外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

入試外注、高校国語などの混乱の真因は?

2022年01月20日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

入試外注、高校国語などの混乱の真因は?

今年(2022)も共通テストは追試問題などで混乱気味ですが、入試英語と小論文試験の外注の問題は、大山鳴動してゼロへ。加えて、高校の「現代の国語」には、従来扱わないとされた小説が復活など、昏迷の様相を深めています。

極、一般的に言って、大原則が揺らぐ場合とは、その前提となった概念が共有されていない場合です。ですから、「哲学が必要だ」などの批判の声が生まれるのです。その場合の「哲学」もなんだか怪しげなものですが。

今回の一連の件を、上のような大上段から振りかざしてチェックしてみると、「実用か文化か」という対立が共通した前提概念であると分かります。それは英語にも国語にも言えることです。

そこで「実用」とは何かを考えましょう。たぶん、旧制高校からの、気取っているが、会話にはまったく役に立たない英語、というイメージが、どうも、「実用」の対局にあるようです。いつも使われるフレーズでは、「中学、高校と6年間英語を学んだのに話せない」、「ビジネス英語には学校英語は役に立たない」などです。たしかに、戦後ある時期まで、おかしな事例もあったようです。ドイツ文学者の種村季広さんが、高校生のころ英語の先生と仲間たちで喫茶店に行ったら、端の方で占領軍兵士が女性と話している。そこで、先生もあちらに行って英語を話したらどうですか、と訊いたら、ああいう下品なパンパン英語は話す気がない、という答えが返ってきたそうです。昔の話ですがなんだかちょっぴり分かるような展開だと思いませんか。つまり、英語が、相手があっての伝達の道具であるということが忘れられて、日本社会で立場を上げるための手段になってしまっているのです。

このような話が頭にこびりついたからかどうか、その対極的なイメージにある「実用」英語というものが実際にあるかのように信じられてきたのです。しかし、ちょっと考えると「実用英語」なるものはあるのかという疑いが首をもたげます。明日航空機の予約をとるのもT.S.エリオットを読むにも共通なものが大半で、実用と非実用の線引きはそう簡単にできるものではないと私には思えます(具体的には後日に)。それとも出題者は、ある理論に基づいた区別をしているのでしょうか。または、音声と書かれたものとの違いと混同しているのではないか、「実用」といいながらまたぞろ国内向けのメッセージに過ぎないのではないか、と疑いを持ちます。

今月(2022年1月)の新聞では、高校の新教科「現代の国語」に触れていました。文科省によると、「『現代の国語』では新聞や企画書など『論理的、実用的な文章』を扱うと規定。一方、『言語文化』で載せることになった小説や詩、短歌、漢文などは『論理的、実用的な文章』から除くとして、『現代の国語』では原則として扱わない方針を打ち出していた。ところが、現場の声に押されて,『現代の国語』でも小説を取り入れた出版社が検定を通ったので、文科省の言う通りにした他の出版社との間で紛争が起きているそうです(産経1月5日)。

英語と国語の両方の問題に共通するのは、どちらも「実用」という表現に引きずられているということ、そして、すぐ変更したりするところをみると、「哲学」が欠けているということです。「実用」の意味と位置づけがあいまいなままなので、こういう事態に陥いるのでしょう。

この際、言語とは何かという基本から考える必要があるようです。言語は国語であれ、外国語であれ、自分とは違う人間の言うこと、書いたことを理解し、かつ、自分の考えを相手に伝えることです。つまり、相手があってのことです。上の国語に関する記事中に「言語文化」という表現が出てきましたが、ここでいう言語は伝達とは無関係なことのような印象を与えます。論理的、実用的な文章と言語文化としての文章は地続きで、相手の人間に対する関心に支えられているのです。そして、これが一番大切なことですが、相手の考えは分かるとは限らない、自分の考えは伝わるとは限らないということです。極端に言うと、他者の完全な理解は不可能だということです。その不可能を少しでも軽減し、相手に近づこうというのが言語活動ではないでしょうか。その点からみると、実用的な文章と文化としての文章(そのようなものがあるとして...)は相互に関連しあうことが必要で、両方のダイナミックな運動へ誘うのが言語教育ではないかと思います。

試験、指導要領という「規則」の問題であるということにも触れないわけにはいきません。受験生にとっては、どんな時代にも試験があるかぎり、試験問題はつねに、「十分条件」の相貌を持ちます。最低努力で、示されたハードルをクリアーすることだけを目指すのが受験生です。彼らにとっては「実用」とは何かなど考える余裕はありません。そういう若者に言語のダイナミック、面白さを理解してもらえるようにあらかじめ仕組んでおくのが教師の役割でしょう。

