墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

目的と手段

2007-12-02 22:56:10 | 駄目
 殺したいほど憎んでいる人間を殺すのは、殺したい人間の消滅や、相手への復讐が目的であって、人殺しはその手段にすぎない。

 強盗殺人の目的はたいてい強盗であって、殺人は手段だ。

 レイプ殺人だと少しめんどうで、レイプが目的で女に騒がれたから殺した場合なら殺人はレイプをする為の手段であるが、死んだ女にしか欲情できない男の場合ならば女を殺してレイプする事が目的となる。

 個人の犯す犯罪では、人殺しそのものを目的とする犯罪は少ない。
 なんらかの目的の遂行の為に殺人を手段に選ぶ犯罪の方が多い。

 その点で考えるなら、敵軍の勢力を粉砕する事、敵兵の頭数を減らす人殺しそのものを目的とした「戦争」はとても罪深いように思える。

 望んで人を殺す人間は少なく、目的の手段の為に仕方なく人を殺すのがほとんどだ。正当防衛による殺人もその一例である。

 ただの個人にすぎない、たいていの我らは、タブーうんぬんを差し引いてさえも、なにか本能的に自分では責任の取りようもない取り返しのつかない事態を避ける傾向がある。もちろんそれが自己保身に繋がる事をなんとなく理解しているからだ。
 どの個人も共同体に依存しながら、共同体からの復讐をなによりも怖れているので、罰せられるような罪は犯さないようにする。もしくは、犯しても隠そうとする。

 だから、人殺しが目的の人間は、誰にもばれないように人を殺そうと努める。

 人殺しを手段として殺人を犯した人間も、捕まりたくないと思って自分の罪を隠そうとする事では一緒ではあるけれども、決定的な違いは人殺しが目的か手段かという事である。

 殺人そのものを目的とする、自己の快楽を求めての殺人。殺人が目的の人間は捕まらないように工夫して殺人を犯す。
 警察なんかに捕まったら、なにより唯一の快楽を奪われてしまうのだから、絶対に捕まりたくなんかないだろう。
 殺す事そのものが愉しくて、殺人を目的として人を殺す人間の心性は今の俺には良く理解できない。だが、何が楽しくて人を殺すのかを理解しなくてはならないだろうと思う。

 死刑にされたいとか、世間をビビらせたいとかいうのが目的の宅間守にとって殺人はその手段にすぎず、人殺しがとくに好きなワケではなかったように思える。


お手軽な犯罪

2007-12-02 21:58:08 | 駄目
 宅間守にとって殺人は手段であり、目的ではなかった。

 児童を殺したいから殺したわけではない。
 児童殺しは目的ではなく、目的を達成させる為の手段である。

<宅間守の目的>

1、もう死にたいけど自殺は自分には無理なので死刑にしてもらいたい。

2、でも、どうせ死ぬなら、宅間守は凄い奴だったと世間に思わせたい。

<宅間守の性格>

1、極度に自己愛の強い性格で、衝動を理性で抑えるのが苦手。

2、衝動的な行動が多く人から誉められた事はないが、強い自己愛ゆえに常に人から賞賛されたいと望んでいた。

3、人がやらないような酷い事をすると周囲の人間が自分を畏れる事を知り、尊敬されなくても人から畏れられれば自分の自尊心が満たされる事を知った。
 最後には衝動のまま人から畏れられるような事を繰り返したあげくドツボにはまって自殺を考えたが、無理なので死刑にしてもらおうと凶行にはしる。

<宅間守の手段>

 事件後に彼はいろいろ言っているが、結局は自宅の近所だし殺しやすかったから小学生を狙ったのだろう。警察に逮捕されないような難しい犯罪を犯すほどの能力は彼にはない。


ニャンパラリ

2007-12-02 21:09:09 | 駄目
<お詫び>
 この先の記事には、附属池田小事件の被害者や遺族の方々にとって大変に不快な内容が含まれております。? 申し訳ありません。誠に勝手ではありますが、事件の関係者にはこの先を読んでいただきたくないと願います。? 死者を冒涜するのがこの記事の目的ではありません。ですが、記事の1部に、加害者を弁護するような内容が含まれており、大変に読み苦しいと思います。? 亡くなられた方々の冥福を心よりお祈りいたします。
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 うちの親父の実家は幼稚園で、園長だった祖父は坊主でもないのに仏教を教育理念としていた。
 まだ、祖父が生きていた頃は、年に何度も何かある度に、親父に連れられ家族みんなで実家に行った。そういえば、妹が産まれた前後にだいぶ長く実家に預けられていた記憶もある。
 そんなワケで、実家の幼稚園で教育を受けた事はないけど、いつの間にか祖父の幼稚園の教育理念みたいなものが俺にも身に付いてしまった。

 中でも、生き物の命を大切にしましょう。一寸の虫にも五分の魂みたいなのが、身にしみ込んじまっていて今でも生き物を殺すのが苦手だ。
 食べるのが目的の釣りだとか、刺す蚊などなら殺せるが、意味もなく小動物の生命を奪う行為は俺にはできない。
 カエルも殺せない。
 本当に殺してやるという殺意だけで殺せるのは蚊ぐらいだろうか。

