外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

東京裁判レーリング判事と竹山道雄の英語での会話

2018年09月05日 | シリーズ:日本人の英語

東京裁判レーリング判事と竹山道雄の英語での会話

前回、袴田茂樹さんの引用で、外国人とのコミュニケーションの一面について触れました。前々回はホンダジェットの社長さんの英語を取り上げましたが、袴田さんのケースは、「では文系の人はどうなの」という問に対する一つの事例でした。しっかりしたコミュニケーション能力を持つ鍵は、理系の場合は、モノ、事実との格闘を通しての相互理解、文系の場合は共通の教養、つまり歴史と文学だというのがヒントでした。「異文化コミュニケーション」という言葉はよく聞きますが、これらの点について触れているものはなさそうです。もちろん、これは「エリート」の話で庶民は違う、という反論が予想できます。しかし、英語初級者にとってもこれらが必要だというのが私の考えです。事実を知りたいという欲求、同じ人間としての共有意識が先立たなければどうして英語を学習する動機が生まれるでしょう。

竹山道雄袴田さんの引用を導くために森鴎外、白洲次郎、戦後の知識人たちを否定的な意味で引き合いにだしましたが、では、大戦後、日本の知識人は全滅だったのでしょうか。いやそうではありません。竹山道雄(1903 - 1984)をご存知ですか。『ビルマの竪琴』の著者として有名です。ここでも、少し長い引用をします。雑誌『心』に1955年に書かれた連載をまとめた『昭和の精神史』からです。

竹山は旧制第一高等学校のドイツ語の先生。戦前、戦中の政治にはまったく関与しない立場でした。東京裁判が進行中のある日、鎌倉の海岸で、オランダ人の判事、レーリング(1906 – 1985)に出会います(記述からはそれ以前にも逢ったことがあるようにみられます)。お互い40歳前後、会話は英語で行われたようです。以下の引用ではレーリングはローリングと表記されます。(引用文は新仮名、新字)

レーリングについては9月4日の産経新聞に三井美奈記者の記事がありました。

文庫本4ページの長い引用です。この記事は以下の引用で終わります。

(-----)

極東裁判のオランダの判事のローリング氏は、あの極東裁判の判決に反対した少数の一人だった。そして私は、あの人があの反対意見をもつにいたったすくなくとも最初の動機は自分だったのだろうと思っている。

ふとしたことからローリング氏と知りあったが、裁判が進行している夏の日、氏が鎌倉の海岸の砂丘に座っているのにあった。(氏はしづかに自然の中で瞑想にふけるのがすきで、一度中秋の名月に瑞泉寺に案内したら、大よろこびだった)。それから氏は私の家に来、おりから降りだしたはげしい夕立の飛沫がふきこむ廊下で、長話をした、まだガラスは壊れていて、すぐ外に南瓜の葉が風にひるがえっていた。夜は停電だったから蝋燭を灯した。

はじめのうちは裁判の問題にはふれなかったが、ついその話となった。

「いま法廷に座っている人々の中には、代罪羊がいると思います」

私がこういうと、ローリング氏はいかにも意外そうに驚いて私を見た。たしかに判事はそれまでそういう見方をしていなかった。

それから私は、もちろん自分にもはっきり分かっているのではなかったが、いろいろと疑問に思うことをのべた。その眼目は、「圧倒的に強い勢力が国をひきずっているときに、それに対して反抗したり傍観したりしても、それによっては何事もなされなかった。あの条件の下で残された唯一の可能な道は、その勢力と協力して内からはたらくことによって、全体を救うことだった。広田氏はそれをした人だと思う」というのだった。

これは、自分の勤先の学校という小さな世界で痛感したことを、拡大した判断だった。

これをローリング氏はたいへん注意深くきいてくれた。そして、その場では何の意見ものべなかったけれども、オランダがナチスに占領された当時のことを話して、「そのように考えて行動した者がオランダ人にもいた」といった。

その次の会ったとき、氏は握手もすむかすまないかのうちに、いきなり私にこうたづねた。

「東郷をどう思うか?」

東郷外相が活躍した開戦のころには、詳しいことは何も報道されなかったのだから、私は、「何も分からない」と答えた。

このときの話はそれきりになったが、あのときの氏の特別な身ごなしがまだ私の目に残っている。それは、困難な問題の解決の端緒をつかんだという意気込みだった、と思われる。

何分にも判事が関係外の者の意見をたづねるということはないであろうから、私は遠慮してはいたが、しかし何かと話はでた。私は昭和十年前後の日本の世の中の移り変わりのことを、幾度も話した。これが全体の謎を解く一つの鍵だ、と思ったからである。そして、判事はよくあの歴史のむつかしさを嘆じていた。

こんな問答もあった。

私 - Among the accused who impress you?

