日本人にとって外国語は存在しない...?
『日本人の英語』(岩波新書)で有名なピーターセンさんが著した『日本人の英語はなぜ間違うのか?』(2014)は、日本人の英語コンプレックスを書名で刺激し売る類書とは違って、内容のある本です。
第五章は「仮定法の基本を理解する」と題して、大学生の和文英訳、英作文で仮定法が無視される例が縷々挙げられます。なぜかくも仮定法、つまり、現実性がない、乏しい、またはぼかしたいときに英語では過去形を用いるということをおざなりにするのか、著者は疑問に思い、中学、高校の教科書を調べてみました。すると、以下のような文が見つかりました。
ストリート・チルドレンの女の子が「私が金持ちだったら、ストリート・チルドレンのみんなに食べ物と衣服と愛を与えてあげる」という場面です。
If I'm rich, I'll give all the street children food, cothes, and love.(p.80)
この文の意味を、ピーターセンさんは苦労して日本語にしてみました。以下のとおりです。
- 「私が(金持ちであろうかどうかわからない[=金持ちである可能性もある]が)もし金持ちであれば、ストリート・チルドレンにみんなに食べ物と衣服と愛を与えてあげる」
この女の子も路上生活者なので、このような発言をするはずがありません。ピーターセンさんによると、「読み手をびっくりさせていしまう内容になりかねない」ということになります。以下のように書かないと上記の内容を表すことはできません。
- If I were rich, I'd (=I would) give all the street children food, cothes, and love.
教科書におけるこのような例をいくつも挙げながら、著者は以下のような結論に至ります。
- こういう例を書こうとしたのがそもそも無理な話だったのです。教科書を作るときに、最初からそんな文を入れないように考慮するのは当然なのではないでしょうか。
さらに、
- 重要性の度合いから判断すれば、仮定法は遅くても中学2年までに紹介されるべきだと私は考えます。
ピーターセンさんは、教科書、カリキュラムへと議論を導いています。そうであるとすれば、ピーターセンさんの次の課題は中等教育の教科書の作成、カリキュラムの再編成へと展開するのが望ましいのですが、じっさいは、どうなっているのでしょう。
さて、ここでは、ピーターセンさんが直接触れていない、もっと深刻な問題が示唆されている点に触れないわけにはいきません。
外国語で書かれた、あるいは言われた表現を日本人の都合で勝手に変えていいのでしょうか、という問いです。
「それはダメ!」と言下に言えることです。ご賛同くださいますか。よそさまの使っている言語をこちらの都合で勝手に変えることなど、できるはずがありません。もしそんなことが許されたら、内容がいくらでも変わってしまう道を開いてしまうことになります。そうならないためには、「教科書を作るときに、最初からそんな文を入れないように考慮する」しかありません。どうも、江戸時代の漢文の書き下し文の影響が現代にも及んでいるのではないかと考えてしまいます(書き下し文の歴史的意義には肯定的側面がありますが)。
このことは、事実を捩じ曲げるという非学問的態度を容認するというだけではなく、日本語以外の言語を用いている人の存在を否定してもよい、というメッセージを生徒に伝えることになります。ほんとうなら、その逆に、外国語が日本語といかに違っているかということに気づかせ、その上で、それでも通じるということの驚きと喜びに導いて行くべきではないかと私は思うのですが…。ところが、多くの現行の教科書(ピーターセンさんは註で名前を挙げています)で、このようなことが行われていることから類推すると、この記事のタイトルどおり、日本人にとって外国語は存在しない、という極論に導かれるわけです。さらに言えば、日本人にとって他者は存在しない、ということにも…。
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