外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

英語共通試験(2021)を垣間見る:2 リーディング6問中最初の3問

2021年01月28日 | 英語学習、教授法 新...

英語共通試験(2021)を垣間見る:2 リーディング6問中最初の3問

前回は、試験問題というものの一般的な成り立ちを述べて、問題の良し悪しなどの判断基準の助けになることを意図しました。

今回はリーディングの問題全6問中の最初の3問(各問、AとBに分かれている)について。とはいえ、それほど深く検討したわけでもなく、数週間もたちますとだいぶ記憶も褪せてきますので、いくつか気づいた点をメモ程度に記しておき、また論じる際の備忘録にしたいと思います。

まず、この3問だけでなく、残りの3問、および、リスニングにおいても、表やグラフが多用されている点が特徴的です。その必要はどこにあるのでしょう。他の教科にあわせ、「実学」的ムードを持ち込むだけでしょうか。英語共通試験の場合、表、グラフは、もし日本語にしたら小学校の下級生にも分かるような易しいものです。ほとんど、時間の前後関係か人物間の関係(AがBに、か、BがAに、など)に見えます。他の教科の場合、グラフに隠された意味の読み取りが課題になっているのかもしれませんが、英語の場合、そうは見えません。問3のAは旅程の問題ですが、フローチャートを見ると各交通機関の所要時間が書いてあります。前回、それを足し算すれば全体の所要時間は分かってしまう、と述べましたが、それはちょっと言い過ぎ。じつは、本文を見ると待ち時間が書いてあるので、数字だけで選択肢を選んだら間違いになってしまいます。英語の問題なのですから数字だけで答えがでるはずがありません(それに気がつかないとね...)。もっとも、それだけの問題です。表を見て、あと、ちらりと本文を眺めれば100%自信をもって答えられます。

このように、グラフ、表を入れることで問題が易しくなっていると言えるのではないでしょうか。ちなみに、全体がTOEICとますます似てきましたね(リスニングとリーディングの時間配分もTOEICと同じく半々)。

ここで英語の入試問題は何を問う問題なのかという前回のテーマに触れることになります。私は前から、「言語学習が他の教科と違うのは、その言語の外にあるもの、つまりなんらかの現実に触れなければなりたたない点だ」と言ってきました。純粋な「英語力」なるものは測れないとも。今回の共通試験でグラフ、表を多用しているのは、一見、言語外のものに言及しているように見えますが、みな、先に述べたような簡易なもので、人工的な作り事のような印象を与えます。第一問Aは「ライン」による忘れ物の話。Bは歌手のファンクラブのニューズレター、などなど。大人が子供が好むだろうと思いそうなもので、それらはみな、高校生には、ゲーム内の絵空事のように受け止められることでしょう。我田引水で恐縮ですが、TOEFLでは、たしかに日常的な論理を問う問題はあるものの、来る大学生活の案内になる内容だったり、高校レベルの科学的知識に関する内容などに基づいています。つまり、これからの現実の世界に開かれた問題になっています。日本の英語問題とTOEFLを比較する方はあまりいないと思いますが、ぜひ見比べてもらいたい点です。

扨て、今回もう一点。前回、試験というものの存在理由として、学習の誘導ということを挙げました。その点を徹底する場合、各問題で要となる点を受験生に1年前から知らせるということもあるでしょう。しかし、共通試験後のメッセージなどにも問題の趣旨を知らせる発表はほとんどなかったと思います。ところが、今年の問題の第2問のAでは、選択肢で、factかopnionかという問いかけがあるのです。fact / opinionの判別はアメリカなどでの言語教育の根幹の一つで、木下是雄さんの『リポートの組み立て方』でも最初の方でかなりのページを費やしている主要な能力です。しかし、日本の国語教育、ましては英語教育では、事実か意見かというテーマは大きく取り上げられることなく現在に至っています(らしい)。ですから。fact / opinionを取り上げるとしたら、前回述べたような学習の誘導を行うべきでしょう。しかし、センター試験も今回の共通試験にもそういう発想はありません。このテーマを取り上げたこと自体は称賛されるべきだと思いますが、唐突にこのテーマが問われるのは、「外国で流行っているから」、という「日本人的」な思い付きがあるのではないかという疑いを抱かせます。じっさい、fact/opinionの区別に慣れている人なら、問題文を読まなくても選択肢を見るだけでおおよそ正解が分かる点から見ても、思い付きではないかという疑念は深まります。

以上、2点を挙げましたが、今回の出題に好ましい点はあるのか。英語が、あるいは英語の根底にある論理が易しく、語彙もある基準が想定されているように思える点は好ましい点でしょう。高校1年末から2年というところでしょうか。ただ、表なども含め量が多いという点はどう考えるべきか。内容は平明なので帰国子女であれば、中学生(小学生?)でもあっというまに満点が取れるように思います。ま、これも、訳読中心の学習しかしてこなかった生徒に対し、英語の文法の論理で読み、聴き進めることを促すという点で、ある種の学習の誘導が行われているとみることもできますが。

 

 