氏 - All.

氏は被告の中の二人は小人物だといったが、他の人々については、その個人的能力を高く評価していた。そのある人々を、ほとんど舌を巻いてほめていた。あの当時にこういうことをきくのは、異様だった。

判決が決定する前の判事たちの会議で、ローリング氏がひとりで六時間も頑張った、という噂をきいた。判決の後に、氏は沈痛な面持ちで「グルーが広田のために最高司令官に電報をうってきた」と話してくれ、「自分はできるだけのことをしたが・・・・・・」といっていた。帰国の前に、氏はその少数意見を私にも一部くれた。この意見書の中には、私が氏にむかっていった言葉が二つ入っている。それは、「彼は魔法使いの弟子であった。自分が呼び出した霊共の力を抑えることができなくなったのである」また「もし外交官が戦時内閣に入ればそれは戦犯の連塁であるという原則がうちたてられるなら、今後おこりうる戦争の際に、戦争終結のためにはたらく外交官はいなくなるだろう」というのである。

判決は私にははなはだしい不当と感ぜられた。しかし、何分にも歴史の真相を知っているという自信はないのだから、黙っているほかなかった。

あの裁判が文明と人道の名において行われ、しかもあれだけの組織と費用をつかって、わづか数年前のことをあれほど貧弱にしか再構成できないとすれば、われわれが幾百年も前のことを数冊の本を読んで分かるわけがない。歴史というものは知りがたいものだ。 ----

こういう感にたえかねた。そしていった。

「私は法廷を誹謗するつもりはありません。しかし、私はこの十年 ---- 十五年のあいだに、じつに多くの痴愚を経験した。そして、この判決はその絶頂だという気がする」

判事は答えた。「いまは人々が感情的になっているが、やがて冷静にかえったら、より正しく判断することができるようになるだろう」

レーリング判事ローリング判事の漏らした言葉から察すると、氏はあの裁判の偏向を政治的意図からではなくて敵愾心の感情からであると考えていた。

判決の後に判事は帰国することになったが、そのあわただしいときに判決はアメリカの大審院に提訴されることとなった。判事は「もしこれが受理されたら自分はまた日本にくるが、おそらく受理はされまい」といっていた。そして、事はそうなったので、以後氏には会わない。

(------)

新潮文庫版 1958年発行 p.142 - p.146

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一文系学者の英語経験 袴田茂樹さんのエッセイから

2018年09月05日 | シリーズ:日本人の英語

一文系学者の英語経験 袴田茂樹さんのエッセイから

この記事の中心は袴田さんの記事の引用、紹介です。

夏目漱石夏目漱石が先例になったのかどうか、外国へ留学しても現地の人、とくに教養人と意思疎通を図ることなく、いわんや友人になることもなく帰国するというのが伝統になっていたとしたら困ったものです。いまでも「留学してきました」という人にそういう人が多いように思います。向こうへ行っても図書館にこもって論文の資料を集めていただけということでしょう。向こうの「知識人」(括弧がついてしまいますが…)のサロンのようなところに招かれるということもなかったのでしょうか。会話においてこそ知的活動のエッセンスが発揮されるのですから、そうだとしたら、もったいないことです。

森鴎外たしかに、有名な例外もあります。森鴎外は、ドイツでナウマンという学者と論争したという記録があります。明治期の国家を担う心意気だったのでしょうか。第二次の大戦後は、かの白洲次郎が米国人に「君の英語はなっとらん」と言ったとか。しかし、これらをもって「溜飲を下げる」感を持つ人がいたとしたら少し早とちりではないでしょうか。森にしろ、白洲にしろ、それで決して尊敬されたわけでないだろうし、ましてや同じ教養人として友情を結ぶということもなかったでしょう。自意識の強い青年に対し苦笑いをされたと考える方が自然かと思います。(こうしたことは相手の立場に立って考えるべきでしょう。)これらを念頭において、袴田さんのエッセイの一部をお読みください。

