外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

続き:『理科系の作文技術』はハウツー書ではない

2018年08月24日 | 木下是雄:国語教育と英語教育の架け橋

『理科系の作文技術』はハウツー書ではない  続き

前回からずいぶん経ちました。前回は以下の問題の引用で終わりました。

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文庫版、28ページにある、以下の文の問題点がどこにあるか分かりますか。

事実と意見のスリカエ例:p.028
大磯は、冬、東京より暖かいと信じられているが、私は、夜は東京より気温が下がるのではないかと思う。夜間、大磯のほうが低温になることにふしぎはない。暖房その他の熱源が少ないし、第一、東京にくらべてはるかに空気が澄んでいて、夜は地面から虚空に向かってどんどん熱が逃げていくからである。

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木下是雄2気が付かない人が多いと思いますが、前半で、「~ではないかと思う」という意見(推測)を述べているにも拘らず、次の文では「夜間、大磯のほうが低温になることにふしぎはない」と、事実を前提していると解釈できる形にしています。「夜間、大磯の方が低温になるとしてもふしぎはない」と述べるべきでしょう。

それでも、「~ことにふしぎはない」でもいいではないかと言う方もおられるかもしれません。たしかに、「と思う」がぼんやりとした修辞として使われている場合、なんとなく受け入れてしまう場合があるからでしょう。

「今年の夏の暑さは酷かったと思う。7月、8月をとおし酷暑だったことに不思議はない。---」この文などでは、「思う」という表現があろうとなかろうと、読者が酷暑だったことを知っているので、そのまま事実として通ってしまのです。こういう場合にも使うので、「~ことに」は、事実を前提ているのか、そうでないのか「あいまい」な性格を帯びます。この「あいまい」は英語ではambiguousにあたります。たんにぼんやり、というより、「二つの意味のどちらにもとれる」という意味です。

こうしたambiguousな表現を積み重ねていくと、読者は誘導されて、その結果間違った結論にもすんなり納得してしまう可能性があります。そうならないために、一見、小さなことのように見えても、事実か意見かの違いには注意を払いたいと思います。

事実の記述か、意見かの見極めは若いころからの修練、習慣によって養われるもので、そうたやすいものではないと木下さんは強調します。p.042に、木下さんはこう述べています。

事実の記述と意見とのちがいを詳述してきたが、事実と意見とを異質なものとして感じ分ける感覚を子供の時から心の奥底に培っておくことが何より大切である。この感覚が抜けている人はは、科学、あるいはひろく言って学問の道に進むことはむずかしい。また、この感覚がにぶい人はたやすくデマにまどわされる。

「たやすくデマにまどわされる」という点について筆者は思い当たる節がたくさんあります。深刻な場合が多いです。機会があったら述べましょう。皆さんは思い当たる場合はありませんか。

以下にp.043にある練習問題を引用しておきましょう。答えは少しあとのインストールメントに。

問題2.1】次の文は事実の記述か、○(はい)、×(いいえ)で答え、理由を述べよ。

(1) 私は、自分のしたことは正しかったと信じている。

(2)『平家物語』によると、腰越にとどめられた義経は大江広元に書状を送って窮境を訴えたという。

(3)茅ヶ崎駅は横須賀線上にある。

(4)明日は必ず9時に出社してください。

(5)私がそのとき「しまった」と思ったのは事実である。

* 上記の問題は少し変えてある(主に句読点)。

* 木下書から多く引用をしている理由は次のとおり。たしかに『理科系の作文技術』、『リポートの組み立て方』はベストセラーだが、じっくり吟味しながら読む人は少ないように思う。ツイッターなどに慣れている人は考えながらゆっくり読むことはがまんできないということもあるのかもしれない。そう思ったので、この書を細分化し、考えながら読むことを促すことも無意味でないと考えた。

 