 


maybeを「おそらく」、「たぶん」と訳していいの?。

2021年01月27日 | 英語学習、教授法 新...

maybeを「おそらく」、「たぶん」と訳していいの?:コラム以前

maybeは「ひょっとしたら」、probablyは「おそらく」というふうに区別して教えることが今では主流でしょう。しかし、辞書の例文などで、Maybe, you will succeed.=おそらく君はうまく行くさ(Weblio)というような訳例がふつうにみられるので、習う側はまだ戸惑うことが多いのではないでしょうか。

maybeは、「そうでない場合もあるよ」という点に焦点があるのに対し、probablyは「十中八九」です。

"will our geust like sashimi?"と訊いて、

"Maybe."という答えが返ってきたら、刺身を出すのをやめるのが妥当でしょう。

"Probably"なら、じゃお刺身を買ってきましょうということになるでしょう。

ここで問題なのは、確率です。確率は日本であろうとアメリカ、その他どの国でもあてはまる、つまり、普遍的なことです。どうも、普遍的なことを教えるのが後回しになっているのではないか、と思うのです。

大半の日本人にとっての英語学習は「限られた」ものです。そこで何を優先して教えるか、何を後回しにするか、という課題が大きくなってきます。ですが、こうした「学習上の優先順位」が考慮されることが少ないのではないかと思います。また一つ一つ論じることにしましょう。

 


英語、共通テスト(2021)は「改善」されたか?

2021年01月16日 | 英語学習、教授法 新...

英語、共通テスト(2021)は「改善」されたか?

今日の新聞には、昨日行われた英語の大学共通テストの問題が掲載されていました。いままでのセンター試験から改善された点があるのでしょうか。

まだ問題を瞥見しただけで、他に資料もないので、上の題はいささか大げさ、今回はあまり論じられません。表面的にはTOEICに似ていますネエ。リスニングの比率がリーディングと同じ、図表が多い、などです。

ここでは、議論を進めるためのいくつかの基準を挙げるだけにしておきましょう。まず、一般的に、試験というものはどういう目的で行われるか。4つの目的が思い浮かびます。

1:定員があるので振り落とすため

2:優れた生徒を選び出すため

3:高校での学習でのでき具合をみるため

4:大学で必要とされる能力を身につけてもらうため

3という答えが返ってきそうですが、今回の試験やセンター試験を含め、日本の大学入試では、具体的な高校での学習事項が示されることはありませんでした。私はとくに、長年TOEFLの授業を大学の課外講座で担当していましたが、TOEFLでは4の意図が明白で、それにそったよい教材も公表されています。

つぎに、言語は読み、書き、聴き、話すの4つからなりたつからといって、試験問題にもその4分類が前提になるかどうか。リスニングの割合を増やす、というのは、「リスニング能力」というものがあって、それを向上させるという意図でしょうか。もし歴史であれば、アメリカ史の知識をつけてほしいからアメリカ史の問題を増やすという論理がなりたつでしょうが、言語はそう単純ではありません。そもそも言語は音声が実体です。そこから書き言葉が割り出されているのです。そういう認識があれば、リーディングとリスニングの割り振りにももう少し知恵が働きそうです。少し話が広がりますが、上の4分類以外に、日本語と英語との距離を考慮した問題というのがあってもよさそうに思いますがどうでしょう。

扨て、最後に、言語の他の教科との違いについて一言述べましょう。それは、言語は、言語外のことと関連してしか存在しないということです。アメリカ史についての知識はそれだけで完結しますが、英語は英語をとおして何かを理解する、伝えるの「何か」がなければ成り立ちません。ですから純粋に英語の問題を作るというのはがんらいむつかしいのです。もちろん、発音や文法ということは言語プロパーの問題でしょうが、リーディングの問題で、もしそれが日本語に翻訳されてもむつかしい内容なら、英語が分からないのか、内容が分からないのか区別はつきません。概して英語の先生は内容の方を振り捨てて純粋な英語の問題を作ろうとしているように見えますが、そうすると内容がとても易しい、あるいは幼稚なものになってしまいます。

今回の共通テストでは、図表が多いので、ちゃんと「言語外」のことに触れているではないかと反論を受けそうですが、とても単純なもので、日本語にしたら小学生でも解けるものばかりではないでしょうか。

以上のことを書きながら、具体例なしで抽象的に論じてもどんなものかなあ、と思っています。機会をみて具体的に論じたいと思います。

ちなみに、各問題のテーマを日常生活や学生生活にばかり求めるのはどうしたことか。TOEFLでは、高校レベルの理科の内容が多くて、参加した社会人の生徒さんたちと懐かしがって問題を解いたりしたものでしたが。

 

 


アクティブ ラーニングへの疑念、再び

2021年01月16日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

アクティブ ラーニングへの疑念、再び

2016年に「アクティブ ラーニング」に対する石井昌浩さんの批判を取り上げましたが、最近、ロシア政治、歴史の専門家、袴田茂さんがアクティブ ラーニングを批判している記事を見つけました。どちらも充実した内容なので、読者の注意を促したいので二つとも触れておきましょう。ぜひこのページの下のURLから記事をご覧ください。