産経新聞8月20日、正論欄『わが生涯の教育と文化への疑念』(新潟県立大学教授・袴田茂樹 )より

(------) 日本のある会議で米国の人権問題の権威P・ジュビラー教授と2人で昼食をしながら話す機会があった。人権や自由と国家権力の関係について、見解が異なっていて議論になったのだが、例えば自由と権威については、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の物語、フロムの『自由からの逃走』などが話題になり、ルターの『現世の主権について』における権力観と新約聖書のロマ書の記述、イスラム教や儒教と自由といった事柄が2人の口から自然に出た。 

 短時間の対話だったが、また見解が一致したわけでもないが、お互い直観的に仲間意識を持てた。それゆえ彼はコロンビア大学の人権問題センター長として、センターを訪問するよう誘ってくれた。われわれ2人で話した問題を彼の仲間たちとも共有し、もっと話し合いをしたいと思ったのだろう。

 私は英会話は下手なのだが、意思疎通の障害にはならなかった。こう述べると学をひけらかすようだが、私の到底及ばない真の教養人や思想家の凄(すご)さを知っており、戦後教育を受けた自身の貧しさは十分自覚しているつもりだ。

 米国に長年在住の日本人が、近年米国留学する日本人は英会話達者が多いが、おかげで恥をかくことが多くなった、とラジオで述べていた。ペラペラしゃべるほどその人の空っぽさがバレるからだ。2人の孫娘が、最近2年余り国外に住んで、英語がとても上達した。そのこと自体はうれしくて褒めたが、戦後教育の反省を込めて私が彼女たちに諭したのは、日本人としての言葉と文化・教養を身につけることの大切さである。自らのアイデンティティーを確立していない者が、他者を理解できるはずがないからだ。

森鴎外や白洲二郎の時から時代が変わったと言い切っていいかどうか。袴田さんはむしろ、時代の否定的な移り行きを書いているので、これを「新しい知識人のタイプ」として紹介するのはちょっと気が引けます。袴田さんがいわゆるコスモポリタン(世界市民と訳される)かといういうと少し違うでしょう。袴田さんは世間では保守的知識人ということになっています。外からコスモポリタンと呼ばれるか、ナショナリストと呼ばれるかと関係なく、国家からも党派からも独立して自分で考えている人かどうかがが判断の基準です。そのことは、少し話せば分かるものです。袴田さんは「仲間意識」と言っていますが、本物の教養のある人どうしは、意見は対立しても、聴く耳を持っているので国境を越えて理解し合えるものです。「聴く耳」というのは古典を正確に読むとう訓練から養われるからです。袴田さんが「新しいタイプの知識人」と呼べるかどうか、判断は皆さんにお任せすることにしたいと思います。ぜひ袴田さんのエッセイ全文を産経新聞のサイトから探し出してお読みください。

次回は、白洲次郎を引き合いにだしたので、当時の「知識人」である竹山道雄(1903 - 1984)に触れます。『ビルマの竪琴』の著者として有名な人です。ドイツ語の先生ですが、英語でオランダ人の裁判官と話しています。




ホンダジェット、技術畑の社長さんの英語力

2018年09月04日 | シリーズ:日本人の英語

ホンダジェット、技術畑の社長さんの英語力

日本人としてどれくらい英語力をつければいいか、私たちの学習目標を知るのが、「日本人の英語」シリーズの目的です。

ホンダジェット1「あの人は英語ができるねえ」などとなんとなく言うことは多いと思いますが、その場合の英語力とは何か。ちょっと考えると人によってずいぶん考えが違うと思います。まずは、「英語が読める」か「英会話が得意か」ということがあります。まあ、このへんは多くの人が意識するので、「英語ができるねえ」と言ったあとで、「こないだ外人とペラペラ話していたよ」などの注釈がつくことが多いので区別している人が多いことが分かります。しかし、もっと細かくなるとけっこういいかげんなものです。プレゼンができるか、パーティーなどで和気あいあいと話すことができるか、ディベートができるか、など、ちょっと考えると水準が違うことが分かります。要するに「英語ができるねえ」と言うのはまじめに情報伝達の能力を論じているのではなく、内向きのコンプレックスを語っているのに過ぎないのでしょう。アングロフォンの人は母国語ですからだれでも英語が使えますが、そういう人は「英語ができる」とは言わない。英語が優越言語で、劣等言語である日本語の話者はただただそれに追いつかねば、という願望のみが潜在意識を占めていて、じっさいの英語の用途が頭から追い出されている、というような事情が背景にあるとしたら困ったものです。

