外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

竹内洋さんの「学部3年制」論について:大学教師の心得(三部構成の③)の番外編

2017年09月10日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

竹内洋さんの「学部3年制」論について:大学教師の心得(三部構成の③)の番外編

大学授業http://www.sankei.com/column/news/170907/clm1709070004-n1.html

(上記のURLの最終確認:2017年9月15日)

竹内洋さんの社会学的エスプリに満ちた評論はいつも拝読しています。2017年9月7日㈭付け産経新聞、『正論』欄に、『大学院進学増へ「学部3年制」を』というエッセイを掲載されました。なるほど、と思いながら、待てよ、という気持ちを捨てきれません。

■学部3年制説の論理

そこで、ブログの気安さということもあり、この評論の論旨を追いながら、問題点を見つけてみようと思います。もとより、本編『大学教師の心得』の番外として書いていますが、本編で言うべきことも書いてしまい、本編がなくなってしまう恐れなしとはしません。以下は竹内さんのエッセイの主要な論理を整理してみたものです。

① 2000年頃を境にして、大学生は自らを生徒と呼び、大学を学校と呼ぶようになった。

② その理由は、イニシエーションとして機能していたかつての厳しい大学受験がなくなり、高校と大学おの断絶をなくす措置(高大接続など)が行われるようになったからだ。

③ では、進学率15%前後だった、1960年代前半までの大学生と似た存在はいないのか。<<じつはいる。それは大学院生である。>>

④ そこで、文系学部の年限を3年にして、大学院進学者を増やす提案をしたい。

⑤ 大学院進学者を増やすことで、かつての大学卒に劣らぬ人材が育っていくのではないだろうか。

⑥ 外国では文系でも大学院修了者が多く、日本は少ないので、グローバル・スタンダードに合わせるためにも学部3年制が望ましいと思う。

⑦ 大学院修了者を増やすための供給面の施策としても、3年間が都合がよい。そうすれば、大学院への心理的距離が短くなるので進学者が増えるだろう。それにより⑤が可能になり需要も増えるだろう。

Graduate school■学部学生は「生徒」のままでいいのか

以上、形式的には論理が通っているように見えますが、形式だけで通して、「内容」には触れていないようです。それは意図的なのかもしれません。なぜ、内容に触れていないと思うか。一つには、学部教育が専門的でないからという理由で学部生が自らを「生徒」と呼ぶことを容認していることがあります。二つ目には、大学院生は、じっしつ、1960年代前半の大学生と同じ、または同じになりうるのか。年限を変更しただけで、教育の質が良くなるのか、という疑問が生まれてくるからです。年限という形式のみを論じているのです。

通常、大学生が自分を生徒と呼ぶ現象があるとしたら、新たなイニシエーションにより「青年の幼児化を防ぐ」、のような議論に進むのかな、と思いますが、そうはならない点にとまどいます。(欧米の伝統教育において、学部課程が中等教育と職業教育をつなぐ役割をしている、という点との比較はありません。)

大学院生になれば大学生らしくなるのか

学部課程の「高校化」を、あるいは「精神的な未熟」をそのまま容認したまま、次の一節をもって学部3年の根拠としています。

「いまの大学院生が進学率15%前後までの、つまり1960年代前半までの大学生に該当するかもしれない」

上記の箇条書きでは、<<------>>で断定的に示したところです。しかし、原文は「~かもしれない」です。この部分のみが学部3年制提案の根拠となっているので、箇条書きでは、あえて断定的な形に変えさせてもらいました。しかし、大学院生になったからといって「大学生らしくなる」という理由は示されていません。たぶん、暗黙の了解といういことでしょうが、評論としては「かもしれない」は不足では。

■ひょっとして、グローバルスタンダードがほんとうの理由か?