『理科系の作文技術』はハウツー書ではない

2018年05月29日 | 木下是雄:国語教育と英語教育の架け橋

『理科系の作文技術』はハウツー書ではない

木下是雄木下是雄著の『理科系の作文技術』と『リポートの組み立て方』は、毎年4月になると大学近くの書店には平積みされますが、十分理解されて読まれているかどうか、疑問に思います。

一見ハウツーものの題名なので、これを読めば大学のリポートはパスできるだろうぐらいに思って買う人は多いでしょうが、熟読玩味している人は少ないように思います。「お説教を受けているような」という印象を書いている人がネット上にいましたが、あまり日本人の大人が子供っぽいままでいる風景は見たくありません。

この書は、どうすれば大学や仕事でうまくやるかを指南する書ではなく、考える方法、生き方の姿勢を問うものです。しかし内容は小学生にも大人でも理解できるものです。以前教えていた小学生に「一生ものだよ」と言って『リポートの組み立て方』を渡したら、「へえ~」と反応していましたのを思い出します。そのようなわけで木下是雄の二つの本を紹介する必要を感じますが、ブログの気安さをいいことに、少しづつ書き足してまいります。

今回は、「事実の記述」と「意見」について。木下さんは次のエピソードを紹介しています。米国から帰国した同僚のお子さんが使っていた5年生用の教科書の一節を見て、衝撃を受けたと書いています。たまたま開いたページには次のようにありました。

ジョージ・ワシントンは米国の最も偉大な大統領であった。

ジョージ・ワシントンは米国の初代の大統領であった。

以上の二つの文のあとにはつぎような質問が書いてあります。

どちらの文が事実の記述か、もう一つの文に述べてあるものはどんな意見か、事実と意見はどうちがうか。

そのページのわきには囲み記事の注釈があったのですが、このあとは『リポートの組み立て方』の26ページをお読みください。

事実の記述か、意見かの見極めは若いころからの修練、習慣によって養われるもので、そうたやすいものではないと木下さんは強調します。28ページにある、以下の文の問題点がどこにあるか分かりますか。

事実と意見のスリカエ例:p.028
大磯は、冬、東京より暖かいと信じられているが、私は、夜は東京より気温が下がるのではないかと思う。夜間、大磯のほうが低温になることにふしぎはない。暖房その他の熱源が少ないし、第一、東京にくらべてはるかに空気が澄んでいて、夜は地面から虚空に向かってどんどん熱が逃げていくからである。

では、答えは次回のインストールメントに。ちなみに、先ほどの小学生を含め、教室などで気がついた人はいませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「事実と意見」 木下是雄さん 国語教育と英語教育の架け橋

2014年11月24日 | 木下是雄:国語教育と英語教育の架け橋

 

 「事実と意見」 木下是雄さん 国語教育と英語教育の架け橋

先日、紀伊国屋で、実験器具つきの理科教材を購入しました。その解説書に以下のように書いてありました。

①「つぶつぶが飛び交っているので、空気は伸び縮みすることができます。」

この表現は、どうしても私には引っかかります。以下のように言うべきではないでしょうか。

②「空気は伸び縮みできます。その理由はつぶつぶが飛び交っているからです。」

竹筒鉄砲同じだという方もいらっしゃるでしょう。たしかに、分子説を知っている人に「論理的つながり」だけを伝えるのであれば、私も①でよいと思います。しかし、知らない人に説明する文脈では、②のように言うべきではないでしょうか。

生徒が知っているのは、「つぶつぶが飛び交っている」ことでしょうか、それとも「空気が伸び縮みすることでしょうか。」


もちろん、生徒が自分の目で確かめることができるのは、「空気が伸び縮みすること」です。確かめることができることが<事実>です。私などは竹筒鉄砲が脳裏に浮かびます。一方、「つぶつぶが飛び交っている」のは、人類が長年思索と実験を重ねてやっと到達した見解です。今では原子自体もある種の顕微鏡で見ることができるそうですが、19世紀の初頭に、フランスのプルーストや、英国のドルトンのような学者がその結論に至ったのは、目で見たからではなく、「そう考えないとつじつまが合わない」と考えたからです。それは、まず、<意見>だったのです。