新聞の記事の末尾にはある方の意見が載せられていました。

「実用的な文章」を重視し小説掲載に厳格な国の姿勢について、明治大の伊藤氏貴教授(近代文学)は「教材観として極めて貧しい」と批判する。その上で「例えば、文学作品では共感できない登場人物も出てくるだろう。自分とは立場も考えも異なる他者の考えを精緻に読み解き、論理的に理解することができる、実用文以上に読み書きの能力を培う教材となる」と指摘している。

その怒り、もっともだと思います。

 

 

 

 


コロナ禍;真に「禍を転じて福となす」と言えるのは何か

2021年08月09日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

コロナ禍;真に「禍を転じて福となす」と言えるのは何か

「禍を転じて福となす」は、COVID-19型のウイルスが流行り出してから多くの人が口にする言葉となりましたが、本当に福をもたらすのか?。希望的願望(いわゆるwishful thinking)に過ぎないのか、疑問を覚えることもよくあります。具体性に欠けるからです。

しかし、思い浮かべると、二点、今だからこそできることがあるように思います。

一つは、科学を追及する若者にとって強いインセンティヴになるということです。科学もここまで発展してくると、一つの新しい理論に背景に膨大な知識があって、若い人が研究のスタートラインにつくまでの忍耐は大変なものになります(必ずしも苦しいことばかりでありませせんが)。でも、業績を焦って変な論文を書いてしまう若い人を見ていると、若いころから真の探求心が萎えてしまうのかな、と思わないわけにはいきません。ところが、COVID-19に関しては、まだ分からないことがたくさんあり、専門家の知見というものも素人の見方とさほど、いや、まったく変わらない場合が多いのです。2121年の8月の時点では、二種類のワクチンを打った場合の効果はどうなるのか、などありますね。私自身もステロイド剤を服用しているので、それが抗体の形成にどう影響するかを知るための被験者になっています。

すべてが素人に負えることばかりではありません。あの携帯電話の分析による人出の推定など、これはかなり統計学の前提がないと分かりません。ウイルスが「変異体にとってかわる」というのも分かりません。たぶん理学部の学生なら説明できる程度のことでしょうが。でも、これらの難しい点と「分かること」を判別すること、確実性の多寡を計測する、または見当を付ける、それに、意見が分かれていても、証明などと言っていられない場合、どこで妥協、行動に移るか、これらの判断は、ほかの分野ではもっと年をとって「えらくなってから」行うのですが、今、若い人でも目の前にある問題として考えることができるのが今回の感染禍です。中学、高校の授業でも生徒の興味を引き付けつつ生物学の授業ができるでしょう。ウイルスとバクテリアはどう違うの?、ワクチン(vaccine)という欧米語の元の意味は何なの?。今の中高生は2,3年まえの生徒より格段と深く、体系的に学ぶことができるでしょう。

さて、もう一つ。これはzoomなどのシンクロ・動画サービスの活用です。これらは大変進歩している様子で、ぴったりと音が合い、音質もいいようです。そこで、音楽関連の人にはぜひ使ってもらいたいと思います。たとえばクラッシックの合奏、オーケストラの練習をする場合、今では、一か所に集まらなくても自宅からできるようになったのです。いくつか国内、海外のサイトを見てみましたが、まだほとんどの所が実験、折衷という段階のようで、公に演奏しているケースはあまり見つかりませんでした。まだ1年ほどですのでまだ慣れていないのでしょう。(公開の場合、集金はどうするか、という問題もあります)

私が印象を受けたのは、スペインのジャズスクールによる演奏です。ホアン(=ジョアン)・チャモロさんが経営するバルセロナの市営のスクールだそうです(チャモロさんは主にベースを弾きます。容貌はあのアンクルトリスに似ています)。以下のURLではブラジルの曲を演奏しています

2020 feitiço da vila SANT ANDREU JAZZ BAND & ANDREA MOTIS & JOSEP TRAVER

https://www.youtube.com/watch?v=XtwuA-gy2N8


アクティブ ラーニングへの疑念、再び

2021年01月16日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

アクティブ ラーニングへの疑念、再び

2016年に「アクティブ ラーニング」に対する石井昌浩さんの批判を取り上げましたが、最近、ロシア政治、歴史の専門家、袴田茂さんがアクティブ ラーニングを批判している記事を見つけました。どちらも充実した内容なので、読者の注意を促したいので二つとも触れておきましょう。ぜひこのページの下のURLから記事をご覧ください。

