『俺は貧乏なフリーターで、子供はいない。
もちろん。
妻子を養育する余裕も無い。
だが、ふっと気がついたら、俺には妻がいて娘がいた。
なんだこれは?
これは夢なのだろうか?』
という感じで、父と娘の会話風に、「援助交際」がいけない理由を物語っぽくはじめてみた。
今回はその7回目である。
もちろん、援助交際という行為自体は良くも悪くもない。
援助交際は、援助交際という名前のついた、ただの取引である。
冷静に考えるなら、売り手が身体で、買い手の身体を、サービスして報酬を得るだけの、ただの取引だ。指圧などのマッサージと、何がどう違うのか?
客の背中を手で揉むのは合法で、客のチンコをマンコで揉むのが違法な理由は、とくに無い。
ただ、もはやいわゆる援助交際と呼ばれる行為は、社会的認知がとっくにすんでいて、子供の援助交際を取り締まる法律もできている。もはや誰もが援助交際はいけないと知っている。援助交際は、個人的な「売買春」なのである。
でもなぜ、売買春がいけないのか?
感情や倫理で、売買春は悪いと決めつけるのは簡単であるが、その根拠の説明を理論的に求められてもこじつけめいた苦しい理屈でしか答える事はできないだろう。
人間の行為について、良いとか悪いとか分ける事の説明づけは不可能である。
無理なのだ。
せいぜい出来るのは、何に基づいて良いとか悪いとか説明するだけ。
そう。
基準。
良いとか悪いとか分ける基準こそが、道徳であったり倫理であったり宗教であったり法律であったりする。
良いとか悪いとか分けたいのならば、何を基準にして分けるのかを、きちんと見定めてから分けなければならない。
自分の人生や自分の持ち物なら勝手に分けても良いが、他人の生き方をなんとなくで分けるのはとても危険だ。
分けるとは、こういう分け方をするという決まりだ。
その時の感情で適当に分けていたなら、自分も周囲の人間も混乱する。
だからけして、感情で分けてはいけない。
常に決まりに従って分けるべきだと思う。
ただ分けるだけなら、動物だってやる。
食べられる物、食べられない物。
逃げるべき敵、威嚇するべき敵。
動物は、本能的に分けるルールを身体に刻み付けているから、感情で分けてもいいけれど、人間は感情で分けちゃいけない場合が多い。
例えば、ゴミ出しのルールや交通ルール。
ゴミが溜まったからと勝手に出したり、高速道路で自動車をバックさせたりすると、他人と衝突する事になる。
自動車で右側走行したいならアメリカに行けである。
では、俺は何を基準にして売買春を悪いと言おうか?
倫理も道徳も法律さえも所詮は信仰対象。
価値観を信じる事では、どれも宗教と同じである。
信じる物は救われる!
なら。
俺は何によって一番救われているか?
この国の法律によってである。
基本的人権を認めるこの国の法律によって、俺は生かされている。
義務教育も受けさせて貰ったし、最低賃金を上回る賃金を常に雇用主から頂いてもいる。
そこで。
売買春がいけない理由を、この国の法律に求めよう。
刑法である『売春防止法』などでなく、基本的人権の載る憲法を基準にしたい。
人権で考えるなら、売買春は間違いなくいけないことである。
人権意識とは、突き詰めるとオンリーワンだと俺は理解する。
誰もが、誰にも侵害されないオンリーワン。
物語世界に戻ろう。
娘のみのりが言う。
「なんか、この物語は遅々としてなかなか進まないよね?」
物語の進行が、著しく遅いということであろうか?
更新も滞りがちだし。
「まぁ、父だしな!」
と、答えたら、みのりはやっぱりとあきらめたような顔をした。
もちろん。
妻子を養育する余裕も無い。
だが、ふっと気がついたら、俺には妻がいて娘がいた。
なんだこれは?
これは夢なのだろうか?』
という感じで、父と娘の会話風に、「援助交際」がいけない理由を物語っぽくはじめてみた。
今回はその7回目である。
もちろん、援助交際という行為自体は良くも悪くもない。
援助交際は、援助交際という名前のついた、ただの取引である。
冷静に考えるなら、売り手が身体で、買い手の身体を、サービスして報酬を得るだけの、ただの取引だ。指圧などのマッサージと、何がどう違うのか?
客の背中を手で揉むのは合法で、客のチンコをマンコで揉むのが違法な理由は、とくに無い。
ただ、もはやいわゆる援助交際と呼ばれる行為は、社会的認知がとっくにすんでいて、子供の援助交際を取り締まる法律もできている。もはや誰もが援助交際はいけないと知っている。援助交際は、個人的な「売買春」なのである。
でもなぜ、売買春がいけないのか?
感情や倫理で、売買春は悪いと決めつけるのは簡単であるが、その根拠の説明を理論的に求められてもこじつけめいた苦しい理屈でしか答える事はできないだろう。
人間の行為について、良いとか悪いとか分ける事の説明づけは不可能である。
無理なのだ。
せいぜい出来るのは、何に基づいて良いとか悪いとか説明するだけ。
そう。
基準。
良いとか悪いとか分ける基準こそが、道徳であったり倫理であったり宗教であったり法律であったりする。
良いとか悪いとか分けたいのならば、何を基準にして分けるのかを、きちんと見定めてから分けなければならない。
自分の人生や自分の持ち物なら勝手に分けても良いが、他人の生き方をなんとなくで分けるのはとても危険だ。
分けるとは、こういう分け方をするという決まりだ。
その時の感情で適当に分けていたなら、自分も周囲の人間も混乱する。
だからけして、感情で分けてはいけない。
常に決まりに従って分けるべきだと思う。
ただ分けるだけなら、動物だってやる。
食べられる物、食べられない物。
逃げるべき敵、威嚇するべき敵。
動物は、本能的に分けるルールを身体に刻み付けているから、感情で分けてもいいけれど、人間は感情で分けちゃいけない場合が多い。
例えば、ゴミ出しのルールや交通ルール。
ゴミが溜まったからと勝手に出したり、高速道路で自動車をバックさせたりすると、他人と衝突する事になる。
自動車で右側走行したいならアメリカに行けである。
では、俺は何を基準にして売買春を悪いと言おうか?
倫理も道徳も法律さえも所詮は信仰対象。
価値観を信じる事では、どれも宗教と同じである。
信じる物は救われる!
なら。
俺は何によって一番救われているか?
この国の法律によってである。
基本的人権を認めるこの国の法律によって、俺は生かされている。
義務教育も受けさせて貰ったし、最低賃金を上回る賃金を常に雇用主から頂いてもいる。
そこで。
売買春がいけない理由を、この国の法律に求めよう。
刑法である『売春防止法』などでなく、基本的人権の載る憲法を基準にしたい。
人権で考えるなら、売買春は間違いなくいけないことである。
人権意識とは、突き詰めるとオンリーワンだと俺は理解する。
誰もが、誰にも侵害されないオンリーワン。
物語世界に戻ろう。
娘のみのりが言う。
「なんか、この物語は遅々としてなかなか進まないよね?」
物語の進行が、著しく遅いということであろうか?
更新も滞りがちだし。
「まぁ、父だしな!」
と、答えたら、みのりはやっぱりとあきらめたような顔をした。