気体と分子こう考えると、①「つぶつぶが飛び交っているので、空気は伸び縮みすることができます。」は、少なくとも、事実と意見の判断を育てる言い方ではないと言えないでしょうか。言い方によっては、「つぶつぶが飛び交っているのだぞ、そんなことも知らないのか。」と言われたような印象を持つ子がいるかもしれません。いや、私は、科学についての、あたかもすべて分かっているかのような説明をあらかじめ聞かされているうちに、多くの子が科学への興味を失うのではないかと思うのです。数回前のコラムに、理科教育の七・五・三問題について触れました。つまり、小学校5年では、7割の子が理科が好きと言うが、中学2年では5割、高校2年では、それが3割に減ってしまうという、問題のことです。そのようなことが起きる根底には、科学の説明についての①のような語り方が大きく影響を与えているのではないかと思うのです。


事実と意見さて、この、「事実と意見」の峻別について、木下是雄さんは、『リポートの組み立て方』の第2章、『理科系の作文技術』では、第7章で、自らの経験を交えながら、語っています。『リポートの組み立て方』においては、次のようにさえ、言っています。

事実の記述と意見とのちがいを詳述してきたが、事実と意見とを異質のものとして感じ分ける感覚をこどもの時から心の奥底に培っておくことが何より大切である。この感覚が抜けている人は、科学、あるいはひろく、言って学問の道に進むことはむずかしい。また、この感覚のにぶい人はたやすくデマにまどわされる。

『リポートの組み立て方』文庫版 p.42


このような厳しい(?)見解を持つに至ったには、木下さん自身の体験があります。それは、米国の小学校での国語(つまり英語)の教科書との出会いでした。
その教科書には、以下のような問題がありました。

どちらの文が事実の記述か、もう一つの文に述べてあるのはどんな意見か、事実とはどうちがうか。


A:ジョージ・ワシントンは米国の最も偉大な大統領であった。
B:ジョージ・ワシントンは米国の初代の大統領であった。


A:この背の高いアメリカ人は世界でいちばん機敏な男でした。
B:「ハワハニの新しい学校」というおのはあるお話の題です。

(------) 次に書いてあるのはどれが事実でどれが意見ですか。

1. 私たちアメリカ人はほかの国のひとより機敏です。
2. このお話しによると、ジョゼフは小屋に住んでいました。
3. 私たちが読んだのはすばらしいお話しでした。
4. この島の土着民は争いを好まぬおとなしい人たちでした。
5. 彼らの国のことばはおかしなことばです。

『リポートの組み立て方』文庫版 p.26-27


みなさんはどう思われますか。答えと、木下さんのその後の経験については次回に語りましょう。

また、私が事実と意見について触れた意味と、木下さんの意図との違いについても次回にお話したいと思います。


木下是雄さん(4) 理解されない木下さん 国語教育と英語教育の架け橋

2014年10月17日 | 木下是雄:国語教育と英語教育の架け橋

木下是雄さん(4)  理解されない木下さん 国語教育と英語教育の架け橋

 

次の文は、木下是雄著『リポートの組み立て方』(1990)、28ページに引用される、

若干問題のある文の例です。どこが問題なのか分かりますか。

大磯は、冬、東京より暖いと信じられているが、私は、夜は東京より気温が下がるのではないかと思う。夜間、大磯のほうが低温になることにふしぎはない。暖房その他の熱源が少ないし、第一、東京にくらべてはるかに空気が澄んでいて、夜は地面から虚空(こくう)に向かってどんどん熱が逃げて行くからである。

リポートの組み立て方おかしいと思わない人も多いのではないかと思います。木下さんの例文の選び方はとても用心深く、ここぞ、という問題を指摘できるような文を選んでいます。

