墨汁日記

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歪んだ性

2007-08-12 20:21:26 | 駄目
 江戸時代までは、それ以後の明治・大正・昭和時代に比べるなら、現在ほどではないかもしれないけれど、女はセックスに対してわりと奔放でいられたらしい。
 貞操観念が国民に植え付けられたのは、明治になってからだと思う。

 女の体には、男や世間にとって利用価値があると前に書いた。

 その利用価値とは。

 男にとってセックスの相手であるという価値。
 世間にとって子供を産む母体であるという価値。

 江戸時代が終わるまでは、女は、主に母体としての価値に重点がおかれていた。  男のセックスの相手という価値には、あまり重きがおかれなかったようだ。
 だから、逆に言うなら価値が低いから女はセックスに対して、わりと奔放でいられたのかもしれない。
 明治以前の、夜ばいや乱交の記録は多い。

 大陸から輸入された儒教は、女の貞操を尊いとした。
 妻は主人に操をささげろという思想であるが、この考えは、武士など支配者階級の道徳とはなったが、搾取される一般庶民にまで浸透するような道徳ではなかったらしい。
 そもそも、儒教は封建制度を正当化する為に存在するような道徳で、支配される庶民にはなかなか浸透しにくい。

 もちろん、セックスに対して奔放だからと言って、女が差別されていなかったワケでなく、また、当時の女性差別は地域差が激しい。
 とにかく、男尊女卑の考え方や、女を穢れと見る考え方は、江戸時代には日本各地に広く深く浸透していたようだ。
 だが、それでもともかく、日本では、女体はセックスの相手ではなく、子供を産む母体である事に最も重点が置かれていた。

 封建制度の時代に人権意識など全く無い。
 とにかく身分が問題であり、男だろうが女だろうが、身分で分けられる。
 女性差別よりも、身分による差別の方が大きかった。
 丁稚奉公で大店に預けられた人間は、もはや店の主人の所有物である。奉公人を殴ろうが蹴ろうが主人の自由である。
 大店の番頭でさえ、所帯を持つ事はほとんど禁じられていたそうで、大店の番頭になってでさえ半人前扱いなのである。
 奉公人は店の主の所有物にすぎなく、主人から、のれん分けしてもらい、自分の店を持ててはじめて一人前とされ、それでやっと所帯が持てる。
 下女なんか、旦那様に手込めにされたなら、他の下女に対して大きな顔ができるような時代だ。ましてや、正妻に子供がいないのに下女が旦那様の子供なんか産んだ日にゃ万々歳。

 封建制度の時代は、ご主人様本位の結果主義で、黙って主人の言う事を聞き、主人の得になる奉公人が尊ばれた。

 だが、幕末維新を経験し、西洋諸国の脅威を認識し、富国強兵を指針とする明治の世の中になって状況が変わった。
 明治の政府は、全ての日本男子が兵になることを義務づけた。
 四民平等とは、全ての日本男子を武士とする事であった。
 その為に、まず武士の価値観であった儒教が庶民に道徳として導入された。
 次に、西洋の価値観も輸入され新しい価値観として導入される。

 儒教の考え方と、キリスト教の処女崇拝みたいな思想が、日本の男に、女は貞操を第一とすべき、処女は尊いみたいな考え方を植え付けた。それによって、女は結婚するまで処女を守り、結婚後は貞操と子供を守る事になった。それ以外の女の生き方は卑しいとされた。 女は結婚するまで処女を守り妻になる他に道はないのだとされた。
 夫は兵として労働者として国を守る。
 妻は夫を助け新しい兵を産み育てる。
 こうして、法律婚した夫婦を最小単位として国に尽くさせる明治的な家父長制度が完成した。 

 かってわりと普通だった庶民の自由選択によるセックスは卑しいとされ排除された。恋愛という言葉は西洋からの輸入品であり、その恋愛は尊いとされたが、古くからの色恋沙汰は、いやらしいと禁じられていく。
 そもそも色恋は、日本においては平安貴族や、戦国の男娼をはべらかすような武将、または遊郭で女遊びをする江戸の金持ちだけなんかに許されたような、特権的な遊びであった。 また、そもそも恋愛という概念がないので、誰も恋愛など経験したことがなかった。

 ギリギリで生きている人間にとって、色恋やセックスなんか遊びにすぎない。
 余裕があるから異性に惚れたりセックスなんかをしたりする。
 余裕が無い人間は、誰かを好きになったりセックスなんかしない。
 昔は、世間にあまり余裕がないなかったから、女は、ズバリ子供を産む為の母体だった。色恋や、セックスなんかは、庶民にとって余裕がある時の道楽だ。
 たまたま女にちょっと余裕がある時に、気に入った男に対して只でセックスをやらせてあげるよという行為を、いやらしいと明治の道徳は排除した。
 これは、西洋諸国の侵略に怯えた明治の政府に余裕が無かったからかもしれない。 儒教とキリスト教が入り交じる価値観が、セックスにまとわりつき、女は結婚するまで処女を守る妻とその予備軍、または男の性的妄想を処理する売春婦のどちらかに分けらることになった。(後家などの例外はあるが)

 その結果、男にとって、女は、養うか金を払わなければ抱けないという状況となった。明治時代になって、妻子を養う経済力か、少なくても売春婦を買うだけの金が無ければ、男は女を抱けない仕組みとなったのだ。
 だから、男は女を抱きたくて必死で金儲けをしたという面もある。

 封建主義的の道徳と西洋的価値観。それに、国益が融合して、おおらかであったはずの女のセックスを抑圧した。
 同時に、セックスに対してそれまで日本になかった悪いイメージが国民に浸透する。江戸時代までの男は、処女崇拝などしなかったし、只でセックスをさせてくれる女を軽蔑などはしなかった。

 価値がある物は、必ず取引の材料となり、値段がつく。
 資本主義と女の価値が結びつきた時に、女の性は完全な売り物となり、それが新しい女性差別となった。


津久井昇さんという作曲家を探しています

2007-08-12 16:40:39 | 受験・学校

 福岡県の柳川市立昭代第二小学校にお勤めの方から、縁あって人探しのご依頼を受けました。でも、私にはご依頼に答える事が出来ませんでした。
 そこで、相手に了承を得て、このブログで紹介させて頂く事にしました。なにか情報をご存知の方はお知らせいただけたら幸いです。



<津久井 昇 様という作曲家について消息を調べております>



1、津久井様は、柳川市立昭代第二小学校校歌の作曲者です。

2、津久井様は、東京音楽学校(現 芸大)の出身です。昭和9年の作曲ですから、生きておられたなら、かなりのご高齢だと思われます。
(校歌の作詞者は、当時柳川小に勤務された方ですが、その後芦屋町に転勤され、出征され戦死なされたことが確認されました)

3、津久井様は、昭和9年当時の楽譜に「東京 津久井昇」と書かれていますので、東京在住か東京出身だと思われます。

4、近親者の方に連絡をとりたいと思います。津久井様が、どんなご縁で柳川の小学校校歌を作曲されたのかも是非知りたいのです。

5、これまで70年以上も歌い継がれてきた校歌を、作詞家と作曲者の人物像から明らかにすると共に、九州の片田舎の校歌ですが、70年以上歌い継いできたことを津久井様のご親族にもお知らせできればと願っています。



 なにかご存知の方がございましたら、この記事へのコメントか、メールでお知らせ下さい。メールアドレスは下記です。なにとぞ宜しくお願いします。



qqya6kf9@mist.ocn.ne.jp