何のために英語を使うか。このことを考えさせてくれる人をこのシリーズでは取り上げます。

近頃、ホンダの5人乗り小型ジェット機が国内でも10機売れたという報道がありました。このクラスの飛行機では性能が一番よく、世界で一番売れているそうです。藤野さんはそのホンダジェットの社長さんです。数年前に米国で許可が下りた際、The Edgeというメディアのインタビューに答えている動画があるので、見てみます。

https://www.youtube.com/watch?v=XXFTU53OuWg

00:49から、01:49までだけ、話しぶりを追っかけてみましょう。(訳と間違いらしい点はこの記事の下にあります。)

00:49
- Well, thank you so much for joining us today.

-Thank you very much.

- You’ve been involved in making aircraft for over twenty-five years. Can you tell me how initially got involved in making planes for Honda?

- I joined Honda 1984 and first two years I worked on the automotive division, research division. But one day my boss came to me at lunch time and he told me that you should go to the airplane project.

- In nineteen-ninety six Fujino was sent to Mississippi in the U.S. on a secret mission. To learn how to build a plane from scratch.

- I was told to go to the United States. Then I greeted to my professor, you know, because I was going to the United States. But at the time I couldn’t say what its assuagement was, and what I was going to do at the time. So my professor still complains that I didn’t say I was working on the airplane project at the time.

- At this moment, it was still an experimental project when -------- 01:48

聴きましたか?。

インタビューの受け答えは、気負いなく、スムーズに進んでいます。英語初級者にとくに言いたいのですが、藤野さんは日本人の英語会話力の一つの目標レベルを示していると思います。重点は、相手との会話に自然に入れるスピードがあることと、無駄なく正確であることです。たしかに下で見るように、間違いがあるのですが、これも、この人はいわゆる「英語屋」ではなく、大人になって現場でやり取りすることで身につけた英語だということを明かしています。

ホンダジェット2藤野さんは、大学では航空工学を専門にしたそうです。高校でも大学でも意識して英語を学習したことはなさそうです。ちょうどセンター試験に英語リスニングが導入されたばかりの世代でしょうか。しかし、私が見るところ、大学受験の際に英語を文法的に、論理的に読む、書く訓練をかなりしていると思います。それが、8年後ぐらいたったあと、現場で米国人たちと、やりとりするうちに鍛えられたのが藤野さんの英語ではないでしょうか。米国で精密なモノを作る、その経験には論理、数字、それに焦点についても過たないこと、速いことが要求されます。その場では、英語、日本語を越えた普遍的な言語能力とでも言うべきものが育ちます。アメリカに滞在すればいいというわけではありません。何年もいても皆目英語力が進歩しないひともたくさんいます。昔は日本製は性能がいいというだけで、売り手の英語力と関係なく買ってくれたということもその理由の一つでしょう。しかし、ホンダジェットの場合、米国人と共同でモノを作るという作業を経験したわけです。モノは勝手に動いてくれません。意を尽くし理を窮めて、アングロフォンの人と議論を尽くし、共同して初めてモノをう動かすことができるのです。

こういう藤野さんの英語にも課題がないわけではありません。日本人の英語学習者すべての最大の課題、時制と法という動詞の形と、単数、複数の区別です。とりわけ、モノを扱う場合...、もっと曖昧でない表現を使いましょう...、技術、工学分野...、ですね、この分野では、上記の二つの側面は弱くても通じさせることは可能です。そこが政治家などに要求される英語力と違う点です。下のトランスクリプトを見るとそれが分かります。しかし、私たちは逆に、ここから自分たちの英語学習の課題を読み取るべきです。

