉄川と云う人は塾中にない、多分手塚君のことゝ思うから持て来たと云て渡した。手紙偽造の共謀者はその前から見え隠くれに様子を窺がうて居た所が、本人の手塚は一人でしきりにその手紙を見て居る。麝香の無心があった事かどうか分らないが、手塚の二字を大阪なまりにテツカと云うそのテツカを鉄川と書いたのは、高橋順益の思付きでよほどよく出来てる。そんな事でどうやらこうやらついに本人をしゃくり出して仕舞しまったのは罪の深い事だ。

手塚 夜這い二、三日はとまって居たが果して行ったから、ソリャしめたと共謀者は待って居る。翌朝、帰って平気で居るから、こっちも平気で、私が鋏(はさみ)を持て行ってひょいと引っつかまえた所が、手塚が驚いて「どうすると云うから、「どうするも何もない、坊主にするだけだ。坊主にされて今のような立派な男になるには二年ばかり手間が掛るだろう。往生しろと云って、髻(もとどり)を捕まえて鋏をガチャ/\云わせると、当人は真面目になって手を合せて拝む。そうすると共謀者中から仲裁人が出て来て、「福澤、余り酷いじゃないか。「何も文句なしじゃないか、坊主になるのは約束だと問答の福沢、手塚を諫める中に、馴合いの中人(ちゅうにん)が段々取持つような風をして、果ては坊主の代りに酒や鶏を買わして、一処に飲みながら又冷ひやかして、「お願いだ、もう一度行て呉れんか、又飲めるからとワイワイ云たのは随分乱暴だけれども、それが自ずから切諫(いけん)になって居たこともあろう。岩波文庫 p.70

手塚良庵は漫画家、手塚治虫のひいおじいさん。手塚の漫画『陽だまりの樹』は、手塚良庵なる人物が登場する虚実交えたストーリーです。上のエピソードとともに福沢諭吉も登場するそうです。

続く(福沢諭吉5へ)