教育に限らず、鳴り物入りで新しい「方法」が導入されるとき、その否定的な面は論じられることはありません。宣伝ですからある程度仕方ないことなのですが、それをどうどうと、大規模に実施に移した場合の反作用は取返しのつかないことになることが多いのは否定できません。

石井さんの評論はこのような構造的な面から、目新しさにひかれて改革に走る態度を批判したものです。

「アクティブ・ラーニングは、能動的な学習、課題解決型学習として、これまでも実践されている。ことさら外国語に言い換えて、従来行われてきた授業を意図的に「受動的な学習」と印象づけるようなやり方を、私は疑問に思う。

「改革を論じる場は例外なく、家庭や学校が置かれた現実と遠く離れたレベルの大所高所の教育論を述べ合う優雅なサロンだったからだ。」

この批判は推進側が抱いている無意識な前提を対象としているだけに、聴いても耳に入らない人が大半かもしれません。それゆえ、少しでもこの声が広く伝わるようにもう一度ここで触れておくことにしました。

袴田さんの議論は構造的議論というより、教室の現場での経験にもとづくものです。一方的な講義には反対だとしながらも、以下のように論じます。

「私のゼミなどの経験から言えることだが、討論の前には十分な基礎知識が不可欠だ。またグループ討議などでは、流行の理論も取り入れ滔々(とうとう)と論じて他を圧倒する学生もいれば、自らの拙(つたな)い考えを訥々(とつとつ)としか語れない学生もいる。
 しかし長い目で見れば、拙くても自らの考えを自分の言葉で語る者の方が、後には大きな実力を発揮する。ただ、時代の常識にとらわれず、本当の意味で「自分の言葉」で語るのは至難の業である。」

袴田さんの議論の根底にあるのは徹底した経験主義です。言い換えると、一人ひとりの人間との付き合いから導き出した卓見です。世間の通念の逆の結論につながる「長い目で見れば」の一言はおろそかにできません。

ところで、この袴田さんの評論は長年にわたるロシアでの経験に基づいています。とてもユニークな議論なのでぜひ、下のURLから読んでみてください。

大学教師終え現代教育を考える 青学・新潟県立大学名誉教授・袴田茂

http://boeinews.blog2.fc2.com/blog-entry-12358.html (2021年1月17日最終閲覧:産経のサイトではありませんが)

アクティブ・ラーニングって? 「新学力観」の騒ぎと二重写し 教育評論家・石井昌浩 (2016/10/26)

https://www.sankei.com/life/news/161026/lif1610260013-n1.html


言語技術教育って聞いたことはありますか

2021年01月03日 | 言葉について:英語から国語へ

言語技術教育って聞いたことはありますか

英語にbuzz wordという表現があります。「知的権威」を背景にした流行語のことですが、意味に乏しいというニュアンスで使われます。教育関連でも「アクティヴ・ラーニング」などつぎつぎに登場し、場合によっては現場の人を混乱させることもあるようです。「言語技術教育」という語自体は、1981年に出版された『理科系の作文技術』(木下是雄)から広まったものらしく新しいものではないですが、ここ数年ようやく中等教育の場などで見かけるようになり、これからbuzz wordになる気配がないでもありません。ここでは言語技術教育ぜんたいの説明をする前に、これから始まりそうな誤解について一言触れておきましょう。

言語技術というと、相手をいかに説得するか、もっと悪く言えば、相手をたぶらかす技術だと思い込む人が出てくるのではないかとちょっと心配なのです。

どうも「言語技術」という英語(または他の欧州語)からの訳語に問題があると思います。言語技術は英語ではlanguage artsです。language techniqueではありません。techniqueというのは、ある目的をより効率よく伝える技術という比較的狭い意味で使われるのに対し、artは、技術というより「技量」、「使いこなす能力」という幅のずっと広い意味を持ちます。artがその後「芸術」の意味にも使われるようになる素地がここにあります。相手をてっとりばやくたぶらかすという誤解は生じません。

ですから、木下の書(『理科系の作文技術』、『リポートの組み立て』:1990)でも、最初の部分に事実と意見の区別についてかなりページを費やしています。「言語技術」というより言語を正しく使う能力と言い換えてもいいでしょう。動画サイトを探ってみるとfactとopinionの違いについて子供向きに開設しているページがやまほどでてきます。それは英語圏の教科書に事実と意見の違いを峻別するようにという項目があるからでしょう。今の中学生、高校生に言語技術教育をスタートさせた場合、言語技術の根幹に横たわる、事実と意見の違いを十分に納得させているのか一抹の不安があるのです。学習院では、木下さんの音頭で中等教育向けに作られた精緻な言語技術の教材が今では一部でしか使われていないといううわさも聞いていますが、背景にはこのあたりの無理解があるのではないでしょうか。

さらに話を進めると、「言語技術教育」の背景には、言葉は通じないものだ、というペシミズム、悲観的観測が根を張っているというふうに私は思います。その件など、言語技術教育などについては次の機会にお話ししたいと思います。英語教育と言語技術教育との関係も含めて。