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シリーズ 日本人の英語
斉藤博(7)
斉藤は近衛に外相就任を打診されたそうですが、1938年、胸の病篤く、大使の職を辞した後、1939年、米国で客死します。
その死を悼んだ米国大統領は、遺骨を巡洋艦アストリアにて、横浜まで運ぶという礼を尽くします。そのアストリア号は、日米戦争勃発後、日本軍によって撃沈 されるという運命をたどります。そのアストリア号の砲兵長が戦後、横須賀基地の司令官となり、斉藤の遺族を招いたという後日談もあります。
斉藤がもし生きていたら戦争は起こらなかったのでは、と考えることには無理があるでしょう。少し歴史を勉強すれば、当時の緊張の高まりは一人の外交官の力 の及ぶところでないと思わざるを得ません。また、日本人は忘れがちですが、第一に、戦闘意思は日本のみにあったのではなく、支那、米国にもあったのですか ら。
しかし、結果ばかりを追いがちな現代において無視されがちな失敗例の蔭に、学ぶべき徳が隠されていることがあります。危機のなかで全開した、斉藤の伝達意 思と言語能力、表現力は、しばらく忘れられていることが許される時代が続きましたが、そろそろ思い出す必要のある時代が到来したようです。
斉藤について資料を三つ挙げておきましょう。
某新書『英語達人列伝』
最近の新書本には、学生のリポートのようなものがありますが、残念ながらこの書の斉藤に関する章もそれからさほど遠くないものです。が、斉藤が英文速記を 学習したというような事実の発見があります。章の最後にテレビで見た番組で大変英語をよくする人が映っていたのを覚えていて、果たしてそれが斉藤だったい う記述がありますが、それなら、極めてまれな戦前期の日本人の話す英語なのですから、言語学者の著者は論じていただきたかったものです。
『ある歴史の娘』犬飼道子
http://www.c20.jp/p/shirosi.html
斉藤の親戚にあたる著者による、斉藤の人柄の描写が印象的。エレノア・ローズベルトが著者に、「大胆不敵な開けっぱなしの魅力」があったと言ったと述べています。
『シナ大陸の真相 1931-1938』カール・川上
当時の在米日本人知識人による、日本の立場擁護の書。読むに値しないという評価もありましたが、偏狭なイデオロギーの匂いがしました。川 上は斉藤のブレーンの一人だった興味深い人物です。古森義久著、『嵐に書く―日米の半世紀を生きたジャーナリストの記録』という伝記があります。
この書の末尾に、斉藤の米国でのレクチャーの訳がいくつか掲載されています。特に、最後のものにより、斉藤が、当時の大陸をどう見ていたかが理解できます。しかし、外交官の立場からか、日独同盟と矛盾する、ドイツと国民党との結びつきには触れていません。
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