教育に限らず、鳴り物入りで新しい「方法」が導入されるとき、その否定的な面は論じられることはありません。宣伝ですからある程度仕方ないことなのですが、それをどうどうと、大規模に実施に移した場合の反作用は取返しのつかないことになることが多いのは否定できません。

石井さんの評論はこのような構造的な面から、目新しさにひかれて改革に走る態度を批判したものです。

「アクティブ・ラーニングは、能動的な学習、課題解決型学習として、これまでも実践されている。ことさら外国語に言い換えて、従来行われてきた授業を意図的に「受動的な学習」と印象づけるようなやり方を、私は疑問に思う。

「改革を論じる場は例外なく、家庭や学校が置かれた現実と遠く離れたレベルの大所高所の教育論を述べ合う優雅なサロンだったからだ。」

この批判は推進側が抱いている無意識な前提を対象としているだけに、聴いても耳に入らない人が大半かもしれません。それゆえ、少しでもこの声が広く伝わるようにもう一度ここで触れておくことにしました。

袴田さんの議論は構造的議論というより、教室の現場での経験にもとづくものです。一方的な講義には反対だとしながらも、以下のように論じます。

「私のゼミなどの経験から言えることだが、討論の前には十分な基礎知識が不可欠だ。またグループ討議などでは、流行の理論も取り入れ滔々(とうとう)と論じて他を圧倒する学生もいれば、自らの拙(つたな)い考えを訥々(とつとつ)としか語れない学生もいる。
 しかし長い目で見れば、拙くても自らの考えを自分の言葉で語る者の方が、後には大きな実力を発揮する。ただ、時代の常識にとらわれず、本当の意味で「自分の言葉」で語るのは至難の業である。」

袴田さんの議論の根底にあるのは徹底した経験主義です。言い換えると、一人ひとりの人間との付き合いから導き出した卓見です。世間の通念の逆の結論につながる「長い目で見れば」の一言はおろそかにできません。

ところで、この袴田さんの評論は長年にわたるロシアでの経験に基づいています。とてもユニークな議論なのでぜひ、下のURLから読んでみてください。

大学教師終え現代教育を考える 青学・新潟県立大学名誉教授・袴田茂

http://boeinews.blog2.fc2.com/blog-entry-12358.html (2021年1月17日最終閲覧:産経のサイトではありませんが)

アクティブ・ラーニングって? 「新学力観」の騒ぎと二重写し 教育評論家・石井昌浩 (2016/10/26)

https://www.sankei.com/life/news/161026/lif1610260013-n1.html


コロナ期の学習課題はカリキュラムだけか?

2020年05月30日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

コロナ期の学習課題はカリキュラムだけか?

筆者が気管支炎のため1年ほどお休みしていましたが、英語教育論など、コロナ問題が生じる前にホットな話題だった時期に何も書けなかったことは残念でした。感染問題があっても、外国語教育の課題は変わりません。また、少しづつ再開したいと思います。

カリキュラム4月以降、小学校から大学まで授業がお休みになって、どうやって取り戻すかが学校関係者の頭を占領しています。しかし、この際、もっと根本的にに考えてみると、カリキュラム問題は枝葉末節とは言わないまでも、もっと重要なことをウイルス感染が提起していないでしょうか。

それは、何のために学校があるのか、何のために学習するか、ということです。今後、各教科の先生が何を優先すべきかで侃々諤々の議論が始まるでしょうが、各教科に学校の学習が分かれているということは当たり前のこととして問われることはほとんどないように思えます。

しかし、考えてください。英語、国語、数学などに分かれているのは、学ぶことが複雑なので分業しているからではないでしょうか。学校制度が始まる前の欧州の上流の家庭では国語、数学など現代のように厳密に分かれていなかったのではないか。教育とは、ただただ、一人の人間として問題を解決するためににあるという当たり前のことが当たり前だったのではないか。逆に言うと、現代では、英語、国語、数学が試験で細分化され、問題解決という元来の目的を忘れてしまっているのではないかと思えます。

細分化には二つの理由がります。産業化と民主主義の原理です。そのため極めて多くの人に単一で、平等な試験を課します。試験は平等のためにあるのですよ。そのため学習の目的が試験に通ること以外に見えなくなってしまっているのが主流であるといっていいのではないでしょうか。

