墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

次の次の次の次の絵

2007-08-28 19:57:04 | 駄目
 東京都の郊外にある小平市は典型的なベットタウンで、普通の平日だったら、昼と夜の人口密度はかなり違うはずだ。
 小平市に働き場所がある人や、主婦・学生以外の人間は、ほとんど小平市からいなくなる。
 わざわざ他の土地から小平市に働きに来る人なんて、小平市から都心に働きに出る人に比べたら、かなり少ないはずだと思う。
 申し訳ないが、役所勤めの方や自営業以外の方で、小平市に職場がある人間なんてのは、そのほとんどは年収400万円以下の中・低賃金労働者だろう。

 それでも、平日の12時過ぎに小平市のマクドナルドに行くと、けっこう混んでいる。近所に大学が多い土地柄、大学生が多いが、やはり目につくのは子連れの主婦に、地元の商店街の方。稀に営業のセールスマンや工事にきた建築関係の方々の姿も見える。
 けっこう、あなどれないのは、地元の商店街の経営者の方は、貧乏臭い格好をしていても意外にお金持ちなのだ。やはり、自営業は強い。

 その日は、パン屋のアルバイトが早く終わったので、マクドナルドで、次のバイトの夕刊配達の時間まで、ヒマをつぶす事にした。
 昼過ぎで、やたらにレジが混んでいて、なかなか順番がこない。やっと注文して、注文がそろう前に場所取りをしようと店内の奥に進む。

 店の一番奥に、真夏の小平市には不釣り合いなくらいビチッと背広を着こなした男が座っていた。
 パッと見の印象は、不動産屋の社長。
 年齢は40代後半くらいで、恰幅が良く、ノートパソコンと雑誌に紙を広げてテーブルを2つ占領している。
 男はやや行儀悪く座りながら、紙にボールペンで何かを懸命に書き込んでいる。だが、字を書いている様子ではない。なんだかグルグルと手をさかんに動かしていて、何を書き込んでいるのかは遠くからは分からない。

 男が占領しているとなりのテーブルが開いていたので、迷わず、そこのテーブルを場所取りする。何を書いているのかすごく気になったからだ。

 ポテトとドリンクだけが欲しかったんだけど、セットで頼むと、ほぼ同じ値段なので、ついハンバーガーのセットを注文してしまった。
 そのセットが出来上がったようなので、荷物を置いてすぐレジに行き、トレイを受け取ってテーブルに戻ると、男は店員から注意されていた。

「他のお客様がご利用になるので、テーブルをひとつ開けてもらってよろしいですか?」

 男がやや顔を上げる。
 その瞬間に、パッと男が書いていた紙を見たら、グルグルのパー。ただ、手の動くままにボールペンを動かしていただけらしく、紙には意味が無いグルグルが反復されているだけ。
 なんだつまんない。ただ、ペンを持って手を動かしていただけか。
 俺は、男に興味を失い、持参した本に集中した。

 すぐ、開いたテーブルには、痩せすぎた中年の女が、灰皿と S サイズのドリンクを手に持って座り込んだ。
 女は、タバコをパカッーと吹かして、ドリンクをチビリチビリしながら、男に話しかけた。女の口調から、かなり親しい男女の仲であるらしい気配はするが、男は紙とボールペンに夢中で女の話には上の空。

 女は男の反応が悪くてウンザリしたのか、数十分でマクドナルドから消えた。
 
 男は、あくまで紙に夢中で、手を休めない。
 俺は、持参した本に集中する。

 気がついたら、男は店から消えていた。
 いつの間に帰ったのだろう。

 その時、大学生のカップルが、男のいた席にやってきた。

「やだっ! 怖い!」

 カップルの女が叫ぶ。
 俺が見ると、男は、ボールペンをのたうたせていた紙を、テーブルに広げたままで帰っていた。誰にでも見えるようにして。

 紙には女の顔が刻まれていた。
 紙には、のたうったボールペンで女の顔が刻まれている!