「夜間、大磯のほうが低温になることに不思議はない。」という部分です。その前の文からの流れを考えてください。「気温が下がる」ことは著者の意見です。大磯のほうが低温になるのは事実ではないので、「大磯のほうが低温になるとしてもふしぎはない。」とすべきです。「~になることに不思議はない」の表現は、通常、読者を、事実を前提して述べているのだと思わせる表現なので、トリッキーだと言えます。

こういう点を読者はじっくり読みこなしているかというと、必ずしもそうは言えないのではないかと思います。その結果、毎年、『理科系の作文技術』と『リポートの組み立て方』は版を重ねながら、日本人の言語能力が上がったと思えないのです。英語教育でも、ときおりディベート・ブームになったり、プレゼン・ブームになったりしますが、しばらくするとしぼんでしまいます。また、木下さんは、パソコンの黎明期に、これから普及する「テクニカル・ライティング」を念頭に国語教育に打ち込んだのですが、その後のパソコンのマニュアル、いや、マニュアルどころか、パソコン内の表示の分かりにくさは、木下さんの危惧したとおりになったと言えます。学習院でも木下さんのグループが作った教科書はあまり使われていないという噂も聞こえてきます。木下さんは、「将来、さすが学習院出は違う、文章力がすばらしい」、と言われたいと夢を語っていましたが、少なくとも、その夢がかなったとは言いがたいようです。

では、木下さんが見込み違いのことをしたか、というと、そうではなく、むしろ、その逆です。国語教育が深刻な問題を抱えているという木下さんの直感はまさにそのとおりだったのです。しかし、その問題を克服するのは木下さん一人の手にはあまりました。『理科系の作文技術』が発行されてから、井上ひさしや、丸谷才一といった文学者の熱烈な支持がありましたし、学習院では「同志」を集めて教科書の編纂も行いました。しかし、木下さん以外の方は、意思の疎通ということで切実に悩むということが少なかったのではないかと推察しています。

木下是雄さんには、以下のような「原体験」があります。

1976年に、2年間アメリカで月の化学の研究をしていた同僚が帰国して、お子さんたちがヒューストンの小学校で使っていた国語の教科書を見せてくれた。硬い表紙で分厚い21cm×24cm版の、きれいな色刷りの本だ。5年生用のを手にした私は、たまたま開いたページに

 ジョージ・ワシントンは米国の最も偉大な大統領であった。

 ジョージ・ワシントンは米国の初代の大統領であった。

という二つの文ば並び、その下に

 どちらの文が事実の記述か、もう一つの文に述べてあるのはどんな意見か、事実と意見はどう違うか

と尋ねてあるのを見て、衝撃を受けた。

(『リポートの組み立て方』 文庫p.26)

米国 言語技術教科書木下さんは、「衝撃」を受けたのです。この衝撃を共有できるかどうかが、この書が理解できるどうかの、試金石だと思います。もちろん、各自の属している分野は違うものの、この記述を読んで、あ、そうだ、と腑に落ちる人、または、そのときは何気なく読みすごしていても、しばらくして、木下さんの述べていることはこのことか!、と納得する経験がない人は、評判でこの本を読んでも、決して身につくことはないでしょう。

では、その「衝撃」とは何か。この箇所は「事実と意見の峻別」がテーマですが、その根底には、人と意思の疎通を図ることがいかに困難であるか、という問題があります。そして、理解しよう、伝えようと常に努力していない限り人間は孤独だということです。それをごまかして伝わったように、分かったように思い込むことのいかがわしさに、我々は鈍感になってはいないか、という問いかけが木下さんのその後の国語教育の原動力だったと思います。これはすぐれて倫理的な営みと言えます。

なにしろ、最初の本の書名が、『理科系の作文技術』です。「作文技術」という表現には皮肉が込められていると、あとで木下さんは述べていますが、今でもこの本が売れる理由は、「~すればなんとかができる」のような十分条件を与えてくれると本だと人々が思い込むからでないでしょうか。そういう人は、ぼんやり読んでも、この記事の冒頭の例文が何故おかしいか、立ち止まって考えることはないと思います。てっとり早く教えてくれ、という人たちは、なんとなく読んで、説教くさいなという印象と伴に書棚のすみにほったらかしにするということになるでしょう。木下さんはこうした読者への皮肉を意識したのでしょう。読者のうち10%の人でも本当に分かって欲しいという気持ちだったのかもしれません。