ところが、今回のウイルス感染問題は前代未聞です。前代未聞ということは、大人の複雑な知識が役に立たないことが多いということです。一方、子供らにも理解できる、しかも自分の問題として真剣に理解できることです。ウイルス感染問題から派生するいろいろな問題は小学生にも理解できる側面がとても多いです。「問題解決」の能力涵養という点からは、子供たちに実際に今起きていることの原因と結果について考えさせることほど恵まれた「教材」はありません。今教材という言葉を使いましたが、小学生も高学年になるといわゆる教材は試験に通るためにあるもので、現実の問題と関係ない苦行だと思いがちです。一方現実の問題は大人がなんとかするだろうという依存心にもつながります。

ここでは、感染者の数の問題を扱ってみましょう。そのあとで、余裕があれば、中学生レベルである程度科学の知識を必要とする問題(ウイルスとは何か)に触れましょう。

生徒のAが登場します。ガイドをするのは年配のBです。

A:今日は東京は新規感染者が21名。新聞には棒線グラフで経緯が書いてあります。これは多いのか、少ないの?。

B:たしかに、その疑問はもっともです。人口が多い地域と少ない地域では同じ数でも意味が違います。そこで、10万人あたりで示すとより客観的でしょう。

A:なぜ10万人なの?。

B:あ、これは慣習だね。社会調査で使い勝手がいいいと思われているのです。

A:また、最初からの疑問なのだけれど、PCR検査で陽性だった人がグラフにでるのだけれど、全都民を検査したわけでなないでしょう。検査所に自発的にやってきた人たちだけの統計なのだから、今の時点で陽性である人はもっと多い可能性があるのではないですか。

B:そう。そのため1か月前あたりから新聞では「陽性率」という折れ線グラフも併記していますね。新規感染者数が10人の場合でも、検査数が20の場合と100の場合では深刻さは違うでしょう。

A:20人しか来ないのに10人も感染していたら、100人の場合より驚きますね。

B:隠れ感染者の可能性が大です。それを表した日々の変化も毎日新聞に出ていますよ。

A:死者数を諸外国の例と比較する際に持ち出すことが多いですが、なぜですか。

B:これも、より正確な数を知りたいからです。検査をすり抜けたり、逃げたりする人もいますが、死者の数はそう簡単に偽るわけにはいかないからです。

A:深刻だからというわけで死者数が挙がられるだけではないのですね。

B:そのとおり。しかし、今日の新聞では、米国では死因のはっきりしない死者も多く、実際のウイルス感染による死者はもっと多いらしいですよ。

A:それに、もっと基本的な疑問ですが、今まで少なかったPCR検査を急に拡充していると新聞に書かれています。これは、新規感染者数の増加=深刻化という前提を否定するのではないですか。

B:そのとおり。北九州市での感染者数増加についてそのことが言われています。しかし、どの程度かは伝わってきませんね。

A:なるほど不完全ですね。人類が初めて経験することだからでしょう。ところで、最初の、多いか、少ないか、については何かありますか。

B:はい。今回は、多い少ないから「はっきりしない」という方に話を移しましたが、棒グラフのられつが、左から右へ一日ごとの新規感染者を、時の流れに沿って表わしていますね。毎日の調査結果に欠陥があるとしても、毎日同じように調べているのですから、日々の変化は意味がありそうです。例えば、カレーが好きな子が60%だとした場合、その60%はどういう意味を持つか分かりませんが、ある年は60%、翌年は70%、その次の年は80%だとしたら、増加しているという事実は疑えません。翌年のカレーの生産量の調整についても役に立ちます。ここ数日の東京都の新規感染者数を見てみるとわずかですが変化が一定方向に起きています。ここには書きませんが、新聞で確かめてください。

A:ああ、よくないですね。明日の変化が気になります。

B:常に情報源がどういう意味を持つかには注意してね。これからも感染問題が起きると思いますが、対応するのはあなたがたですよ。

いかがでしょう。上の事柄を考えるには予備知識はいりません。大人も子供も同じことです。そのうえで、たとえば「ウイルスとは何か」、この問いかけには知識が必要です。しかし中学生なら理解できることです。ちゃんと教えているのかな?。

PCR検査とか、エクモなどを理解するにはより詳しい知識が必要です。肝心なのは、予備知識がいらない問題、基本的科学の知識があれば理解できる問題、専門的な問題の三つを混同しないことです。