 あっと俺は思う。

 公衆便所に絵をおいていった人は、あの人だったんだ。
 タッチも絵の印象も、間違いなくあの絵と同じだ。

 どうしても、描いた絵を誰かに見てもらいたいのだろう。
 だから、見やすいようにして置いて帰るのだ。

 カップルの片割れの男が言う。

「ほおっていいよ」

 カップルの女は、裏にして窓枠に投げ捨てた。

 俺は、カップルが帰った後に、紙をリュックにしまって店を後にした。 

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火曜の朝

2007-08-28 05:47:26 | インポート
 雲は多いが、青空が見える。この数日、あきらかに朝夕は涼しくなってきていて、今朝も風は弱いけれど涼しく感じる。部屋を出ると、近所の畑から秋の虫が鳴いているのが聞こえてきた。少し自転車で走ると蝉が鳴いていて、鳴き声は混じりあった。


次に次の次の絵

2007-08-27 18:44:04 | 駄目
 言葉の無い動物には、もちろん「感情」という言葉はない。
 自分がしたいからするという意思すら、そもそも持てないだろう。
 言葉がないから「自分がしたいのか」さえも分からないからね。

 何をしても、気がついたらしてたってか、その状況ならそうする以外にないだろうって事を、ただ無意識にする。
 言葉を持つ人間でさえ、無意識につまみ食いしたり、体を掻きむしったりするのだから、それと同じように。

 だからと言って、動物にはロボットと同じように感情までないと言いきると、言いすぎのような気がする。
 外部の状況や匂い。なんてのに身体が反応して、体内のホルモンや脳内麻薬の濃度などが変化して、それによって神経細胞が刺激され、連鎖反応的に行動が実行されてしまう。

 生物を、そのように機械的に見るなら、そこに感情などないかのように見える。

 オオカミの群が、はぐれたヘラジカを狙っている。

 オオカミは「あのシカを殺して食いたい」から追いかけるのではないだろう。
 自分の空腹に周囲の状況。
 オオカミの群れの一員としての立場。
 獲物までの距離。
 そういう状況を吟味しつつも、オオカミは自分の射程範囲内に逃げるシカが見えたなら、反射的にそれを追いかける。

 追われるシカのほうも「食われたくない」から逃げているのではない。
 オオカミが近づいてくるのが見えたから、反射的に逃げ出しただけだろう。

 人間だって、しょせんは動物だから、根本のところで同じだと思う。
 言葉を介さない反射的な行動をとれるからこそ、とりあえず何万年もの間、生き残ってきた。
 ただ、人間は言葉で内省する。
 後になってから、自分はそうしたいからそうしたのだと言葉にして思い込む。
 でも、実際は、脳と体による反射的な運動であることが多い。

 言葉で表せない意思は感情とは呼べないのだろうか?

 いや、違う。
 逆だと思う。
 感情は言葉にできない。
 というのが正解だと思う。

 感情は衝動である。衝動は言葉にできない。
 
 記憶は人間の場合。
 言葉と、映像や体の感覚として記憶される。
 だけど、1番残りやすいのは言葉による記憶で、去年のある日に蚊に刺されて痒いと感じた記憶は、言葉として残さないかぎり、1週間もすれば忘れる。
 蚊に刺されて腕をかいた事など、普通は記憶に残さない。
 ただ、単に、痒いところをかくだけで終わる。
 痒いところを掻くことを、脳神経の活動による筋肉の働きと理解するなら、人間は精巧な機械となるが、今のところ機械は衝動や感情では行動できない。プログラムによってしか動かない。
 プログラムと衝動は違う。
 プログラムは与えられたもの。衝動は内部からわき上がるなにか。

 プログラムは、なんらかの意思によって組まれる。
 だが、生命の衝動は、勝手に生命自体が身につけた、なんだか分からないもの。

 人間はしたいと思う間もなく、している事がある。
 気がついたらというやつだ。

 なんで、人間という動物は「絵」など描くのであろうか?
 生存には何の必要も無い。
 生存に必要の無い遊びこそ、もしかしたら人間の生き甲斐なのではないだろうか?
 絵も写真も作文もガンプラも、生きていくのには必要ない。