板茂アフリカ問題は「英語力」ではないでしょう。日本語以外の言語を用いる人とも、正確で、ユーモアと余裕のあるやり取りができ、そして、なにより、お互いの信頼感に基づて、共同して問題を深めて行ける人がでてきたということです。私たちは以前に、教室などで建築家の板茂さんをその例として挙げました。残念ながら、いわゆる文系の分野では意外とこういう人は出てこない。歴史、哲学、政治で日本人以外の人と微妙な点まで、肝胆相照らすという水準で共同作業を行える人がどれだけいるか。「留学」した友人の大学教師たちも向こうで学位をとってきたのに、高い知的な会話を常に行える友人がいる人を知らないようです。この点に関して、このあいだ産経新聞の『正論』欄に袴田茂樹さんが興味深いことを言っておられたので、近々取り上げましょう。 

00:49
- Well, thank you so much for joining us today.
今日インタビューに応じてくださりありがとうございます。

-Thank you very much.

こちらこそ。

- You’ve been involved in making aircraft for over twenty-five years. Can you tell me how initially got involved in making planes for Honda? 

航空機製造に25年以上携わってこられたのですが、ホンダの航空機製造に最初どうやってかかわったか教えていただけますか。

- I joined Honda 1984 and first two years I work(ed) on the automotive division, research division. But one day my boss came to me at lunch time and he told me that you (should) go to the airplane project.

私は1984年にホンダに入り、最初の2年間は自動車部門、研究部門におりました。しかし、ある日、上司が昼食時にやってきて、航空機部門に移れと言われました。

- In nineteen-ninety six Fujino was sent to Mississippi in the U.S. on a secret mission. To learn how to build a plane from scratch.

1996年、藤野さんは米国のミシシッピー州に、秘密の使命を帯びて派遣されました。ゼロから飛行機を製造かを学ぶためです。

- I was told to go to (the) United States. (Then) I greet(ed) to my professor, you know, because I go (= was going to) (the) United States. But at the time I couldn’t say what is its assignment(s) (= what its assuagement was), and what I was going to do at the time. So my professor still complain(s) that you (= I) didn’t say you (=I) work (= were working) on the airplane project at the time.

私は米国行きを命じられました。そのとき、大学の教授に挨拶に行ったのですね。米国に行くわけですから。しかし、そのときは私の任務が何なのか、何をしようとしているのか言うわけにはいきませんでした。だから、いまでも教授にあのとき君は飛行機製造に携わると言ってくれなかったではないかと叱られます。

- At this moment, it was still an experimental project when --------

当時、まだ実験段階のプロジェクトだったのですね。そのとき... 01:48

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山田太一『岸辺のアルバム』に見る40年前の英語学習観は変わったかな?

2017年08月17日 | シリーズ:日本人の英語

山田太一『岸辺のアルバム』に見る40年前の英語学習観は変わったかな?

今回のエッセイは,引用が多く、少々長いです。

今年、2017年は、山田太一作のテレビドラマ『岸辺のアルバム』が放送されてから40年になります。早稲田大学演劇博物館では山田太一展が開かれ、私も病気を押して数十年ぶり(?)に大学に行ってまいりました。

岸辺のアルバム ポスター今回のエッセイでは、『岸辺のアルバム』の最初のあたりで、中田喜子が演じる長女、田島律子に語らせる、40年前の英語学習観を垣間見てみましょう。40年前の英語観が今どう変わったでしょうか。または、変わっていない点は?。

律子は、当時「女東大」と呼ばれていた四谷にあるJ大学の一年生。この大学は秀才が集まっていることで知られているだけではなく、女子学生が都会的であか抜けている点でも定評がありました。「できる」+「美女」というセットで、他の女子大などの追従を許さず、今風に言えば「輝いて」いたのです。当時、飯田橋の日仏学院に行っていた私は、特待生の身分でJ大学から来ていたAさんを思い出します。映画にでるような「美人」ではないのですが、家柄がよく、身のこなしが洗練されていて、周りに女子学生が自ずと集まり、女王様のような「オーラ」を放っていました。その後、現閣僚の一人である政治家と結婚したところまで覚えています。ところで、ちょっと関係ないようですが、「J大学の学食ではソフトクリームを売っているんだって」、「へえ~!。違うね。」というような会話が、当時、私が通っていた大学で交わされていたものです。