長いお休みのあと、ここまで書いて疲れました。次回は、「大学入試に英語が必要か」、「木村汎さんを悼む」の二つを考えていますがどこまで書けるか...。

 

 


リーディング中心の英語学習の問題点

2019年07月29日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

リーディング中心の英語学習の問題点

2019年、英語入試外部委託への反対の請願、TOEICの初回撤退などいろいろ事件が起きていますが、なるべくこのブログでは時事的な政治的議論は避けたいと思います。「やった!」と思っている人も多いでしょうし、なんとなくムードで政治に絡み取られそうなので、とくに注意したいと思います。

数回前のエッセイで請願など自己満足に陥るのが関の山だと書いたので、「それみたことか」と言われそうですが、活動家の口吻を見る限り筆者の疑いは消えません。あるネット企業が文科大臣に献金して、ということを主張する大学教授がいました。もし、「ネット企業の献金という圧力もあるかもしれないが、それに抗する我々の論理が足りなかった」と議論を展開するのであればよいのですが、「資本の論理」を批判することにとどまる限り、それは政治、革命の論理です。英語教育論とは少し違ってくるでしょう。別の論者は英語教育論を展開しながら、途中で平和憲法が出てきたり安倍首相が出てきます。これらの論者には日本語の段階で問題がありませんか。ましてや英語教育など論じられるの、という疑いが生じます。言語は通じてなんぼ。英語教育に論陣を張るならそれを期待する読者に応えてほしい思います。「そうだ、そうだ」と言ってもらいたい気持ちのみ伝わって来るだけです。書き手には読者という他者が見えていない、と言ってもよいでしょう。(政治的立場が右が左かは関係ありません。)

以上、英語諭を論じている人が、英語以前に、日本語に問題があるということの例でした。時事問題とはこの辺でおさらばして、英語が他者の言語だということがつい忘れられがちだという一般論へ話を持っていきます。

少し前、福沢諭吉のエッセイで、福沢は日本人に通じるようにバターを味噌と訳したという例を挙げましたが、これだけでは不十分です。「通じる」、これは必要条件です。十分条件ではありません。「通じさえすればよい」というものではありません。最近、私が未読の、マーク・ピーターセンの本を読んだ友人から、ピーターセンが「入る」と「人」を間違って使っている米国人がいたので注意したら、「通じさえすればいい」という反応が返ってきたと述べていたそうです。「そうじゃないだろう」というピーターセンのため息が聞こえてきそうです。相手の言葉への尊敬心、自分とは違う仕組みの言葉を使っている人がいるのだということへの鈍感を指摘したのだと思います。一見、単なる挿話に見えるかもしれませんが、いわゆる「コミュニカティヴ・アプローチ」が助長する思考傾向への批判という普遍的問題が含まれています。あえて米国人の例をだすことで、日本人特有の問題ではなく、外国語を学習する際にどこでも生じる一般的な問題であることも示唆しています。

ここまで来ると、会話英語よりリーディングを重んじるべきだという議論へ向かうのだろうと思う方もおられるかと思いますが、さにあらず。リーディング中心の英語教育にも、相手の言葉への尊敬心、畏怖を失わせる落し穴があるという点を指摘したいのです。いや、簡単なことです。でもあまりにも簡単なことなので英語学習者の意識に上りません。それは、単数、複数と冠詞の使い方。もう一つは時制、助動詞の使い方です。リーディングの学習をする場合、案外、日本語の文法で読んでしまっている場合が多いのです。日本語だと「うなぎは高い」ですが、英語の場合、が"Eels are expensive." "An eel is expensive." "The eel is expensive." "The eels are expensive"ののどれだか分かりません。「うなぎは高い」と訳せば満点をとれますので、冠詞、数の学習はおろそかになりがちです。「私はうなぎを食べる」は"I eat eel." "I will eat eel." "I am going to eat eel." "I'm eating eel."のどれにも対応します。

そこで、入試などの試験では、リーディングに英作文、その他の試験を組み合わせ、受験生に学習の手引きを与える必要がありますが、どれほど行われているのでしょう。大学生や働いている人の英語をチェックしながら疑いを抱いてしまいます。

外国語は他者の言語です。いや、日本語だって他者が話しています。他者は他者の論理で書きます、話します。それが訳せていちおう筋道が通っているからと言って本当にその外国語が分かっているかどうかは分かりません。日本風の解釈をしているのではないか、と常に自分を疑う姿勢が必要だと思うのです。