外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 1/5

2018年10月04日 | 言葉について:英語から国語へ

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 1/5

解説+原文の一部のセットと言う形をとります。

考えられる形としては、現代語訳や、註を付ける、というやり方がありますが、「解説+原文」という形での本はないのではないでしょうか。原文は文語とはいえ、普通の日本人にも十分分かると思います。

文明論の概略英訳福沢諭吉さんの英語修行について「日本人の英語シリーズ」で扱うつもりでしたが、その前に、『文明論之概略』の第一章、「議論の本位を定る事」の論理とレトリックを分解することにしました。文庫本で10ページほどですが、数回に分けます。下に福沢のテキストも少しづつ挙げますので、福沢の論理展開をゆっくり読む手助けとしてください。古い日本語が不得意という方もぜひ原文に触れてもらいたいと思います。イラストもたくさん入れました。

とても古い書であるので、たいしたことあるまいとたたをくくっている人が多いと思いますが、現在の評論家でもこれだけ、論理的で説得力のある議論を進める人はあまりいないのではないでしょうか。加えてもう一つ、現在の文章にはない大きな特徴があります。それは、音読に耐えるということです。漢語が多いので決して口語ではないのですが、文にリズムがあり、読者の頭だけではなく、耳にも訴えるのです。文明論の概略

第一章の「議論の本位を定る事」では、議論とはこのようにするのだという原則を述べます。

各論点を次の3つの要素で組み立て、それを繰り返します。三拍子の論理のリズムが心地よく響きます。例えば、A→C→B→C→Bという具合です。論理の展開が速いのでゆっくり読むことを進めます。

とりわけ、Cの比喩は、「~でなければ---である」という裏からの論理、「たしかに~は一理あるが、----」という譲歩の論理を多用します。

A: 理論的主張

B: 実際への適用 

C:  比喩や例示

冒頭3ページ分解に先立って、Cの「例示」の一例を挙げてみましょう。「A:目的としての基準が必要である」の例です。神道と仏教の論争を想定してください。現在でもテレビの「討論番組」で扱うかもしれないテーマです。福沢は神道は「現在」、仏教は「未来」を目指すとうい点で目的が違うので議論にならないと、一刀両断に切り捨てます。ある条件付きで...。あまりに乱暴だと思いますか。無知から来る即断だと思いますか。しかし、現代の討論番組であったなら、かみ合わない主張を繰り返したあと、それぞれいい点もあるね、でしゃんしゃんと終わるのではないでしょうか。福沢は、そういう状況をきらいます。福沢の主張は、唯一議論が成り立つためには、両者の主張を越えた「目的」が基準になる場合のみだということです。マスコミに登場する現在の論者たちは、これだけの論理的整合性を落ち合わせているでしょうか。きっと、福沢は、当時、議論と称して勝手なことを言い合っている状況にあいそがつきていたのではないかと想像します。

では、文庫本11ページほどの内容ですが、上の3点で分解してみましょう。今回は、冒頭3ページ弱です。

論点1.

A: 基準が必要である。

定義:「相対して重と定り善と定りたるものを議論の本位と名づく。」

C1:軽重、長短、善悪、是非

C2:背に腹。小の虫、大の虫。鶴と鰌

B: 日本国と諸藩による旧制度のどちらが大切かという基準が必要(維新はたんなる権力奪取ではないということ)

論点2.

A: 一般的なものとしての基準が必要である。

C:ニュートンの法則がなければ、船の動き、車の動きなど、ただただ箇条が増えるばかり。(法則は「本位」と同じ意味にとることができる)

論点3.