事実と意見の章の終わり近くに、このように書いています。

 事実の記述と意見とのちがいを詳述してきたが、事実と意見とを異質のものとして感じ分ける感覚を子供の時から心の奥底に培っておくことが何より大切である。この感覚が抜けている人は、科学、あるいはひろく言って学問の道に進むことはむずかしい。また、この感覚のにぶい人はたやすくデマにまどわされる。 p.42

このような部分を読めば、たんなる「技術書」ではないことは明らかです。厳しく、かつ明朗な木下 谷崎姿勢を読者に伝えようとしています。このブログの、木下是雄・シリーズの最初に取り上げたY新聞の記者は、この本のような「技術」だけでは、論文盗用問題は解決できないという趣旨のことを述べていましたが、この記者もぼんやりとしていたのでしょう。

先日、小学6年生に、一生ものですよ、と言って、『リポートの組み立て方』を買い与えました。与えただけではだめです。どのように問題意識を育てるかは、私の役割です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


木下是雄さん(3) パソコンのマニュアルの難しさ 国語教育と英語教育の架け橋

2014年09月02日 | 木下是雄:国語教育と英語教育の架け橋

木下是雄さん(3) パソコンのマニュアルの難しさ 国語教育と英語教育の架け橋

 

理科系の作文技術(3)では、木下是雄さんの『理科系の作文技術』と『リポートの組み立て方』に対する受け止め方の問題について触れる予定でしたが、急遽、変更し、木下さんが生前、注目していた、「テクニカル・ライティング」について触れることにします。

ちょっと個人的なことからスタートいたします。

私は最近パソコンを新しいものに買い換える必要が生じ、それに応じて、インタネットにつなぐための無線機器(ワイ・ハイ)を購入しました。いや、購入せざるとえなかったというべきでしょう。それも、二つも...、です。さて、慣れない、インタネット通信販売、楽天市場で購入し、佐川急便で届いた箱を開け、マニュアルを見ようとすると、「初めにお読みください」という白黒の書類と、もう一つ、「かんたんセットアップガイド」というカラーのがあって、その冒頭に、「まずはじめに、お読みください」と書いてあります。この段階で、どちらが本当に先なのか、まごつきました。まあ、前者の方が先かなと思いましたが、じっさい、読んでみると、重複していて、混乱しました。

その後、電源を入れると、黄緑色のランプが不規則に点滅しています。マニュアルによると、「電源ランプがグリーンであることを確認したら...」とありますが、ここで二つ疑問が生じました。(黄緑色のことを緑と呼んでいるのかな、という小さい疑問も浮かびますが、それは別として。)

① 「グリーンであること」というのは、別の色である可能性もあるのか。

② 点灯と点滅は違うのか。

以上、2冊のマニュアルと、電源を入れた最初の段階で生じた、二つの点を挙げましたが、問題はこれにとどまりません。その結果どういうことになったかについては、このコラムの最後に触れます。

パソコン マニュアルさて、皆さんは、パソコンなどのマニュアルで困ったことはありませんか。コンピュータ時代になり、急増したマニュアルを書くことを、一つの職能として米国で発展させたのが、「テクニカル・ライティング」です。1980年ごろから木下さんは、米国でのこの新しい流れを紹介してきました。木下さんが二つの書を世に問うたときは、ワープロ(なにか懐かしい響きがします)から、パソコンへの移行期で、日本でも多くのマニュアルが書かれ出したときでした。

