外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

山田太一『岸辺のアルバム』に見る40年前の英語学習観は変わったかな?

2017年08月17日 | シリーズ:日本人の英語

山田太一『岸辺のアルバム』に見る40年前の英語学習観は変わったかな?

今回のエッセイは,引用が多く、少々長いです。

今年、2017年は、山田太一作のテレビドラマ『岸辺のアルバム』が放送されてから40年になります。早稲田大学演劇博物館では山田太一展が開かれ、私も病気を押して数十年ぶり(?)に大学に行ってまいりました。

岸辺のアルバム ポスター今回のエッセイでは、『岸辺のアルバム』の最初のあたりで、中田喜子が演じる長女、田島律子に語らせる、40年前の英語学習観を垣間見てみましょう。40年前の英語観が今どう変わったでしょうか。または、変わっていない点は?。

律子は、当時「女東大」と呼ばれていた四谷にあるJ大学の一年生。この大学は秀才が集まっていることで知られているだけではなく、女子学生が都会的であか抜けている点でも定評がありました。「できる」+「美女」というセットで、他の女子大などの追従を許さず、今風に言えば「輝いて」いたのです。当時、飯田橋の日仏学院に行っていた私は、特待生の身分でJ大学から来ていたAさんを思い出します。映画にでるような「美人」ではないのですが、家柄がよく、身のこなしが洗練されていて、周りに女子学生が自ずと集まり、女王様のような「オーラ」を放っていました。その後、現閣僚の一人である政治家と結婚したところまで覚えています。ところで、ちょっと関係ないようですが、「J大学の学食ではソフトクリームを売っているんだって」、「へえ~!。違うね。」というような会話が、当時、私が通っていた大学で交わされていたものです。

個人的な話で失礼しました。しかし、以下のせりふを理解するための参考になるでしょう。ある日、田島律子は国電のなかで、山口いづみ演じる丘という、J大学の仏文科の女子学生に声をかけられます。この役柄は、じつは邪悪の権化のような抽象的な存在なのですが(ねたばれ)、この時点では律子にも、ドラマを見ている人にもわかりません。山田太一のシナリオでは、テレビドラマであるにも拘らず、身近にいるなあと思わせる人物とはまったく異質なキャラクターが折々登場します。たしかに「身近」にはいないのですが、誰の心の中にも潜んでいる存在としてです。私小説好みの日本的ドラマと決定的に異なっている所以です。

電車内。

丘:英語がお上手だと聞いて憧れていたんです。

田島:やだわ。上手ではないわ。

丘:どんなふうにお勉強なさっているのかなって。

田島:困るわ。

岸辺のアルバム 中田、山口1四谷の土手の上。丸ノ内線と迎賓館を見晴るかす。二人は歩きながら。

田島:どんなふうに、って言われても。ただ毎日暇さえあれば英語を読んだり聴いたりしているのよ。聴くって言っても、FENを聴くの。分かっても分からなくても。正直言うと私もよく分からないのだけれど。とにかくラジオは必ず聴くようにしているの。それから小説ね。英語の小説のわりに易しいのがあるでしょう。たとえば、ああ、ヘミングウェイとか。新しがっちゃだめだと思うの。粋がって、カート・ヴォネガット・ジュニアって思っている人がいるけれど、高卒程度でそういうのはよくないと思うの。もっともあなたはフランス語でしょ。

丘:いえ。英語でいいんです。

田島:フランス語も今はカセットテープなどがあるんじゃないかしら。

丘:ええ。あると思いますけれど。

田島:そういうのをお聴きになったらいいんじゃないかしら。

岸辺のアルバム 中田、山口2丘:ありがとうございます。

場所が変わって、山手線脇の小公園。丘はベンチを自分のハンカチで拭く。

丘:どうぞ。

田島:よして。そんなことしないで。

丘:卑屈かしら。

田島:そっ。もっと胸を張っていていいと思うわ。

丘:でもあなたの評判、とってもすごいんですもの。

田島:すごいって?。

丘:仏文でも話題になっているんです。秀才で、英語が抜群で、綺麗で、議論するとものすごく回転が速いって。

岸辺のアルバム 中田、山口3田島:困るわ。

丘:よくわからないのに、ラジオのFENを一生懸命聴くなんていうのも、えらいわ。

田島:急にわかる時が来るって言った人がいるの。がまんして聴いていると急に聴き取れるようになるって。

丘:そうですか?。

田島:結局、語学って根気だと思うの。毎日やるかやらないかだと思うの。

岸辺のアルバム アップダイク丘:そのご本、なんですか。

田島:『ラビット、ラン』、アップダイク。翻訳と英語と両方並べて読んでいるの。

丘:すごいわあ。

田島:べつにすごくなんかないけれど。英語が好きなことは事実ね。でもそれ以上に現実が嫌いなのかもしれない。なんでもいいから、目の前の世界から逃げるものがほしいのかもしれない。