A:目的としての基準が必要である

C1:城を攻める側、守る側、敵のためか味方のためか、往く者のためか来る者のためか、目的がなければ利害得失を論じることができない。

B:現在の議論の混乱の原因は最初の目的が違うのに無理やり結果を同じようにするからである。

C2:神道は現在を説き、仏教は未来を説くのが「本位」であるので議論はかみ合うはずがない。

C3:儒学者は政権の奪取を「本位」として、和学者は「一系万代」を「本位」とするので議論がかみ合うはずがない。

C4:戦う場合、弓矢、剣の特質を論じるのも目的があいまいなので議論はかみ合わないが、小銃が現れて以来、その議論は消えた。

B:議論を解決するためには、より高次の目的を目指す新説を示し新旧の得失を判断させるしかない。

ここまでで、文庫本3ページ目(全体のp.17)です。

では、福沢さんの原文です。読みやすくするため原文にない段落を設けました。小見出しはないですが、上の分解例を読み直してから進めると分かりやすいです。

註:原文の漢字を多くかなに改めました。之(これ)、其(それ)、斯く(かく)、都て(すべて)、恰も(あたかも)、只管(ひたすら)など、論理的表現です。かなに改めることで古典への距離ができてしまいますが、昨今、はやりの現代語訳より距離が短いかと思います。その他、鰌(どじょう)のような現代ではあまり使われない漢字はかっこでかなをしめしてあります。

 

巻之一

第一章 議論の本位を定る事

 軽重長短善悪是非等の字は相対したる考より生じたるものなり。軽あらざれば重あるべからず。善あらざれば悪あるべからず。故に軽とは重よりも軽し、善とは悪よりも善しと云ふことにて、これと彼と相対せざれば軽重善悪を論ずべからず。かくの如く相対して重と定り善と定りたるものを議論の本位と名(なづ)く。

鰌 鶴諺(ことわざ)に云く、腹は脊(せ)に替へ難し。又云く、小の虫を殺して大の虫を助くと。故に人身の議論をするに、腹の部は脊の部よりも大切なるものゆゑ、むしろ脊に疵を被るも腹をば無難に守らざるべからず。又動物を取扱ふに、鶴は鰌(どぜう)よりも大にして貴きものゆゑ、鶴の餌には鰌を用るも妨(さまたげ)なしと云ふことなり。

背に腹たとへば日本にて封建の時代に大名藩士無為にして衣食せしものを、その制度を改めて今の如く為したるは、徒(いたづら)に有産の輩(やから)を覆(くつがへ)して無産の難渋に陥れたるに似たれども、日本国と諸藩とを対すれば、日本国は重し、諸藩は軽し、藩を廃するは猶腹の脊に替へられざるが如く、大名藩士の禄(ろく)を奪ふは鰌を殺して鶴を養ふが如し。

都(すべ)て事物を詮索するには枝末を払てその本源に遡り、止る所の本位を求めざる可らず。かくの如くすれば議論の箇条は次第に減じてその本位は益確実なる可し。「ニウトン」初て引力の理を発明し、凡(およ)そ物、一度び動けば動て止まらず、一度び止まれば、止まニュートンりて動かずと、明にその定則を立てゝより、世界万物運動の理、皆これに由らざるはなし。定則とは即ち道理の本位と云ふも可なり。もし運動の理を論ずるに当(あたり)て、この定則なかりせば其議論区々にして際限あることなく、船は船の運動をもって理の定則を立て、車は車の運動をもって論の本位を定め、徒(いたづら)に理解の箇条のみを増してその帰する所の本は一なるを得ず、一ならざれば則ち亦確実なるを得ざるべし。

 議論の本位を定めざればその利害得失を談ずべからず。城郭は守る者のために利なれども攻る者のためには害なり。敵の得は味方の失なり。往者の便利は来者の不便なり。故にこれらの利害得失を談ずるた城めには、先づそのためにする所を定め、守る者のため歟(か)、攻る者のため歟、敵のため歟、味方のため歟、何れにてもその主とする所の本を定めざる可らず。古今の世論多端にして互に相齟齬(そご)するものも、其本を尋れば初に所見を異にして、その」末に至り強ひてその枝末を均ふせんと欲するによって然(しかる)ものなり。

たとへば神仏の説、常に合はず、各その主張する所を聞けば何れももっともの様に聞ゆれども、その本を尋れば神道は現在の吉凶を云ひ、仏法は未来の禍福を説き、議論の本位を異にするをもって両説遂に合はざるなり。

神仏漢儒者と和学者との間にも争論ありて千緒万端なりと雖(いえ)ども、結局その分るゝ所の大趣意は、漢儒者は湯武(殷の湯王と周の武王)の放伐(追放)を是とし、和学者は一系万代を主張するに在り。漢儒者の困却するは唯この一事のみ。かくの如く事物の本に還らずして末のみを談ずるの間は、神儒仏の異論も落着するの日なくして、その趣はあたかも武用に弓矢剣槍の得失を争ふが如く際限あるべからず。