さて、⑥、⑦が、学部3年制の「傍証」の形で述べられていますが、「傍証」なのでしょうか...。このエッセイの趣旨は、「大学生らしい大学生を育成するために学部3年+大学院の制度を導入すべき」だ、と思って読み進みますが、どうも、⑥の「グローバルスタンダードに合わせるために大学院修了者を増やす」、が趣旨であるような気がしてきます。

ところで、⑦に、大学院への心理的距離を小さくし大学院へ行きやすくするという理由がありますが、「大学生らしい大学生の育成」という点から見ると、間接的な理由づけにすぎません。しかし、⑥のグローバルスタンダードに合わせるためということが目的なら、直接の理由づけになり、趣旨がよりはっきりしてきます。末尾に外国の例として、英国の文系学部が3年だという一文がありますが、それも読み手にそういう気持ちにさせます。

だとすれば、ですねえ...。この評論は、「諸外国では文系大学院修了者が活躍しているにも拘わらず、日本では少数である」から書きはじめ、学部生の高校生化は、その「傍証」にした方がよいのではないでしょうか。「...。そうすれば、大学生らしい大学生を増やすこと<<も>>できる」という具合に。

To be continued

 



『人生フルーツ』:予備校講師の心得(三部構成②)の後半

2017年09月07日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

『人生フルーツ』:予備校講師の心得(三部構成②)の後半

人生フルーツ今回、主題から外れたところからスタートします。

日、『人生フルーツ』という東海テレビ制作のドキュメンタリー番組(のちに映画館で上映)を見ました。ドキュメンタリーとしては劇場でかつてないヒットだそうです。一部では知られているものの、一般的には無名の建築家、津端修一さんと、奥様の営むクッキング・ガーデンでの生活のドキュメンタリーです。

津端さんは三十代のとき、伊勢湾台風後の復興策の一環としての大規模団地のマスタープランを任されました。それまで阿佐ヶ谷住宅などで試みた、元の地形を生かし、風の流れを重んじたデザインの集大成となるものでした。建築関連の賞も受けています。しかし、土木関連部門からの反対を受け、実行されたのは、津端さんの考えが反映されないプランでした。そういう場合、建築家は次のプロジェクトに移って、かつての計画を忘れるのですが、津端さんんは団地内に三百坪の土地を購入、雑木林を作り、そこで農業を営みながら、林を広げる運動の下支え的存在となりました。津端さんが建築家として目指したのは、たんにハードウエアを作ることではなく、住む人にとっての住環境の完成です。狭義の建築はそのための必要条件であるものの、一つの条件です。プラン自体は不採用になってもまだこの団地でやるべきことが残っている限り、やりとおすべきだと考え、その通りにしたのです。

津端さんが番組とは別のところで話していることで、とても印象深い一節がありました。

「自分のマスタープランが受け入られるかどうかは、双方の力関係で決まることで、私には関係のないことだ」

世間では「ぶれる、ぶれない」などと事々しく言上げするケースが多いですが、そういう言葉がすべて色あせる激しい物言いです。激しいのですが、それを穏やかに津端さんは述べます。

■津端さんの生き方と教育に従事する者の心得

塾産業、そして、大学においてさえも、経営者は教える当事者に対して、教育上無責任な圧力をかけます。ま、点数を上げろ、などですな。しかし、先生方、と私は呼びかけます。自分が胸を張って言える範囲を超えることをきっぱりと拒否できますか。昇給やプロモーションの誘惑を断ち切って、自分が有意義だと思うことために身を引くことができますか。もちろん、ここで可能な反論は見えています。家族を養う責任はどうするのか、周りの人への迷惑を考えろ、津端さんは特別だ、などなど。しかし、そういう反論をする方はほんとうにそう思っているのですか。たんに反論の影に身を隠そうとしているだけではないのですか。私は、ときどき、上のような質問をして相手の反応を見ることがあります。はっきり言って意地悪です。なかには、この世のしがらみと津端さんの決断の間で言葉を失い、苦悩の表情を浮かべる方がおられます。私はそういう方に、あとでお話しませんかと呼びかけます。
イチゴ

『人生フルーツ』は、2017年以降も各地で上映されています。ネットで検索してください。■

To be continued


 


予備校講師の心得:三部構成の②(①塾講師、③大学の教師の心得)前半

2017年09月07日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

 

予備校講師の心得:三部構成の②(①塾講師、③大学の教師の心得)前半

長いエッセイです。三部構成の二は2つに分割します。

しばらく前に、「塾講師の心得」というタイトルで、「利で釣って学問へ導く」という趣旨の議論をおこないました。

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=cb54bf21ef1a90f9cf42a1f54b489fb6&p=3&disp=10

