墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

よくよく

2007-12-26 20:18:35 | 駄目
 理論武装という言葉を信じない。

 まず、言葉は意思疎通の為の道具である。

 そのように進化した。

 言葉で意思が通じ合うはずと、互いにそう思い、なんとか馴れ合う為にだけ言葉は進化してきたのだ。

 言葉はモールス信号と同じで、発信者は常に孤独なツー・トンなのだ。その、暗号みたいなツー・トンを理解してくれようとする協力者がいないかぎり、電波がアンドロメダ星雲まで届こうと、ただの雑音だ。

 言葉は、伝える為にある。
 いや、もっと言うなら、互いの物語を紡ぐ為にある。
 もちろん、その物語は互いの誤解であるかもしれない。
 だが、発信者と受信者がいて、言葉は言葉として成立する。

 なんとか通じ合おうという必死な思いが言葉であって、言葉は他人を打ち負かす為になんかあるのでは絶対ない。
 言葉は言いたい事を伝える為だけに本当はあるのだ。
 
 理論武装したいならすれば良いが、誰にも通じない難しい言葉をいくら巧みに操ろうとも、そんなあなたが語る内容はきちんと誰にも理解されないだろう。
 誰にも理解されないそんな理論なんか俺はいらない。
 俺は俺の言いたい事を俺の死ぬまでに一言でも多く人に伝えたいと思う。

 俺は死にたくない。
 なのに死ぬ。
 親父の説教でも良いから、できるだけ若い人の記憶に残りたい。

 死にたくない。
 分かってもらいたい。


よく

2007-12-26 19:52:31 | 駄目
 正月だろうがクリスマスだろうが大安だろうと、いまも誰かがどこかで必ず人が死んでいる。

 だが、気にする事は別にない。
 誰だって必ず死ぬし、俺だってあんただって必ず死ぬ。

 幸福とか不幸なんて価値観にすぎない。
 平安貴族だって、現在の生活レベルからみたら素朴で、クーラーにガリガリ君もパソコンや携帯さえ持たないような貧しい連中だったのだ。
 ベルサイユ宮殿だって華やかなだけで、快適さだけなら明らかに現代人の方が勝っている。
 快適さと清潔に慣れすぎて現代人は少し精神が貧弱だと思う。

 なんてね。

 ニーチェを説く永井均は、道徳は復讐であると語るが、俺は復讐するのは道徳でなく宗教だと思う。
 道徳は多数派による少数派へのリンチであり、弱いものいじめだ。
 道徳は復讐ではない、弱いものいじめだ!

 だが、宗教の原点なら、ルサンチマンによる復讐だと納得できる。

 せっかく産まれたのに何で僕は死ぬの?
 ってのが仏教の原点。

 荒ぶる神(自然や運命)に対して、なかば恨みを抱きつつも、どうか私たちと仲良くして下さい。
 ってのが神道の原点。

 権力者ではなく、権力者よりはるか上位にいる神(という設定)に従う事で、自分のプライドを保持する。
 ってのがキリスト教の原点。

 人々の恨みを正当化させようとしたなら、それなりの装置が必要となるだろう。
 それが宗教である。
 宗教はどうにもならない恨みを正当化する為の装置だと思う。
 だから、宗教の言う事はあてにならない。
 たぶん、どこにも天国や地獄はないだろう。
 来世もない。
 人間は死んだら死ぬ。
 もう終わり。