援助交際がいけない理由(7)

2007-08-26 16:32:42 | 駄目
『俺は貧乏なフリーターで、子供はいない。
 もちろん。
 妻子を養育する余裕も無い。
 だが、ふっと気がついたら、俺には妻がいて娘がいた。
 なんだこれは?
 これは夢なのだろうか?』

 という感じで、父と娘の会話風に、「援助交際」がいけない理由を物語っぽくはじめてみた。
 今回はその7回目である。
 もちろん、援助交際という行為自体は良くも悪くもない。
 援助交際は、援助交際という名前のついた、ただの取引である。
 冷静に考えるなら、売り手が身体で、買い手の身体を、サービスして報酬を得るだけの、ただの取引だ。指圧などのマッサージと、何がどう違うのか?
 客の背中を手で揉むのは合法で、客のチンコをマンコで揉むのが違法な理由は、とくに無い。

 ただ、もはやいわゆる援助交際と呼ばれる行為は、社会的認知がとっくにすんでいて、子供の援助交際を取り締まる法律もできている。もはや誰もが援助交際はいけないと知っている。援助交際は、個人的な「売買春」なのである。
 でもなぜ、売買春がいけないのか?

 感情や倫理で、売買春は悪いと決めつけるのは簡単であるが、その根拠の説明を理論的に求められてもこじつけめいた苦しい理屈でしか答える事はできないだろう。
 人間の行為について、良いとか悪いとか分ける事の説明づけは不可能である。
 無理なのだ。
 せいぜい出来るのは、何に基づいて良いとか悪いとか説明するだけ。
 そう。
 基準。
 良いとか悪いとか分ける基準こそが、道徳であったり倫理であったり宗教であったり法律であったりする。
 良いとか悪いとか分けたいのならば、何を基準にして分けるのかを、きちんと見定めてから分けなければならない。
 自分の人生や自分の持ち物なら勝手に分けても良いが、他人の生き方をなんとなくで分けるのはとても危険だ。
 分けるとは、こういう分け方をするという決まりだ。
 その時の感情で適当に分けていたなら、自分も周囲の人間も混乱する。
 だからけして、感情で分けてはいけない。
 常に決まりに従って分けるべきだと思う。

 ただ分けるだけなら、動物だってやる。
 食べられる物、食べられない物。
 逃げるべき敵、威嚇するべき敵。
 動物は、本能的に分けるルールを身体に刻み付けているから、感情で分けてもいいけれど、人間は感情で分けちゃいけない場合が多い。
 例えば、ゴミ出しのルールや交通ルール。
 ゴミが溜まったからと勝手に出したり、高速道路で自動車をバックさせたりすると、他人と衝突する事になる。
 自動車で右側走行したいならアメリカに行けである。

 では、俺は何を基準にして売買春を悪いと言おうか?
 倫理も道徳も法律さえも所詮は信仰対象。
 価値観を信じる事では、どれも宗教と同じである。
 信じる物は救われる!
 なら。
 俺は何によって一番救われているか?
 この国の法律によってである。
 基本的人権を認めるこの国の法律によって、俺は生かされている。
 義務教育も受けさせて貰ったし、最低賃金を上回る賃金を常に雇用主から頂いてもいる。
 そこで。
 売買春がいけない理由を、この国の法律に求めよう。
 刑法である『売春防止法』などでなく、基本的人権の載る憲法を基準にしたい。
 人権で考えるなら、売買春は間違いなくいけないことである。

 人権意識とは、突き詰めるとオンリーワンだと俺は理解する。
 誰もが、誰にも侵害されないオンリーワン。

 物語世界に戻ろう。

 娘のみのりが言う。

「なんか、この物語は遅々としてなかなか進まないよね?」

 物語の進行が、著しく遅いということであろうか?
 更新も滞りがちだし。

「まぁ、父だしな!」

 と、答えたら、みのりはやっぱりとあきらめたような顔をした。