学問のすすめ今回は、「予備講師の心得」がタイトルです。次回に大学の教師の心得。三篇のシリーズで、日本の教育制度の歪みを俯瞰するのが狙いです。私たちは「教育制度」にどっぷり浸っていて、ある年まで試験に受かること、そして、そのあと子供が試験に合格することのみ考えて、それ以上のことは「思考停止」状態に陥りがちです。地上で暮らしている限り地動説に気が付かないのと似たことが起きています。

三篇に分けましたが、基本は「塾講師の心得」と同じです。「利で釣って学問に導く」ということです。「塾講師の心得」を書いたとき、読者はどう受け止めるか、予想がつきました。「わからない」です。人間、世間で有望な二極対立に関しては、「自分の考え」を持ちやすいものです。憲法改正は是か非か、などが典型ですが、じっさいは「自分の意見」ということではなく、どちらかに属して安心したいと思うだけではないでしょうか。よく「思考停止」という言葉を目にしますが、こういう場合を指すのでしょう。

■教育における本音と建て前

今回の場合、多くの人の頭の中では、「塾講師」は試験の点を上げるための道具という考えが一方にあって、「学問」などというものは、きれいごとが並ぶ文に居心地よく居並ぶ単語の一つにすぎず、両者の「接点」など見えないのでしょう。加えて、「子供を塾に行かせる」ことを、将来その子供が、人がうらやむような安定した中産階級につかせたいという露骨な本音を隠して、「四角い頭を丸く」などという偽善で自分をだますことに頭のエネルギーの一部を割いているので、なおさら、理解し辛くなるのだと推察しています。

知的好奇心読まれた人のどれだけが、子供の時の自然な好奇心が「学問」につながることを理解してるかどうか、心もとないです。その好奇心が喪失は、たぶん、試験でよい点をとるという「脅迫」のもとでの勉強で起きるのしょう。『試験に出る英単語』という書名が多少のアイロニーとともに受け入れられていた頃はまだしも、『~が慶応に受かった秘訣』のようにしだいに、書名からもユーモアが失われてきました。脅迫感は好奇心の敵です。
皮肉なのは、好奇心を自然に発展させることができた少数の生徒が試験でよい成績をとる傾向あることです。もっともそういう人は、将来、責任にある地位、つまり権力にある地位につくことを厭い、社会の隅に自ら逼塞することが大正時代から今に至るまでの日本社会の通例だということです。

じっさい、塾の講師のほとんどは、学問へ生徒を導こうなどと思ってはいないこともよくわかった上で書いています。たしかに将来の教職、研究職へ就く過程のアルバイトとはいえ、まじめに生徒に向き合う人も多いのですが、まだ自分自信に確信が持てず、経営者が鉢巻をしてシュプレヒコールを挙げろと言えば、なんら恥じることなく従順に従うのがほとんどでしょう。ですから、「利で釣って学問に導く」と言っても、それは90%がた、アイロニーです。が、10%(以下でしょうが)の塾講師の方はお読みになって少しひっかかるものがあるのではないかと思っています。そう願っています。

■予備校講師の役割

さて、予備校の講師、大学の講師にも「利で釣って~」は当てはまるので、それを前提にして先へ進めましょう。

エドモンド バーク予備校の講師の場合、高校と大学の接続を行うという役割があります。以前、法政大学の社会科学系の学生の方だったと思うのですが、大学に入って、高校のときと用語が違うので授業が分からない、と言っているのを聞いたことがあります。なるほど、そうでしょう。近代史を扱う場合、高校では政権と戦争が中心ですが、それに経済的要因を加えて考えるということがありません。フランス革命の年が飢饉であったことはほとんどの生徒は知らないのです。リシュシュー、コルベイユ、ケネーなど名前だけは習いますが、これらのエコノミストがどういう問題意識をもって何をしたかは、大学受験には出題されません。ましてや、当時、フランス革命に批判的だった英国のエドモンド・バークなどは名前さえ登場しません。そのためフランス革命を過度に理想化するという事態を招くこともあるでしょう。