そのころ、木下さんの家へ、または研究室に、米国人のR氏が訪れて来ました。R氏は日本の電子計算機メーカーのソフトウエア部門で、日本語のマニュアルの英訳を担当しています。日本語の達者なR氏ですが、どのマニュアルもそのまま英訳したら通じそうもないので、途方に暮れました。同僚に相談したら、『理科系の作文技術』とうい本を書いている人がいるよ、と言われ、木下さんのもとに相談に訪れたのでした。

彼は次のような問題を木下さんに告げました。

(1) どのマニュアルも、どういう目的で、誰が、どこで、何のために利用するかということへの配慮がない。

(2) ユーザーにとって不要な情報が混入して難解になっている。

(3) 不明確で、飛躍がある。

(4) パラグラフの切り方がでたらめである。

(上記の箇条書きは木下さんの箇条書きをさらに簡略化したものです。)

そして、最後に、「日本では電子計算機のマニュアルを読むのは主に大学出の人のようですが、アメリカではほとんどが高校卒の連中です。彼らに分かるように書いてもらわないと、マニュアルの<輸出>はできませんね。」と言ったそうです。

最後の言葉に強い皮肉を感じませんか。「大学出」というのは冗談のようなものです。大学を出たからといって専門外のことは分かるはずはないじゃないですか。それとも、マニュアルが、高度の一般教養を有する人には普遍的に理解される言葉で書かれているとでもいうのでしょうか。

木下さんにとってもR氏との出会いは大きな体験でした。このときから木下さんは、「発信型の教育をしなければ」と強く思うようになったのです。「ん?」、飛躍かなと思った方もおられるかもしれませんが、木下さんが、「彼の言った言葉が忘れらない」と言った、R氏の言葉を紹介しましょう。ちなみに、木下さんとR氏の会話は英語です。

ロゲルギスト「今まで日本はハードウェア(註)の輸出をして、今日の繁栄を築きあげてきた。しかし、これからは知恵を輸出する、ソフトウェア(註)を輸出する時代になるんでしょう。その時にそなえて、国際的に通用する説明の仕方、考えの述べ方の教育をしておかなければなりませんね。」

(註)←原文の註です。以下のように書かれています。「計算機のハードウェア、ソフトウェアに限らぬ広い意味」

それを受けて、木下さんは、「これは、私流に言えば、「発信型の教育をしなければ・・・・・」ということである。」と述べています。つまり、ことは、マニュアルの分かりにくさということにとどまらず、日本の将来に直結する大きな問題として捉えているところが、他の人に見られない木下さんの卓見です。

さて...、30年前に木下さんが述べた問題は改善したのでしょうか。テクニカル・ライティングという職種があることは私も少しは知っています。また、木下さんの時代と違い、単に、マニュアルだけでなく、電子機器の内部での表記にまでテクニカル・ライティングの必要性は拡がって来ました。しかし、私の最近のささやかな経験からしても、あまり変化は見られないという疑いが捨て切れません(註)。前回のブログで述べたように、学習院でも「言語技術教育」があまり重んじられていないということも、気になる点です。(前回の引用を信じれば、ですが)

このような木下さんですが、時代を先んじる先見の明があった、と言うべきか、世間に入れられずこの世を去った哲人と言うべきか、私はまだ追悼の言葉を見つけることはできません。

最後に。例のワイ・ハイ機器ですが、結局、私の環境では使えないことが判明し、9000円が無駄になってしまいました。昔の漫画なら、ここで「トホホ」という吹き出しが入ります...。


註:←これは小川自身の註です。昨日、マック・ユーザーから、アップルの表記はユーザーフレンドリーですよ、と言われました。確かめたいです。

補註:私は、木下さんとは、少し違う観点から、つまり、専門家と社会の関係という観点から、テクニカルライティングの重要性を論じるつもりでしたが、方向が違うので、稿を改めて論じることにします。

 


参考:『物理・山・ことば』 木下是雄 新樹社 (1987)

p.211 テクニカル・ライター  -  ハイテクの世界に生まれた新しい専門職 -

p.233 受信型教育から発信型教育へ