墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

止まらないバイク

2006-06-29 19:38:53 | 駄目
 新聞配達のバイトに行ったら、いつも乗ってるバイクがない。
 聞くと、誰かが乗って行っちまったらしい。

「止まらないけど、このバイクに乗って行ってよ」

 止まらないって、何が止まらないんだ?

 エンジンがとまらないらしい。
 キーの差し込み口が壊れていて、キーを回すと差し込み口も一緒にグルグル回る。
  幸いにして、キーの差し込み口は「始動」の位置で壊れている。新聞屋のカブはキックでエンジンをかけるから、始動に問題はない。だが、これでは確かにエンストさせる以外にエンジンを切る手だてはない。

 なんにしろ、エンジンは止まらないけど、走るんだから自転車や徒歩よりは何倍もマシだ。このバイクで配達に出かける。

 で、配達を終えて、店に帰ってみて困った。
 バイクを片付けて帰りたいのに、エンジンを切る手だてがない。
 新聞屋のカブはいつまでもいつまでもブルブル言っている。まだまだカブは走る気満々だが、俺は家に帰りたい。しかし、ノークラッチのバイクをエンストさせる手段が思いつかない。朝刊の配達をした人間はどうやってエンストさせたのだろう。
 クラッチがあるなら、エンストさせるのは赤子の手をひねるより楽勝だ。ギアをいれてクラッチをつないでアクセルを開けなければすぐにエンストする。
 キル・スイッチのあるバイクなら、さらにエンストは胎児の手をひねるのより楽勝だ。だが、業務用のカブにキル・スイッチなんてついてはいない。

 どうしようかな。

 キーが壊れていて、エンジン絶好調のカブを止める手段がなかなか思いつかない。
 ガソリンがなくなりゃ勝手に止まるだろうけど、それはあまりに不経済だ。
 店の人に相談するが、やはりどうしようかなという顔をする。

 フッと電光石火で電気が脳をかすめる。

 そうか、電気。プラグだよ。
 プラグ・コードに手をのばし、引き抜こうとしたら、店の人に注意された。

「危ないっ! バチバチッてくるよ!」

 たしかに、素手でプラグ・コードを引き抜くのはバチバチッと危険そうだ。
 だが、俺のアイデアはいけると思ったのか、店の人は長いプラスのドライバーを持って来て、そいつをプラグ・コードに引っ掛けて引き抜いた。

 バチバチッ!

 一瞬、火花が飛んでカブのエンジンは止まった。


木曜の朝

2006-06-29 06:02:27 | 携帯から
昨日の夜、目覚ましをかけるのを忘れて寝ていた。なんとなく起きるともう家をでないとまずい時間で、服だけ着てあわてて家を出る。ギリギリで間に合う時間に目が覚めたのはラッキーだった。

東の空に薄い雲が広がる、太陽は雲を透かして光の円盤となり上空にある。東の空以外には青空が広がり、晴れている。風は弱く適温。今日も暑くなりそうだ。


徒然草 第二十四段 斉宮

2006-06-28 19:07:59 | 新訳 徒然草

 斎宮の、野宮におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか。「経」「仏」など忌みて、「なかご」「染紙」など言ふなるもをかし。
 すべて、神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。もの古りたる森のけしきもただならぬに、玉垣しわたして、榊に木綿懸けたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮。

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<口語訳>

 斎宮の、野宮に御座います有様こそ、やさしく、面白い事の限りとは覚えた。「経」「仏」など忌みて、「なかご」「染紙」など言うのもおかしい。
 すべて、神の社こそ、捨てがたく、なまめかしいものでないか。もの古びた森の景色もただならなくに、玉垣わたして、榊に木綿懸けるなど、すごくないか。殊におかしいのは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮。

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<意訳>

 斎宮が、野宮に滞在しておられた様子は、優美でたいへん感心させられた。神域である野宮では、「経」や「仏」などの言葉を忌み「なかご」「染紙」などと言い換えられており趣きがあった。

 すべての神社は、捨てがたい自然な美しさを持つ。うっそうと古木の茂る森はただならなく、玉垣はりめぐらし、榊に御幣たなびく風景は凄まじいほどだ。
 特に趣きある神社は、伊勢、賀茂、春日、平野、住吉、三輪、貴布禰、吉田、大原野、松尾、梅宮。

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<感想>

 兼好の時代。新しい天皇が即位する度に、皇族の若い未婚の娘から「斎宮」が選ばれた。斎宮は、京都から伊勢に下り、伊勢神宮で天皇にかわり朝廷の平安を祈り天照大神を祭った。
 伊勢神宮にこもる前の斎宮が、一定期間、身を清める為にこもるのが「野宮」である。

 兼好は、京都の吉田神社に仕える卜部一族の出身であった。父や兄弟は朝廷で神祇官を勤めていた。「神社の子」は、兼行を理解するキーワードの一つである。
 神や天皇を敬うように教えられて育った子供が、神や天皇を敬うのは当然のこと。しかし、この文章を書いた時の兼行は、たぶんだけど、すでに法師なのである。神社の子だったんだけど、この段を書いた時には仏門の人。だから、この段を書いた時には、今の自分は一歩離れて神や天皇を見ていますよというポーズが必要だった。坊主にもポーズが必要だ。