個人的な話で失礼しました。しかし、以下のせりふを理解するための参考になるでしょう。ある日、田島律子は国電のなかで、山口いづみ演じる丘という、J大学の仏文科の女子学生に声をかけられます。この役柄は、じつは邪悪の権化のような抽象的な存在なのですが(ねたばれ)、この時点では律子にも、ドラマを見ている人にもわかりません。山田太一のシナリオでは、テレビドラマであるにも拘らず、身近にいるなあと思わせる人物とはまったく異質なキャラクターが折々登場します。たしかに「身近」にはいないのですが、誰の心の中にも潜んでいる存在としてです。私小説好みの日本的ドラマと決定的に異なっている所以です。

電車内。

丘:英語がお上手だと聞いて憧れていたんです。

田島:やだわ。上手ではないわ。

丘:どんなふうにお勉強なさっているのかなって。

田島:困るわ。

岸辺のアルバム 中田、山口1四谷の土手の上。丸ノ内線と迎賓館を見晴るかす。二人は歩きながら。

田島:どんなふうに、って言われても。ただ毎日暇さえあれば英語を読んだり聴いたりしているのよ。聴くって言っても、FENを聴くの。分かっても分からなくても。正直言うと私もよく分からないのだけれど。とにかくラジオは必ず聴くようにしているの。それから小説ね。英語の小説のわりに易しいのがあるでしょう。たとえば、ああ、ヘミングウェイとか。新しがっちゃだめだと思うの。粋がって、カート・ヴォネガット・ジュニアって思っている人がいるけれど、高卒程度でそういうのはよくないと思うの。もっともあなたはフランス語でしょ。

丘:いえ。英語でいいんです。

田島:フランス語も今はカセットテープなどがあるんじゃないかしら。

丘:ええ。あると思いますけれど。

田島:そういうのをお聴きになったらいいんじゃないかしら。

岸辺のアルバム 中田、山口2丘:ありがとうございます。

場所が変わって、山手線脇の小公園。丘はベンチを自分のハンカチで拭く。

丘:どうぞ。

田島:よして。そんなことしないで。

丘:卑屈かしら。

田島:そっ。もっと胸を張っていていいと思うわ。

丘:でもあなたの評判、とってもすごいんですもの。

田島:すごいって?。

丘:仏文でも話題になっているんです。秀才で、英語が抜群で、綺麗で、議論するとものすごく回転が速いって。

岸辺のアルバム 中田、山口3田島:困るわ。

丘:よくわからないのに、ラジオのFENを一生懸命聴くなんていうのも、えらいわ。

田島:急にわかる時が来るって言った人がいるの。がまんして聴いていると急に聴き取れるようになるって。

丘:そうですか?。

田島:結局、語学って根気だと思うの。毎日やるかやらないかだと思うの。

岸辺のアルバム アップダイク丘:そのご本、なんですか。

田島:『ラビット、ラン』、アップダイク。翻訳と英語と両方並べて読んでいるの。

丘:すごいわあ。

田島:べつにすごくなんかないけれど。英語が好きなことは事実ね。でもそれ以上に現実が嫌いなのかもしれない。なんでもいいから、目の前の世界から逃げるものがほしいのかもしれない。

岸辺のアルバム 中田、山越t4









画像が不鮮明で失礼しました。セリフの途中で註を入れようと思ったのですが、そんなに長くないので、このあとに、まとめておきます。どうです?。今の英語学習観と変わっていると思いますか。

英語の話に移る前に、ドラマについて少々触れておきましょう。じっさいの番組を、DVDをショップなどで借りて見ていただけると、お二人の演技がシナリオをどう解釈しているかよくわかります。渋谷のツタヤには置いてありました。

丘のせりふは、すみずみまで田島の虚栄心を引き出すことを意図しています。「すごいわ」などと言いながらサディスティックな快感を味わっています。とりわけ、ハンカチの場面などは内心とろけるような快感を味わっているはずです。視聴者はなんだか居心地が悪い感じがするのですが、理由はわからない。山口はうまく演じていると思います。もう少しあとで、律子はすべてを暴露され、辱めの儀式を被ることになり、見ている人にも直前の場面の意味が霧が晴れるように明らかになります。みなさんも、相手が下出、あるいは卑屈になると、自分が気づかないうちに、上から目線、または高飛車になっているという経験はありませんか。

