福沢諭吉の英文翻訳法:読者のために訳すということ 2/2
また少々長いですが、福沢さんの文章を見てみましょう。
開国以前すでに翻訳版行の物理書なきにあらざれども、多くは上流学者の需(もとめ)に応ずるものにして、その文章の正雅高尚なるとともに難字もまた少なからず、かつ翻訳の体裁もっぱら原書の原字を誤るなからんことに注意したるがために、我国俗間の耳目に解しがたきものあり。たとえば、物の柔軟なるを表するにあたかもボートル(英語バタ)に似たりと直(じか)に原字のまゝに翻訳するがごとき、訳し得て真を誤らざれども、生来ボートルの何物かを知らざる日本人はこれを見て解するを得ず。よって余はその原字を無頓着に付し来たり、ボートルと記すべきところに味噌の文字を用ふることに立案して、(......) (全集第一巻 緒言 p.34)
福沢式の翻訳では、やわらかいものを表わす比喩にバター(オランダ語で「ボートル」)を用いているところを味噌にするわけです。細かい点は顧みず、しかし全体の意味をあやまたず、口語で伝えるのが福沢の翻訳哲学でした。一字一句の「正確さ」に拘るのは学者の見得であると福沢には映っていたのでしょう。伝わってなんぼです。このような翻訳術は、大阪の緒方洪庵の塾で習得したように伺えます。
福沢によると、当時、江戸には杉田成卿、大阪には緒方洪庵という蘭学の「両大関」がいたそうですが、杉田は「(------)翻訳するに用意周到一字一句もいやしくもせず、原文のままに翻訳するの流儀なれば、字句文章きわめて高尚にして俗臭を脱し、ちょっと手にとりて読み下したるのみにては容易に解すべからず」という流儀。一方緒方は、こう言ったそうです。現代語にしてみましょう。
「翻訳というものはそもそも原文を読めない人のためにするものです。なのに、むやみに難しい漢字を使って、一回ぐらい読んだのではちんぷんかんぶん、読み返しても分からん、というのがありますねえ。原文に引きずられてむりやり漢字を当てはめるのがいけないんですよ。ひどい場合、訳と原文を照らし合わせないと分からないというしまつ。冗談じゃありませんよ。」
ある日、学友の坪井信良という人が緒方先生に翻訳の添削を頼んだことがありました。その一部始終をそばで見ていた福沢はこう述べています。
先生の机上には原書なくしてただ翻訳草稿を添削するのみ。原書を見ずして翻訳書に筆を下すはけだし先生一人ならん。その文事に大胆なることおおむねかくのごとし。
福沢に向かっては、ある日こう言いました。「君は医者の世界には関係ない男だ。何度も言うようだけど、文字に疎い武家を相手にするのだから難しい漢字をみだりにつかっちゃいかんよ」、(あと原文です)云々と警(いまし)められたる先生の注意周到、父の子を訓(おしふ)るもただならず、余は深くこれを心に銘じて爾来かつて忘れたることなし(-----)と、言うから筋金入りです。
緒方と福沢に共通する翻訳の考えの礎にあるはなんでしょう。日本人でも西洋人でも考えの基本は同じだから通じるはずだという信念です。細かい点に拘るのは、僻目かもしれませんが、そういう人間に対する信頼感が欠けているからでしょう。味噌かバターか、そんなところで悩んだり、避けたりしません。洋食であろうと和食であろうと、栄養になればいいという思いっきりが両者にあるのです。しかし、栄養はしっかり与えます。読み手を択ばず、媚びず、見下さず、伝えるべきは伝える、その意思大胆にして周到、これを福沢は緒方から学んだと言えるでしょう。
翻訳に限らず福沢の態度は、読み手を択ばず、媚びず、見下さず、という姿勢に貫かれています。ある日、後年著名な政治家になった尾崎行雄が、初めて新聞記者になって、福沢に挨拶に来たときのエピソードを小林秀雄が紹介しています。
(------) (尾崎は福沢に)君は誰を目当てに書くつもりかと聞かれた。もちろん、天下の識者のために説かうと思ってゐると答へると、福沢は、鼻をほじりながら、自分はいつも猿に読んでもらふつもりで書いてゐる、と言ったので、尾崎は憤慨したといふ話がある。(1962年)
小林はこのエピソードを評して次のように述べます。
彼は大衆の機嫌など取るやうな人ではなかったが、また侮辱したり、皮肉を言ったりする女々しい人でもなかったであろう。恐らく彼の胸底には、啓蒙の困難についての、人に言ひ難い苦しさが、畳み込まれてゐただろう。さう想へば面白い話である。
福沢は言葉の使い方が面白い。「猿に読んでもらふ」という言い方で、自分は機嫌もとらないし侮辱もしない、ということを逆説的に述べるのです。一筋縄ではいかない仕事だという苦渋も伝えて、響くものがあります。しかも暗黙のうちに、「あなた、読者をばかにしていないかい」という攻撃が含まれています。こういうエピソードから小林は福沢はたんなる啓蒙家ではないということを確かめたのでしょう。ここでは、翻訳を含め読者に分かってもらうということに情熱を注いだ福沢の姿勢の例として引用しました。福沢の、この、ちょっと行き過ぎたかのようなpractical joke(いたずら心))については、『福沢諭吉の愉快な英語修行』で触れたいと思います。
註1:冒頭の写真は1868年、明治元年です。まだ幕臣のはずですが、福沢の髪型は医師のような総髪です。もう辞める、ということでしょうか。
註2:明治23年の第一回総選挙で尾崎が当選した際、訪れた尾崎に、祝いの言葉の代わりに次の文を書いた紙を渡したそうです。「道楽に発端し、有志と称す馬鹿の骨頂、議員となり売りつくす先祖伝来の田、勝ち得たり一年八百円。」
私は「団塊世代の我楽多(がらくた)帳」(https:skawa68.com)というブログの
2019/9/25付けで「良い文章と良いニュース解説」の記事投稿
しています。つたない記事ですが、もし、ご参考にしていただければ幸いです。
よい文章というこことですが、ここでは、一点だけ。自分で定義できない用語、表現、言い回しは
使いたくないものです。
過去の「よい日本語」ですが、福沢の時代はまだ、新しい文章体は確立していません。注目すべきは、小林秀雄と寺田寅彦(理系の方ならいっそうお勧め)です。1920年から1935年まで。この時代、マスコミが存在しなかった、という点がどう関係しているのでしょう。