そこで、高校までの学習と大学での勉強がどうつながるのかを説明をする役割が必要になるのですが、どこにもそういうことをおこなう仕組みはありません。その理由は?。明快な理由があるのです。それは、戦後の学制改革です。いや、学制改革の欠如と言った方がいいかもしれません。戦前は、旧制中学から旧制高校への移行、旧制高校から大学への移行という二段の移行段階がありました。この当時は、旧制高校へ進学するのはごく限られた若者たちで、進学段階で旧制高校、大学での勉強に対して精神的に準備ができていたのです。ところが戦後、旧制中学の学習と「文化」が、名ばかりの「高校」に引き継がれ、親も、周囲にも大学卒のいない社会階層の若者がどっと大学に進学するようになったのですが、新制高校の先生は、大学での勉強がどういうものか全く教えることなく、一方で、大学の先生は、旧制高校、大学の気分で「近頃の学制は勉強しないね」と嘆くばかり。結局、高校と大学の勉強の内容、いやもっと深いことですが「動機」が形成される機会がなくなってしまったのです。「仕組みがなかった」という意味はこういうことなのです。

小西 古文の読解■1970年ごろの「受験文化」の転機

制度というものは、正式なものであれ、慣習的なものであれ、なかなか変わりません。そうこうしているうちにいわゆる団塊の世代の人たちがどっと大学受験をするようになって、予備校なるものが乱立するようになります。経営者は、上で述べたような高校と大学のギャップを埋めるという意識はまったく持っていません。金持ちになりたいというだけです。それでも、講師たちは、大学の助手、講師段階の若者が多く、なかには案外、自分の立場を理解している人がいました。○○大学にはこういう問題が出ますよ、と言いながら、大学レベルの視点で高校の勉強に新しい光を与えることも多かったのです。生徒も、「予備校の時代に学問に目覚めた」という人が多かったのがこの頃のことです。「利でもって学問へ導く」ですね。当時の予備校の先生、大学の先生が書いた「受験参考書」のなかには、今でも名著として書店の一角を占めているものがあります。教育大の小西甚一著『古文研究法』、『古文の読解』、成城大、高田瑞穂『新釈現代文』など、ちくま学芸文庫の形で「永続的な価値」があることが世間で認められています。伊藤和夫の英語参考書、○会の通信添削、『大学への数学』なども、当時の「受験文化」を代表するものでした。

■不発に終わった予備校の可能性

制度の不備を補おうという努力が個人の段階でおこなわれたのです。しかし、こうした「受験文化」も10年ほどしか続かなったと思います。1970年のころでしょうか、国立大学の教授が予備校で「アルバイト」をすることが禁じられるころから情勢が変わりました。講師も表面的な人気を狙う人が増え、なにより、経営者が利潤の拡大へ舵を切ったのです。それまでは学校法人という縛りもあり、活動が制限されていたのですが、受験生の急激な増大とともに、お金を貸す人、組織が増え、悪知恵も高度に洗練化されてきます。

当時、経営状況はよかったのですから、もし経営者が高校と大学の橋渡しをするという志を持っていれば、予備校なるものが市民権を得る道が開けたかもしれません。フランスでは、エリート校である高等師範学校へ進む人のための予備校のような組織を国家がらみで行っているようです(今はどうか?)。浪人たちは「もぐら(taupe)」と呼ばれていたそうです。この点などから、近代国家にとって、高校と大学を結ぶ機関の存在は一定の合理性があると推測できます。もし、意志さえあれば、大學受験を予備校が先導することさえできたのです。毎年の有力大学の入試問題を分析し、大學受験生にとってふさわしいかどうか精緻に判断、批判する能力を当時の予備校は持っていたはずです。しかし、そういうことはほとんどしませんでした。

■予備校の現状(前回も触れましたが)

実際は何が起きたか。いまでは、公教育と予備校の奇妙な持ちつ持たれつの関係が生じているようですが、それは教育的は理由からではありません。表(おもて)と裏という社会学的な概念で説明できるかもしれません。何人かの予備校の経営者は、「賤業意識」とでもいうのでしょうか、自らの仕事に誇りを持たず、予備校の意義を追及する代わりに、ありあまる資金で大学を設立し総長に収まる道を選んだようです。職員、教員のモラール(士気)を高める道とは言えませんねえ。

こうした状況で「利で釣って学問を伝える」道は孤立せざるをえません。そのなかで予備校講師の心得はどういうものか。そのヒントになる話を続きで述べたいと思います。

To be continued