さて、英語。

①FENを聴いているとある日突然わかるようになる...、と、信じている人はたしかにいました。山田太一はよく取材していますね。じっさい、そんなことはあり得ません。田島さんのように朝から晩まで英語ばかりやっている人ならそんな感じになることもあるかもしれませんが。原因はFENだけではないでしょう。リスニング能力というのが単一の「能力」であるという誤解がありますが、ちょっと考えてみても、単語を知らなければわかるわけがないのです。リスニング能力は複合的です。

②易しい小説を読む。いいでしょう。けれど小説は長いので持続できるか、です。内容を理解し、関心を持てればいいのですが。むしろ英字新聞の第一面、比較的知っている内容のものを習慣的に読むこと(TOEIC750以上ぐらいの人には苦ではない)をお勧めしたいです。

③「カセットテープをお聴きになったらいいんじゃないかしら。」J大学ではこんな敬語を学生同士で使っていたのでしょうかね。カセットテープとはなつかしい。短く区切って繰り返し聴き、声に出してみる、これは決定的に重要です。今では、VLCのようなmp3、mp4向けソフトがありますから、音声だけでなく、動画も、小さな単位で繰り返し見て、聴いたり、それに、スピードを落として学習することもできます。

④アップダイクを英日比較して読む。そうとう大脳を使いますが、教材がない希少言語などを本格的に習得する人には今も昔も必要。トロイの遺跡発掘で有名なドイツ人、シュリーマンは、古代ギリシャ語が読めるようになるために、まず、」フランスの小説を仏独対訳で読み、そのあと仏希対訳、さらに現代ギリシャ語から古代ギリシャ語へ進んだそうです。たしか一編を暗記したとか。これまた作品を好きでないととても持つものではありません。田島さんはアップダイクはお好きなのですか。いや、当時流行っていたからでしょうね。カート・ヴォネガットを粋がって読むより学習効果はありそうですが。

⑤いろいろ細かい点に触れましたが、この会話が示唆する語学学習観には、ある欠落があります。それは今もそれほど変わっていないかもしれません。それは何か。外国語というものが、理解し、理解させるための手段ではなく、日本社会での競争の道具、または虚栄心の満足のための道具になっているという点です。しかも、苦行の一種と見做されているのです。「えらいわあ」というセリフがありましたね。苦労したからえらいということでしょう。英語がコミュニケーションという現実の問題を解決する手段ではない、なにか非現実的な存在になっているのです。最後のせりふで律子がうっすらとそれに気がついていることが暗示されます。丘の「いじめ」もそれを知り尽くした上でのことです。日本国内でしか通じない外国語学習観、この虚構は『岸辺のアルバム』を通じて肥大化する「うそっぽい世界」に巻き込まれ、最終回のギリシャ悲劇的な結幕に統合されることになります。

●ここまで書いたら、山田太一さんが病気だというニュースが伝わってきました。脳出血でリハビリ中だそうです。元気になってほしいと願いながらも、昨年まで作品を書き続けてきたことを考えると少しお休みくださいとも言いたくなります。気になるのは、山田さんを継いで、テレビというメディアで「文学」(山田さんがよく使う語彙)と言えるようなドラマ書く人がいるのでしょうか、という疑問です。商業主義と言ってしまえばそれまでですが、最近のシナリオライターには、そもそも最初から表現するものを持った人がいないのではないかという疑いを持っています。

 


伊藤博文はどれくらい英語ができたか。3/3

2016年09月18日 | シリーズ:日本人の英語

 

伊藤博文はどれくらい英語ができたか。3/3

 その後、西南戦争、憲法制定、清国との交渉を通して、よく知られる、歴史の表舞台での活躍が続きます。「伊藤博文と英語」に関しては、歴史書にあまり記述が見つかりませんでしたが、拓殖大学の塩崎智さんといわれる方が、日清戦争から日露戦争にいたる時期の資料を発掘されました。以下の内容は、塩崎さんの論文に基づいたものです。(註1)

ヘンリー クルーズ1871年に遡りますが、伊藤一行(福地源一郎、陸奥宗光、中島朔太郎ら)が米国に貨幣制度の視察に赴いた際、多忙な政府関係者に代わって、公私にわたり日本人の世話を行ったヘンリー・クルーズという銀行家がいます。日本国の紙幣印刷の入札などで骨を折り、井上臨時大蔵大臣から、絹布一枚がクルーズに送られました。クルーズによると、その後も日本の要人と文通を続けていましたが、再びクルーズが史料に現われるのは1895年、日清戦争の時の、伊藤博文との往復書簡などからです。公開書簡のやりとりは、日露戦争まで続きます。