 神道の基礎知識を持つ兼行は、神道の神域内で仏の教えは「邪教」として忌み嫌われていたのは当然に知っていただろう。
 だから、わざと間違えて逆に書いたのではないだろうか。
 本当は、「仏」が「なかご」で、「経」を「染紙」と言い換えていた。だけど、この24段の本文ではそれを逆に書いてある。どっちがどっちなんだか、よく分からないようにはぐらかしている。

 説明の為に、テキストとしている『新訂 徒然草』(岩波書店)にある解説を引こう。

『およそ、忌みことば、うち七言、仏は中子(ナカゴ)と称し、経は染紙と称し、塔は阿良良岐(アララギ)と称し、寺は瓦葺きと称し、僧は髪長と称し、尼は女髪長と称し、斎(イモヒ)は下膳(カタシキ)と称す(以下略)』(『延喜式』第五)

 そういった忌み言葉を、神社の子である兼好は良く知っていたはずだ。
 でも、今は仏門の人間であるから、神社の事なんか詳しくないよという態度を示したくて、わざと間違えて書いた可能性もある。

 だがまぁ、なんだろうとも、神社は「捨て難く、なまめかしき」神域に思えると兼好は書いている。
 まぁ、とにかく、兼好にとって神や天皇は信仰そのものだったのだろう。
 そして、どうやら、兼好は実際に斎宮が野宮にこもっているのを実際に見た事があったらしい。
 その記憶を元に、慣れ親しんだ神社の風景を思い出しつつ、昔をセンチメンタルに懐かしんで書いているのがこの段だ。

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<丸写し解説>

『斎宮』(さいぐう)
 天皇の即位の度に選定され、伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女。

『野宮』(ののみや)
 斎宮が伊勢神社に御仕えする前に心身を清め、けがれをさける為に一定期間こもった仮宮。

『玉垣』
 神社の周囲にはりめぐらした垣。材木を組み合わせて造り、屋根がついている。

『木綿』(ゆふ)
 木の繊維で造ったひも状の布。神に祈る時に供える。現在の紙製の御幣の元祖。

『伊勢』

 伊勢市の伊勢神宮。(←斉宮の目的地) 

『賀茂』
 京都市の賀茂別雷神社と賀茂御祖神社。

『春日』
 奈良市の春日大社。

『平野』
 京都市の平野神社。

『住吉』
 大阪市の住吉神社。

『三輪』
 奈良県桜井市三輪町の大神神社。

『貴布禰』
 京都市の貴船神社。

『吉田』
 京都市の吉田神社。(←兼行の本家)

『大原野』
 京都市の大野原神社。

『松尾』
 京都市の松尾神社。

『梅宮』
 京都市の梅宮神社。

参考「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波書店

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<読解のために>

 占いで斎宮に決まると宮中内に設けられた初斉院で約一年間、つづいて嵯峨野の野の宮で約一年精進潔斉し、決まってから三年目の九月に天皇に「別れの」をさしてもらい、伊勢に旅立った。『源氏物語』<賢木>では、六条御息所の娘が斎宮になり、親子で野の宮で潔斉しているところを源氏が訪ねる場面や、「別れの」をさしてもらい出発する場面などが語られている。

 伊勢では、斎宮寮に居住し、天皇に代わって天照大神を祭った。日常生活は、仏事を避け、斎宮忌詞という特殊な言葉遣いをし、潔斉に務めた。『伊勢物語』<六九>では、斎宮と昔男との恋が語られている。

 天皇の交替か両親の死、および本人の過失などがあると任を解かれて帰京した。帰京後に入内して女御になった場合に斎宮女御と呼ばれることもあり、『源氏物語』では六条御息所の娘が、史上では徽子女王が村上天皇に入内してこの名で呼ばれた。

 なお、斎宮制度は天武天皇の時代に整備され、後醍醐天皇の時代に廃れた。

 「全訳読解古語辞典」 三省堂 より抜粋。


権威でも売ろうかな

2006-06-27 20:16:58 | 駄目
 君達は「権威」とかに、興味はないかな。
 俺は、まったくないけど、俺はこうみえても「俺」の最高権威だ。
 たぶん、この先に「俺」以上の「俺」はもう生まれないだろうという確信がある。
 俺は、オンリー・ワンで、ホールイン・ワンの、最高の「俺」なのである。
 俺の後には俺はいない。
 俺は後にも先にも俺だけだ。

 だから、この俺は、ある意味とかなんて、謙遜はぶっちゃけ抜きにして、たぶん、今世紀最大にして、歴史上最高の『俺』である。
 これ以上の『俺』は、もはや二度とあらわれないだろう。

 こんな、俺のお墨付きは、君達は欲しくないかね?
 欲しいのなら、分けてしんぜよう。

 欲しい方は、この記事のコメント欄に、「お墨付き希望」と書いて、投稿しなさい。
 交通費さえくれたら、たとえ、地の底だろうが、地球の反対側のブラジルだろうとも、筆と墨汁を持っておしかけ、あなたの好きなところに墨をつけよう。
 お代は、墨のつき具合。