 ただ、小学生の頃にハムスターを飼っていた事があった。
 妹が母にせがんで飼いはじめたのだが、いつの間にか兄妹で共同に飼っているみたいな事にされてしまい、ハムスターのカゴ掃除を交代でやらされた。しかし、当時の俺はそれを苦々しく思っていた。面倒くさいし、臭いし汚いから掃除なんかやりたくなかったのだ。嫌々に飼っている動物で子供の情緒は育たない。
 それなある日、ハムスターのカゴの掃除当番をさぼった事を母にとがめられ、頭にきてハムスターのカゴに八つ当たりした。足でカゴを蹴っ飛ばしたのだ。
 母に怒られて、吹っ飛んだカゴをもとに戻して掃除をはじめた。ハムスターに外傷はなかったが、ひどく怯えた様子で、次の日の朝には、たぶん極度のストレスからだろう、ハムスターは死んでいた。

 まだ20代の頃、セーブをしていない、いいかんじだったゲームのリセット・ボタンを踏んだ飼い猫を怒りでむんずとつかんで壁に投げつけた事がある。
 猫なので身軽だから怪我はしなかったが、かなり驚いたらしく、それからしばらくの間まったく俺になつかなくなった。

 普段はノホホンとしているのだが、どうも俺は激しい怒りの衝動を抑えるのが苦手で、発作的にとんでもない事をしてしまう。

 生き物を飼う資格もないと反省するが、殺意がなくても暴力的な衝動を抑えられなけば生き物を殺してしまうことがある。


うん

2007-12-02 08:36:10 | 駄目
 昨夜、帰宅したら玄関に招き猫をあしらった風鈴がかざられていた。

 その招き猫は、年末ジャンボかサマージャンボかのキャラクターで、宝くじのまわしものだ。

 『当たりますように』とか印刷されてあるから、うちのおふくろが、宝くじが当たりたい一心で玄関に飾ったのだろう。
 お守りの一種であろうが、そんなもので運が引き寄せるのかどうか疑問だ。

 おふくろも俺も、運気という存在を信じているあたりでは同レベルだが、世代の差なのか、考え方の差なのか、おふくろと俺では「運気」に対する考え方が違う。

 おふくろはお守りも占いも信じるが、俺は占いはもしかしたらとか少し思うけれども、お守りはまるで信じない。

 おふくろは「運気」を、身につけられる量だと思っているらしい。
 運に量があると思っているから、その人なりに運気には量があり、それを増幅させたいとお守りに頼るのだろう。

 俺は「運気」を波だと考えている。
 バイオリズムだ。
 基礎体温が変動するように運にも高低差があり、そもそも平均体温は人によって違う。だから、風邪でもないのに体温が高い日が続くように、運が良い時は連続して幸運に恵まれる。また、人間の運の持ち分に際限はなく、運が良い人間はどこまでも波に乗り切る。運に尽きは無い。
 運に量は存在しない、ただの波だ。
 そう考えてるから俺にお守りは必要ない。

 運命は、良い方に増幅したり、悪い方にケチがつく事もない。
 しょせんはザザーンってバイオリズムであり、大波小波。
 まぁ、海岸によっては波が荒い所や静かな場所もあるように、いる場所によって波だって変化する。
 それが運の大小であり、誰もが同じ場所にはいないように運だっている場所で変わる。

 では、あなたが障害児の親であったり、あなたが障害を背負うのは、運気の波の満ち引きのせいなのだろうか?

 いや、少なくても、どんな結果にもなんらかの必然がある。
 どんなに納得のいかない結果も、あなたがそれに直接に関係していなくても、それはなんらかの必然の積み重ねの結果であり、結局はなるようにしかならない。

 波には逆らえない。なるようにしかならない。

 当たりくじは誰がいつ買おうと当たる。買わなきゃあたらないけどね。


日曜の朝

2007-12-02 07:48:07 | 駄目
 朝の4時20分頃に目を覚ました。

 布団の上で掛け布団にくるまってしばらくグダグダしていたが、やっと、さすがにまだ起きるには早いと考えつき、酒でも飲んで寝直そうかと5時過ぎにビールを買いにコンビニへ出かけた。

 夏ならともかく、まだ日も昇らない師走の早朝、夜明け前のこの街で歩いている人は見かけない。
 自分以外は誰もいない道をコンビニまで歩いて行く。

 明るい街灯に目をくらませながら、わずかに明けかけた夜空を眺めると、赤みがかった黄色い星がまず目につく。南西の上空で輝いている赤い星、あれが火星であろうか。

 さらに、あごをあげ、目を頭上に向けると、南の上空に半分になった月が見えた。これは下弦の月なのだろうか。

 コンビニに行くと、書籍のラックの1番目につきやすい場所に、『リアル』と『バカボンド』の最新刊が並んで置いてあったので、さっそく『バカボンド』を立ち読みした。
 その凄まじい描写力に圧倒されつつも、『ベルセルク』のガッツが襲い来る騎士団を1人で壊滅させるシーンを思い出してしまった。
 だが、斬られる側の心情をきちんと描いている点や、武蔵を人間として描いている点などに重きを置いた描写は、やはり考え方の違いからなのだろうなと思う。
 その事はタイトルの付け方からしてあらわれている。
 バカボンドは「はぐれ人・浪人」という意味で、ベルセルクは「狂戦士」という意味だと聞く。
 ところで、『バカボンド』は初期の頃と比べて、ペンタッチがまるで変わっていて今では劇画のようだが、最近の井上氏はペンでなく筆でバカボンドを執筆しているという噂は本当であろうか。

 ビール2本と、おにぎりを買ってコンビニの外に出たら、夜が静かに明けかけていた。
 空に目をやるとカラスが横切っていくのが見える。