1895年10月30日、New York Tribune紙上に、A LETTER FROM MARQUIS ITO – The Japanese Prime Minister Writes to Henry Clewsという記事が載ります。そこに引用されたのが以下の伊藤博文の書簡です。(訳文は未完)

The following is Marquis Ito’s letter to Mr. Clews: Tokio,September 17, 1895

 Dear Mr. Clews: It is with a very pleasant and grateful feeling that I begin these lines. Your book, “Twenty-eight Years in Wall Street,”  which you kindly sent me, was received while I was in Kioto, where I availed myself of the scanty moments of leisure and read it with a good deal of interest. The delay in acknowledging the receipt of your thoughtful gift I trust you will attribute solely to the constant pressure of business. I now find myself doubly indebted to you by your kind letter of August 7. As I read it the memories of “good old days” vividly come up to my mind. Let me thank you for your lasting cordiality and friendship. The contents of your letter have received my careful consideration. I fully indorse your motto: “Let justice be done, though the Heavens  fall.”Japanhas no other ambition than to attain to the highest state of civilization.  She will never do violence, however slight, to the cause of justice and truth. Again  thanking you for your kind and friendly suggestion, and with my kind regards, I am, dear Mr. Clews, yours very sincerely.

 HIROBUMIE ITO.

 この時期から日露戦争に至るまで、クルーズとの往復書簡が米国の有力紙などに掲載されますが、これは日本の代表の意見を米国民に伝えるための巧みな広報活動だったと思われます。She will never do violence, however slight, to the cause of justice and truth.(「日本は、どんなに些細なものであっても、正義と真実の大義を、力で踏みにじるようなことはしません」)の部分、いや、この書簡全体の主な意図は、当時問題となっていた旅順虐殺事件を意識したものでしょう。日の丸演説の当時とちがい、英語のアドヴァイスを与えてくれる人は金子堅太郎をはじめ、ことかかなかったと思いますが、以下のような個人的ニュアンスの強い原文からは、伊藤個人の書いたものだという印象を受けます。 

ウォール街28年ウオール街30年 クルーズYour book, “Twenty-eight Years in Wall street,”  which you kindly sent me, was received while I was in Kioto, where I availed myself of the scanty moments of leisure and read it with a good deal of interest.

「お送りくださった御著書、『ウォール街での28年』は、私が京都にいる間に届き、在京中、わずかな余暇を利用して引き込まれるように読ませていただきました。」

 10年後の日露戦争時には、何度も電信で、伊藤自身が日本の立場を英語で米国人に訴えている姿が見られます。これほどのレベルの英文ですから、「中学英語」程度の英語力では、部下に下書きをさせたとしても、責任ある内容チェックはできません。そのため「中学英語に毛がはえた」程度以上の英語力はあったと考えるのが自然だと思います。ちなみに津田梅子も伊藤博文の英語アドヴァイザーだったそうです。

伊藤博文高杉晋作しかし、伊藤博文の英語において評価すべきは、たんに「~程度の英語力」ということではなく、日本語しか知らない江戸時代の人間が、日本語以外の言語を用いて、明確な意思を相手に正確に伝えることができたということです。往復書簡という、一方通行ではない言語活動がそのことを証明しています。しかも公開書簡です。ふつう、「英語ができる」と言ったとき、「英文解釈が達者」、「英文が立派である」、「会話によどみがない」という意味で、そう言いますが、その際、上の三つの一つのみを念頭において言うのがたいていです。そのどれも、「お互いに正確に理解し合う」という意味を目指して言われているわけではありません。ところが、往復書簡を見れば「お互いが正確に理解し合」っているかどうかは、一目瞭然です。その点で、福沢諭吉、ジョン・万次郎などの、維新当時の英語の達人とされる人たちとは異なる意義を「伊藤博文の英語」は持っていると思います。

註1:拓殖大学『語学研究』 122号 2010年3月 p.101

http://journal.takushoku-u.ac.jp/lcri/lcri_122.pdf

註2:写真上:ヘンリー・クルーズ、写真中:『ウォール街の28年』、写真下::中心が高杉晋作、向かって右が伊藤博文。