刀と銃若しこれを和睦せしめんと欲せば、その各主張する所のものよりも一層高尚なる新説を示して、自から新旧の得失を判断せしむるの一法あるのみ。弓矢剣槍の争論も嘗(かつ)て一時は喧(かしま)しきことなりしが、小銃の行はれてより以来は世上にこれを談ずる者なし。

《神官の話を聞かば、神官にも神葬祭の法あるゆゑ未来を説くなりと云ひ、又僧侶の説を聞かば、法華宗などには加持祈祷の仕来もあるゆゑ仏法に於ても現在の吉凶を重んずるものなりと云ひ、必ず込入たる議論を述るならん。されども是等は皆神仏混合の久しきに由り、僧侶が神官の真似を試み、神官が僧侶の職分を犯さんとせしのみにて、神仏両教の千年来の習慣を見て明なり。今日又喋々の議論を聞くに足らず。》

文庫本p.17

2/5につづく

 

 


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
福沢の思考法の特質 (由紀草一)
2018-10-06 11:30:46
 ブログを拝見する限り、お元気になられたようで、何よりです。

 先日、台風24号襲来の日、福沢に関する小浜逸郎氏の著書をテキストにして福沢に関する勉強会を開催しました。その報告は以下にアップしましたので、ご一読いただけましたら幸いです。
「思想塾 日曜会」」の、「しょ~と・ピ~スの会  過去の記録」のページ(URLを貼ったら、コメントできなくなってしまいました。そういうもんだったかな?)

 それにつけても、今回の記事には感心いたしました。議論、というより、それ以前の思考のありかたについて、福沢は、わが国近代初頭において、驚くべき卓見を示していた。それが、とてもよくわかりました。
 自分でわかったと思えることを簡単に言うと、
①善悪軽重はすべて相対比較上の話なのであるから、必ず比較の対象を具体的に示すこと。
②ものごとの現象面より本質を掴み、その上で「なんのために何が必要か」を明確にすること。
と、なるでしょうか。
 こういうことがきちんとできたときに、議論は生産的になるのですが、もちろん私も含めて、凡庸な頭脳ではたいへん難しいですね。
 福田恆存先生福沢評価は低かったと思いますが、それはこちらは文学者で、「西洋とは何か」の、最も本質的な問題に主に関心があったことで、ジャーナリストである警世家であった福沢には物足りなさを感じておられたのだと思います。しかしそれはいわゆる望蜀であって、「今何をすべきか」の実際的な部分に関して、福沢の言説はまだまだ有効です。

 それはそうと、今回お願いが2つあります。
(1)上記の「しょ~と・ピ~スの会 過去の記録」に、今回のと、次回以降の福沢関連の記事のURLを、「参考」とリンクすること。
(2)この記事をFacebookでシェアして、できるだけ多くの人に知らせること。
 この2点について、ご許可願います。

 では、今後もくれぐれも健康に留意しつつ、ご活躍ください。
返信する
有朋自遠方来、不亦楽乎 (yo)
2018-10-07 00:22:33
有朋自遠方来、不亦楽乎!
まだ1回目ですが、ご意見ありがとうございます。西尾幹二さんも福沢諭吉に対する評価は低かったと思います。しかし、最近の『正論』に載った西尾さんの評論では、経済学の側面を無視し、かつ現実みのない論者を批判している点をみると、西尾さんも福沢の表現へのなみなみならぬ意志をお認めになるのではないかと思います。
ご指摘のとおり、福沢書からいままでのところ、私が挙げたのは3点です。ただ私は一つ目に「基準」という福沢が使っていない概念を用いました。相対というのは対象2つに加え、3つめに基準が必要だからです。
今回、若い人に古い日本語に接してもらいたいという目的もあります。そのため下の引用部分に漫画をたくさん入れました。『現代語訳」よりいいと思うのですが...。
御許可の件、どうぞご自由に。共に考えましょう。
個人的な伝達ですが、18日には体調が許せば宇野さんのコンサートに、参る予定です。

返信する

コメントを投稿