岸辺のアルバム 中田、山越t4









画像が不鮮明で失礼しました。セリフの途中で註を入れようと思ったのですが、そんなに長くないので、このあとに、まとめておきます。どうです?。今の英語学習観と変わっていると思いますか。

英語の話に移る前に、ドラマについて少々触れておきましょう。じっさいの番組を、DVDをショップなどで借りて見ていただけると、お二人の演技がシナリオをどう解釈しているかよくわかります。渋谷のツタヤには置いてありました。

丘のせりふは、すみずみまで田島の虚栄心を引き出すことを意図しています。「すごいわ」などと言いながらサディスティックな快感を味わっています。とりわけ、ハンカチの場面などは内心とろけるような快感を味わっているはずです。視聴者はなんだか居心地が悪い感じがするのですが、理由はわからない。山口はうまく演じていると思います。もう少しあとで、律子はすべてを暴露され、辱めの儀式を被ることになり、見ている人にも直前の場面の意味が霧が晴れるように明らかになります。みなさんも、相手が下出、あるいは卑屈になると、自分が気づかないうちに、上から目線、または高飛車になっているという経験はありませんか。

さて、英語。

①FENを聴いているとある日突然わかるようになる...、と、信じている人はたしかにいました。山田太一はよく取材していますね。じっさい、そんなことはあり得ません。田島さんのように朝から晩まで英語ばかりやっている人ならそんな感じになることもあるかもしれませんが。原因はFENだけではないでしょう。リスニング能力というのが単一の「能力」であるという誤解がありますが、ちょっと考えてみても、単語を知らなければわかるわけがないのです。リスニング能力は複合的です。

②易しい小説を読む。いいでしょう。けれど小説は長いので持続できるか、です。内容を理解し、関心を持てればいいのですが。むしろ英字新聞の第一面、比較的知っている内容のものを習慣的に読むこと(TOEIC750以上ぐらいの人には苦ではない)をお勧めしたいです。

③「カセットテープをお聴きになったらいいんじゃないかしら。」J大学ではこんな敬語を学生同士で使っていたのでしょうかね。カセットテープとはなつかしい。短く区切って繰り返し聴き、声に出してみる、これは決定的に重要です。今では、VLCのようなmp3、mp4向けソフトがありますから、音声だけでなく、動画も、小さな単位で繰り返し見て、聴いたり、それに、スピードを落として学習することもできます。

④アップダイクを英日比較して読む。そうとう大脳を使いますが、教材がない希少言語などを本格的に習得する人には今も昔も必要。トロイの遺跡発掘で有名なドイツ人、シュリーマンは、古代ギリシャ語が読めるようになるために、まず、」フランスの小説を仏独対訳で読み、そのあと仏希対訳、さらに現代ギリシャ語から古代ギリシャ語へ進んだそうです。たしか一編を暗記したとか。これまた作品を好きでないととても持つものではありません。田島さんはアップダイクはお好きなのですか。いや、当時流行っていたからでしょうね。カート・ヴォネガットを粋がって読むより学習効果はありそうですが。

⑤いろいろ細かい点に触れましたが、この会話が示唆する語学学習観には、ある欠落があります。それは今もそれほど変わっていないかもしれません。それは何か。外国語というものが、理解し、理解させるための手段ではなく、日本社会での競争の道具、または虚栄心の満足のための道具になっているという点です。しかも、苦行の一種と見做されているのです。「えらいわあ」というセリフがありましたね。苦労したからえらいということでしょう。英語がコミュニケーションという現実の問題を解決する手段ではない、なにか非現実的な存在になっているのです。最後のせりふで律子がうっすらとそれに気がついていることが暗示されます。丘の「いじめ」もそれを知り尽くした上でのことです。日本国内でしか通じない外国語学習観、この虚構は『岸辺のアルバム』を通じて肥大化する「うそっぽい世界」に巻き込まれ、最終回のギリシャ悲劇的な結幕に統合されることになります。

●ここまで書いたら、山田太一さんが病気だというニュースが伝わってきました。脳出血でリハビリ中だそうです。元気になってほしいと願いながらも、昨年まで作品を書き続けてきたことを考えると少しお休みくださいとも言いたくなります。気になるのは、山田さんを継いで、テレビというメディアで「文学」(山田さんがよく使う語彙)と言えるようなドラマ書く人がいるのでしょうか、という疑問です。商業主義と言ってしまえばそれまでですが、最近のシナリオライターには、そもそも最初から表現するものを持った人がいないのではないかという疑いを持っています。

 


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